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見ていることを許されているだけ

R5年12月〜R6年1月に読んだ本は写真の3冊だった。正直で誠実な本だから読み切れた。

今は情報が溢れている。精神科関連の本もたくさん出ている。こういう時にこうすればいい、こうすれば必ず治る、等と書かれた本、指南している感じの本を読むのは苦手だった。ネットの情報や動画を見るのも苦手。分かりやすさは嘘になる。歯切れの悪さ、鮮やかにいかない支援、支援の限界こそ真実だと思う。

発達障害傾向のある人は、目に見える物や分かりやすさに惹かれてしまうから、分かりやすく伝えたり書いたりするのは大事だとは思っているが、分かりやすくすると大幅にそぎ落とすことになり嘘みたいになったり誤解を生んだりする。対処法を押し付けられたように感じて抵抗を示す発達障害者もいる。希望を持つことがかえって絶望になることがある。嘘っぽさ、理想論、机上の空論をいつか見抜いてしまうから。自分の価値観にぴったりフィットすることしかできない・したくない・続かない、パターナリスティックにリードしてもらったらその場ではできるかもしれないが自分一人になるとできない、複雑なことを複雑なまま落とし込み抱えておくことができない、自分の感情が分からない、自分の内面を深掘ると苦しくなる、集団(自助グループや就労系の機関など)に入っていくことができない、仲間の話を聴くと参考になるどころか不快になる。

そういう人達に対してできることは限られていた。本人が負担なく話せる範囲内で話してもらい、それを聴くことだった。もうすでに色々な対処法をしてみた後にここに来ている患者さんが多いから、さらなる対処法を教えるのは失礼と感じた。日々、患者さん達からは本当にたくさんのことを教えてもらっている。患者さん達は皆、魔法みたいに何かでスパッと治してあげられない私を決して責めなかった。その意味で患者さん達はもう充分に強く立派で、尊敬に値する存在。分かってもらえなくて、すぐ治る方法もないかもしれないとどこかで分かっていて生きているから、その強さや切なさにこちらが圧倒されるだけだった。ただ見ているだけになることがある。

医師免許や福祉の資格を取ったということは、ただ許されているということなんだと思った。人の身体や精神、社会の仕組みを全て知ったという称号をもらったのではなく、それを一生かけてずっと知ろうとして患者さんにかかわっていってもいいよ、人の生き方をそばで見させてもらってもいいよ、と許されているということ。国家試験に受かるために机上で学んだことよりも、臨床や地域の現場で学んだことのほうが圧倒的に多くなり、今の私を作った。精神科医は、患者さん一人一人からパーソナルな話を聴くことを許されている。話し相手になることを許されている。一人一人の話を聴き続ける中で、患者さんに役立つ何かを探そうとすることを許可されている、期待されている。そういう生活を続けるということは、それだけのために時間と心を最大限使うということは、この狭い業界の中に埋没していき他の職業に就きづらくなってつぶしがきかなくなっていくけど、それは不安なだけじゃなく喜びでもあり、感謝したいと思った。話しにくいことを話してくれていることに。出会いに。

自分がない皆(発達障害傾向のある女性達)と共にこれからも色々なことを話していけたらと思う。
自己紹介ができるようになりましたか?私はまだ。自分がよく分からないから。
本当の友達ができましたか?友達の定義って何?定義によっては私は友達0人かもしれない。
皆にできて自分にできないこと。なぜかできないこと。なぜかやってしまうこと。色々ある。
2人組作る時に余るのがいつも自分だったり、ペーパードライバー、料理が苦手、天然と言われてきた女性がいたら、私は勝手に仲間かもと思っている。分からないけど勝手に。
吹奏楽部の時、アルトサックスのドはミ♭にしか聞こえなかった。中途半端な絶対音感は祝福されるべき能力でもあり不便でもあった。皆がドだよ、と言っても私にはミ♭だった。ミ♭をドだと思わなきゃいけなかった。そうしないと皆と合奏した時に合わない。感じ方を修正させられるのは苦痛。
発達障害を生きるとは、感じ方が皆と違うとは、信じてもらえないから自分の感覚が正しいか分からなくなるということであり、自分という感覚が最初からあまりないけどさらに薄れていくということであり、孤独を生きているということ。だから発達障害者同士での共感に飢えていて発達障害者同士の出会いは必然でありギフトなのかなと思った。

自分のためと他人のため、どちらかだけが大事なわけじゃない。人の役に立つ仕事をしたい、ってどういう意味?人の役に立ってない仕事なんてない。他人のために、と言っているけど、それは自分のためにもなっている。その逆もそう。どっちが先かなんて分からない。
宿命論と因果論、どちらかだけを信じてがんじがらめにならなくていい。自責と他責、どちらかに極端に振り切れなくていい。起きると最初から決まっていたこと、その当時の自分が最善を尽くしたのに起きたこと、それで取り返しのつかなくなったことがある。自分の行いの結果でそうなってしまったから今後自分が変わることで変えられる未来もある。
そういうふうに、柔軟に生きろ、バランスが大事、中庸を探せ、深く考えるな、という自己啓発的なメッセージがうるさい。そんなこと頭で分かっていてもできないから、できないなりに生きているから、どうしても白黒つけたいなら、自分が生きやすく元気になれる結論にしたらいいのかな。一人一人違う、それぞれの結論、それぞれの価値観を。

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