【なんでもよくないや】リモートワークの孤独とたたかう日記4/27
リモートワークの日々について、何かしら残しておこうと思い日記を書いている。
このように毎日感じたことを残しておくだけでも、投稿を振り返っただけでも自分の心の状況が良く分かるものだと感じている。
なんでもよくないや
土曜日、食材の買い物に行った。
私は休日のどちらかで外出をして、1週間分の買い出しに行く。
外出自粛生活が始まってしばらくの間は、自分の好きなものをちょっと贅沢して購入し、1週間のうちどの日に何を食べようか、とワクワクしていた。
でも今週買い物行ったときには、もうそういう気持ちにならなくなった。
好きなものを食べつくしてしまって、食べたいものが特にないのだ。
私が「好きな食べ物は?」と聞かれたときに答えるのが、タコと牛タンだ。
だが、自粛生活の序盤でタコや牛タンを満喫してしまったのもあり、今週は食べたい気持ちにはならなかった。(そもそもいくら好きでも毎週のように食べたくなる食材ではない、というのもある。)
他にもいくらかある好物が、あまり食べたいとは思えなくなったのだ。
そんなこんなで意気揚々と1週間分の買い出しに出掛けたにも関わらず、何も買う気が起きなかった。
そんなときにふと思い出したのが、誰かとの食事シーンだ。
誰かとごはんに行って、一緒にシェアして食べるとき、嫌いなものがない私は「(なんでも食べられるから)なんでもよいよ」と言う。
そのときは本心で「なんでもよい」と思っていた。
別に自分に嘘をついていたわけではない。
でも本当は、なんでもよくなかったんだな、とふと思った。
私は「なんでもよいよ」と言って、誰かが選んだものの中には、自分ひとりの食事のときには選ばないものもある。
たとえば、ボリューミーな揚げ物や、肉や魚をこってり煮込んだ料理などがその例だ。
決して苦手なわけではないが、食が細い自覚がある自分は、自分ひとりだと食べきれるかが不安なのできっとチョイスしない。
でも、それを選んだ誰かと一緒に食べることで、一緒に食べるそのものがとても美味しく感じられる。
私にとって「なんでもよいよ」は、なんでもよくなかったんだ。
その人が食べたいものを、その人と一緒に食べたかっただけだったんだ、と思った。
誰かとごはんを一緒に食べて、その人が選んでくれるものを食べるのは、私の望みだったんだ。
それが自分の貧相な食への発想を広げてもらうと同時に、「シェアしてくれる人がいる」安心感が食をより楽しいものにしてくれていたのだと気付いた。
今は、なんでもよくないし何を食べればいいかも悩ましい毎日だが、早く自分の選択を広げてくれる誰かとまたごはんを食べて「なんでもよいよ」と言いたいと思った。
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今日のタイトルは、完全にここから。
上白石萌音さん、恋はつづくよどこまでもですっかり好きになった。
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