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つ・た・わ・ら・な・い

R5年5月~8月に読んだ本は写真の3冊だった。内容はどれも刺さる部分があった。言葉が通じる、まっすぐに伝わるとはどういうことかと考えていた。そこから派生して考えたことをここへ書く。

※1「伝えたいことが伝えられない 助けてが言えない 伝えたいことの1mmも伝わらない 中途半端に伝わり不正確に理解されるくらいなら理解されない方がいい 伝え方が分からない ぴったり完全に自分の思いを理解させる伝え方が分からない だから伝えない 助けを求めない
 一番になりたい 一番に自分のことを思ってほしい 自分を思ってくれていると分かる言葉を言ってほしい 言わせたい 会話の流れ・相手の気持ちはコントロールできないのにコントロールしようとしている
 自分視点と他者視点を行き来する 自分の事を考えるべき時に考えられない 他人の事をそこまで考えなくてもいい時に考える 他人の意見を取り入れた方がいい時に自分の意見を通す 視点は時に上方に移動し全体を俯瞰する視点を取り、めいっぱいの正義感で大胆行動 苦しい嫌だと言いつつも自己犠牲みたいな行動を続ける」

※1から私は、自閉スペクトラム症(ASD)特性、つまりは言語化の苦手さ、緘黙、一番病、頑なさ、完全癖、細部へのこだわり、自他概念の乏しさ等を感じ取る、時々一人で。どんな精神科医もどんな支援者も皆こぞってそう感じ取るのなら混乱がないが、現段階ではまだそうではないみたいだ。※1をパーソナリティ障害や社交不安症などと捉えて文脈を編んでいくのか、発達障害と捉えて文脈を編んでいくのか。人の話の編集作業は難しい。

人っていうのは複雑だよね、一人一人の人生は要約できないね、Dr.によって診断名は変わりうるね、診断名によって生きづらさが自分のせいだけになったり親とか社会だけのせいになったりはしないから大丈夫だよ、と笑えたらそれでいいのだろうか。正否を論じるのではなく。白黒思考の皆と、白黒に帰さない練習をこの件でもできたらいい。この混沌を抱えられたらいい。

どこに行っても、あなたは発達障害ではない、と言われ、ずっと発達障害の診断がつかず、”自分は発達障害だからこれまで生きづらかった”という文脈に寄り添ってもらえず絶望する、という最近よくある現象を、発達障害(特に見逃されやすいとされている“女性ASD”)の診断基準に列記してくれたらなあ、と少し変なことまで思った。発達障害者自身だけでなく、発達障害を多く診ている少数の支援者もまた、他の支援者達と診立てが合わなくて話が通じないことで同じような絶望感をいだきながら孤軍奮闘している気がした。発達障害診療に関して、時代はまだこの段階にとどまっている。

伝えられない、伝わらない。

発達障害者は、発達障害特性ゆえに他人にその大変さを伝えられない。発達障害特性ゆえに診察で擬態したり過剰に同調したり、予約を取るための一本の電話が入れられなかったり、予約日を忘れたり遅刻したり通院継続できなかったりもする。私を含め支援者達は、発達障害界隈の言葉を使って発達障害について他の支援者達に伝える機会はあるにはあるが、その狭い世界の言葉ではまだ全然通じないみたいだ。発達障害と縁遠い人に、言葉だけで発達障害について伝えることは想像以上に難しいことだった。

言葉は経験を越えない。新しい現象や概念を理解する時、言葉より経験が先行するはずだと思う。ここで言う経験とは、ある時点で発達障害と自覚してそれでも生きていること、発達障害者と接し傷つけたり傷ついたり泣き笑い、発達障害者一人一人の話を浴びるように聴くことではないだろうか。身体性を伴った言葉、身体によって体験・知覚して産まれた言葉。それを持つのは当事者やその近くにいる支援者だけだから、必然的に発達障害診療・支援なるものは当事者主導で盛り上げていき、遠い人々(専門家、支援者、研究者、地域の人々、その他大勢)に懸命に語りかけていく作業は避けられないと思った。伝わらないもどかしさや絶望感も、時代のうねりの味、改革の醍醐味、くらいに余裕を持てたら。

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