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【SS】沈んで、浮かぶ(3981文字)

 宮古島の食材をふんだんに使用したフルコースを前に、新婚旅行の最初の晩、琴音は静かな絶望を味わっていた。この先、目の前で黙々と咀嚼を続けるこの夫と、気の遠くなるような年月を添い遂げなければならないのか。
「……海ブドウってこんなにプチプチしてるのね。美味しい」
「うん。海ブドウは美味しい」
 夫の優人は一世代前のロボットのように同じ言葉を繰り返した。琴音は一瞬、呼吸を止める。溢れ出そうなため息を閉じ込めるためだ。そのまま何も言わずにくいっと口角を押し上げ、泡盛がベースのカクテルを口にした。自分も壊れたロボットのように思えてくる。不出来なロボットが二体、向かい合って箸を動かしている。
 夫を愛していない。そう気がついたのは、二年半の交際を経て、ガチガチに緊張した優人からバラの花束と指輪を渡され、それらを受け取ってしまった後のことだった。もしあの瞬間に戻れるならば、私は同じ選択をするだろうか――今となっては考えても仕様がないことを、琴音はついつい考えてしまう。
 優人をつまらない男だと一蹴してしまうのは簡単だが、そうではないと琴音は思う。自分自身の問題なのだ。琴音が親愛の情をこれっぽっちも抱けていないこと。これに尽きるのである。
 琴音はウィットの効いた会話が続く男や、自分を楽しませようと懸命になって話を振ってくる男が好きである。だが、楽しさは相手がもたらすものではない。結局は、相手のことを愛することさえ出来れば、食事の間たとえ一言も言葉を交わさずにいたとしても、男の顔を見つめ、時折目線を交わしあうだけで幸せになれる。琴音はそういう女であった。そして哀しいかな、優人は彼女を魅了する男ではなかった。
 二十七歳を過ぎたあたりから、同年代の友人が次々と結婚していった。仲の良い友人の晴れ姿を見るのは嬉しい。しかし、どれだけ仕事で成果を上げていても、心から趣味を楽しんでいても、自分が彼女らよりどこか劣っていると思わせられた。そんなとき、会社の同僚から紹介されたのが優人だった。同僚は優人を「面白みはないけど優しい人」と言った。事実、その通りであった。
 優人は優しい。名は体を表す、とは彼のことを言うのかもしれない。ただ、その優しさの裏には琴音の機嫌をとるための一種の卑屈さが透けて見える。琴音を気遣う言動のあとに、「ほら、僕はあなたを大切にしているでしょう?」という粘っこい目線を向けられると、琴音は目に見えない重りを背負わされたような気分になる。「ああうざったい放っておいてくれ」と思うのに、少しでも優人が自分をぞんざいに扱うと腹が立ってしまうからおかしなものだ。
 優人は、三十五歳にもなって意味の通じない英文がでかでかと印刷されたTシャツを着ていたりするし、お洒落な雰囲気のバルで最初の一杯を頼まずに「水でいいです」なんて言ったりする。そんな光景に出会うたび、琴音は舌打ちが零れそうになるのをぐっと我慢して唾を呑み込まなけばならない。でも、酒は飲まない。ギャンブルはやらない。暴力は振るわない。胸がときめくことは無いけれど、この人は優しい。十分じゃないか。結婚と恋愛は別だと言い聞かせながらずるずると交際を続けるうち、引き返せないところまでやってきてしまったのだった。

 この船が沈没して、夫だけ死なないだろうか。
 新婚旅行の二日目、スキューバダイビングの装備に身を包んだ琴音は、小型ボートに揺られながらそんな妄想に耽る。そうすれば、琴音は新婚で夫に先立たれた可哀想な未亡人として人生をやり直せる。
 海は濃青と薄青の二色で構成されている。こんなに透き通った海の上で、琴音の心のうちだけが極限まで煮込まれたスープのようだ。
「海が二色で綺麗ね」
「底の深さが違うんだろうね」
 当たり前のことを言う優人を一瞥し、何も言わずに目を瞑った。
 いや、いっそ私も死んでしまおう――結婚が人生の墓場とはよく言ったものだ。死んだようにこれからの人生を送るくらいならば、今人生を終えたとてなんの違いがあるのだろう、と思う。

 小型ボートの天井が水をはじく音が聞こえた。雨が降り始めたようだ。海底の砂を巻き上げられた海は、先ほどまでの透明感を一気に失った。
「あちゃあ、海が荒れてきましたね。今日は『青の洞窟』に行くのは難しいかもなあ。おふたりともダイビングが初めてとのことですし、もう少し波が穏やかな場所に変更しましょうか?」
 インストラクターを務める青年が申し訳なさそうに問いかける。正直なところ、どちらでもよかった。ダイビング体験は、宮古島で丸三日を過ごすのにアクティビティ無しでは間がもたないだろう、と思った琴音が提案したものだった。
「そうね。その方が安心かも。優人さんもいい?」
 優人がうなずくのを確認した青年が快活な笑顔を返す。
「ではあと十分ほど船走らせますね! 安心してください。そちらも色んな魚に会えるいちおしの場所なので!」
 青年の真っ黒に焼けた、引き締まった肉体から発せられる光。夫からは永遠に失われてしまった若者の眩しさに琴音は目を細めた。





「死んじゃうかと思った。すぐには戻れないって思うとパニックになっちゃって……」
 ひっ、ひっと不自然な呼吸を繰り返す琴音の顔を、青年と優人が心配そうにのぞき込んでいる。
 海に潜ってから十分もたたないうちに、一行は地上へ戻ることとなった。ロープを伝い、耳抜きをしながら少しずつ海底に降りていく。そこまでは問題がなかったのだが、海底に着いてすぐ、琴音が親指を上にむけ「浮上」を示すハンドサインを使ったのだ。
 出発前に簡単な講習を受けたものの、潜った瞬間に琴音の頭は真っ白になった。鼻呼吸をしてはいけないと思えば思うほど鼻からも息があふれてしまい、ゴーグルに水が溜まった。常に口呼吸をするからか異常に喉が渇き、頭がくらりとする。その焦りで呼吸は浅く速くなり、自分が息を吸って吐けているのかも分からなくなった。
 地上に戻りたい。だがプライドが邪魔をする。優人だってできているのだから、と自分を奮い立たせ、なんとか海底まではたどり着いたが、我慢の限界だった。一刻も早くここから逃げ出したい。涙目で太陽光が差し込む方向を見上げる。そんな琴音をよそに、色とりどりの魚たちは優雅に頭上を舞う。貴方の居場所はここじゃないでしょう? と笑われている気がしてならない。
「よくパニックになって急上昇しちゃう方がいますが、絶対にやめてください。空気が膨張して肺が破裂します」
 常に笑顔を絶やさない青年が唯一真顔で言った台詞が頭をよぎった。海上まではたったの五メートルなのに、私はここから動けずに、息が出来なくなって死んでしまう。
 嫌だ、いやだ、死にたくない。琴音はただ、生きたがっていた。ついさっき、いっそ死んでしまおうだなんて考えていたのに――。
 異変を察知した青年は、琴音と優人に力を抜くように指示した。上へ、上へとふたりが青年に運ばれていく。その姿は海中を漂う海藻のようだ。優人は琴音の手を力強く掴んでいた。

「とりあえず岸に戻ります。旦那さん、背中をさすってあげてくださいね」と言葉を残して、青年はボートの運転席に消えた。
 残された二人には疲労の色が見えるが、琴音は落ち着きを取り戻しつつある。
「ごめんね。お金無駄にしちゃったね」
「お金のことはいいよ。やっぱり怖かったよね。僕も最初海底に降りていくとき、耳抜きが上手くできなくて焦った」
 ダイビング体験は船を貸し切り、専属のダイバーを雇う。安いものではない。眉を下げて落ち込む琴音に、優人はペットボトルの水を差し出しながら微笑みかける。
 優人はお金に細かい。稼いでいないわけではないのに、買い物のときには特売品ばかり手に取るし、今回の旅行も割引キャンペーンを駆使して格安に抑えたものだ。そんな優人のことだから、少しくらいは不機嫌になるかと覚悟していたが、いつもと違う様子は微塵も見せない。
 琴音は思う。この優しい人が、本当に優しいのかなんて分からない。だけど、心の奥底に湧く不満を押し殺しても、優しくあろうと努力をしてくれている。これは事実だ。

「私、死にたくないや」
「もちろん、琴音さんには長生きしてもらわなきゃ困るよ」
「優人さんの隣にずっといるかは分からないわよ?」
「……え? えええ」
目を見開き、それから今にも泣きだしそうな顔をする優人を見て、琴音の中にほんの少しだけ「愛しい」という感情に似たものが芽生えた。
 しかし、分厚いダイビングスーツの上からでも分かるたるんだお腹が目に入ると、急速に気持ちが萎えていく。すぐには自分の気持ちが変わらないことを自覚する。

(私にはもっと努力が必要ね)
 醜い部分をさらけ出す努力。相手のことを思って、本当に醜い部分にはそっと蓋をする努力。こんなにも優しい夫を愛せない、ひどい嫁だと思う。でも、そう易々と変えられるものではないのだ。ままならない心を抱えて生きていかねばならない。生きたい、とあれほど強く願ったのだから。

「今度はスカイダイビングがしたいなあ」
 いたずらっ子のような笑みを浮かべて琴音が言う。
「ちょっと怖いけど……琴音さんがやりたいなら」
「私たちにはたまに死にそうになる機会が必要なのよ」
「そうかなあ」
 よく分からないと思いながらも、琴音が楽しそうにしているだけで優人は嬉しそうだ。

 谷底に落ちるバンジージャンプ、遊園地の絶叫系アトラクション、心霊スポット巡り……。琴音は頭の中で死を意識せざるを得ないアクティビティを次々と思い浮かべる。優人と一緒に全部回ってみよう。いつか、優しい夫との平穏でつまらない生活が、かけがえのないものだと思える日がきっとくる。そんな予感がある。

 いつの間にか雨は上がり、海はもとの澄んだ青色に戻り始めていた。



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