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私はセックスが好きなのだろうか?

コラム【人を脱がせる前に我が身を放て】
ポルノディレクターの栞ヒヨコが「今の時代にマッチしたアダルトビデオつくるぞ〜!」と意気込んだところ、思いの外自分自身が脱ぎきれてないということに気づき人様にカメラの前でセックスさせる前にまずは私が裸にならねば・・(色んな意味で)ということで、そのような葛藤やプロセスや体験談や戯事をできるだけそのままに、でもちょっとだけ深く考察もしてみたい、みたいな感じでお届けするコラムです。

ここ1,2ヶ月何となくぼーっと過ごしている。


今までのような何か湧き立つ情熱のようなものがなく、流れに身を任せている感じ。今年に入ってからまた世界では色んなことが起きて、(そしてそれはほとんどが良く無いこと)そこに疲れてしまっているのもあるかもしれないし、あと実は2年前にコロナ到来で叶わなかった語学留学に行けることになったのでそちらに意識を持ってかれているのか、理由はよくわからないけれど昨年ほどポルノ制作の活動に積極的になれない自分がいる。


このコラムも結局1月に風俗に行った時のことを書いたまま、3日坊主どころか2回目をやっと書こうと思ったのは、そんなぼーっしてる自分が何故そうなってしまっているのか少し対話してみようと思ったから。
(あと最近たまたま流れてきた本の広告が〝左利き〟の本で私は左利きなのでその広告を少し読んだら、左利きは感覚脳なので感じたことをすぐ文章にしろと書いてあったので素直に従ってみる。 今時まだ左利きがフューチャーされるのか、、と思いながらも。。。)


ざっと書き出してみて(割愛)私はセックスが好きじゃないのかもしれない。
と疑うようになった。
と言うのもそもそも事実約1年間くらいセックスをしてない、ということとセックスをしたいという気持ちばかりか異性(私の場合だとシスヘテロ男性)に対する嫌悪感みたいなものを感じる場面が多くなったというのが正直なところである。
こういうことを話すと、「いい男を知らないだけだよ。」「あなたがいい女にななればそれに見合う人が現れるよ。」そういう声がどこからともなく聞こえるが(ネガティブすぎ?)


本当にそうなのだろうか。


ちなみに私にとっての良い男とは、一言で言えば フェミニスト  な男性だ。
何事にも差別をせず、平和を願い、自分の内側に問いかけることができて、誰かに指図しない、人の話を聞くことができて、人をすぐにカテゴライズしたり記号化しない、そんな男だ。(キングコング・セオリー※1 風)
そもそも日本のフェミニスト 人口が少ない中で、シスヘテロ男性フェミニスト なんて私が知る中では4人しかいない。今だにひ○ゆきみたいな人が持ち上げられる日本で、フェミニスト男性 なんて生きる土壌がない。


最近実家に帰ってきたのだが、父は家夫長制の申し子のような人で帰宅した当日にはまさに鏡のようなマンスプを披露してくれた。お金と地位に支配されていて、都合が悪いことは全て外野のせいにすることで自分の軸をブラすことなく生きてきた人だ。皮肉なことに経済的に自立し切れていない私はそのお金の恩恵を受けているから、全てに向き合い、変えようとすることは諦めてる。学生の頃から早く自分で稼げるようになりたいと家庭の経済環境はいいのにも関わらず、部活をせずアルバイトを始めたのは、〝課金制の愛〟に応えるのが私にとってはキツいとフェミニズムを知らない私は無意識に思っていたんだと今なら分かる。



私には父性を求める穴がある。
以前二村ヒトシさんとジェーン・スーさんの対談で、欲望の形は心の穴の形である、という記事を読んだ。
https://wotopi.jp/archives/104724

欲望の1つが私にとってセックスであることは自覚しているのだけど、その理由は単純に性欲がある、というよりもきっと父性を求める心の穴を埋めたいからだとその記事を読んで妙に納得したのだった。母性、父性とはそもそも社会的に割り当てられるものだと思うが、異性関係に置いて女性にとっての父性の役割はとても重要なものだと身をもって思う。
特にフィジカルなコミュニケーション(会話なども含めた)の思い出がほとんどない。皆無。その代わりに、親戚のおじさんが会うたびに向こうからすっ飛んでやってきていつも私を持ち上げて高い高いをしてくれた思い出は何十年経った今でも鮮明に覚えているし、思い出すとなんだか温かい気持ちになる。


だから私の異性関係はずーっと何かその穴を埋めるような付き合いばかりだった。
口説かれることで自分の女(人)としての価値を満たしてくれるような人と関係を持つことが多かったから、かなり受け身だったと思う。大学時代に1人だけすごく好きで自分で機会をつくったりして積極的になれた人がいたけど、その人にも結局父性の穴を埋めて欲しさ、のようなものを要求してしまいお付き合いしたものの自滅させた。
フェミニスト 男性がいい、と言いながらも女性差別が根付いている人に口説かれ関係を持ってしまうことの矛盾から抜け出せなかった。なぜならその人たちは一時的にはその穴を溢れるばかりに満たしてくれるからだ。だって、口説くという行為そのものが相手の心の穴を見つけ、ドバドバと満足させれるものを流し込むことだから。詐欺にも似てるかもね。私はそういう人に騙されてきた。
だから本当に必要な人は、その穴を一緒に眺めてくれたり、どんなものをそこに流したらいいのかを一緒に選んでくれることをしてくれる人なのかなと思う。


ただ最近はその穴の形を自分1人でも眺めることができるようになってきたし、自分1人でそこに流すものを選定できるようになってきた気がする。それは自分の発信を通してインターネットで知り合った人たちとの繋がりや、フェミニズムを少しづつ勉強するようになったこと、年齢もあるのかな。
だからなんとなく今までセックスしたいという自傷にも似たような欲求を感じる頻度がとても少なくなったように思う。セックスすることが本来そんなに好きじゃないのか、あるいはその理由が変化しつつあるのかも。


ポルノを作りたいと思うようになったのも、自分のその穴を埋めたいという欲求とその過去を浄化させたい、〝口説く〟思想を持ってる奴らと戦いたいという何かを打ち負かしたい、という気持ちが強かったんだけどそういった感情が薄れてきたから、なんだかぼーっとしている。


シンプルに、好きだから。という気持ちで何かを創造したいなと直感的に感じる中で、「私はセックスが好きなのか?」という問いをしてる。
答えは見えつつあって、セックスも好き、という答えになりそう。何かもっと大きな軸がきっとコミュニケーションなのかな、と定義しつつある。
欲求としてのセックス、ではなくてコミュニケーションとしてのセックス、としたときに今検索するとすぐ出てくるアダルトビデオ とか映像って果たしてそうなのか、っていうのは一目瞭然だね。

次回はコミュニケーション、について最近体験したことや考えてることを書いてみようかな。ではまた。




※1 キングコング・セオリー
ヴィルジニー・デパント著のフェミニズム本。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0935394




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