【SS】チェンさん(2091文字)
チェンさんと出会ったのは一人で中国に行ったときでした。
ある晩、バーのカウンターで声を掛けられました。私は中国語はめっきり駄目なので、首を振りました。チェンさんは構わず私の横に座り、私の分と合わせて二杯、サイレント・サードを頼みました。今思えばぴったりのカクテルでしたね。私たちの間には常に沈黙が漂っていましたから。共通の言語が存在しなかったのです。彼は中国語、私は日本語と英語しか話せませんでした。
ですが、私はその目に惹かれました。丸顔で背も低く、決してハンサムではないものの、漆黒の瞳からまっすぐに注がれる視線には不思議な吸引力がありました。旅の解放感とアルコールの高揚、そして鬱憤が溜まっていたこと。それらが相まって、そのまま彼が住む邸宅に付いていきました。
チェンさんとのセックスはすごく良かった。言葉でコミュニケーションできないからこそ、探りながら、互いの反応を見極めながらするそれは、穏やかなのに、言語を持たない獣同士の交尾のようで、刺激的でした。
翌朝、改めて自分がいる部屋を見渡して驚きました。煌めくシャンデリアや一目見て高級と分かる家具類に囲まれて、自分がお姫様になったような気分でした。
チェンさんに見せられた翻訳サイトには『あなたが中国にいる間、ここにとどまれます。代わりに、あなたは私のパートナーになれますか?』とありました。旅行の間タダで泊っていいから恋人になってよ、ということだと思いました。ホテル代が浮くのは正直有難かったし、滞在する三週間だけ恋人ごっこを楽しもうという気軽な気持ちで、私は頷きました。彼は本当に嬉しそうでした。
チェンさんは色々な場所に連れて行ってくれました。一番感動したのは、回転レストランに連れて行ってもらったときです。北京の夜景が一望できました。彼は五本の指を広げた掌を私に向けました。五つ星レストランだと伝えたいのだと思いました。
その翌晩は、広東料理のお店で飲茶を楽しみました。チェンさんは親指を曲げ、四本の指を広げて私に見せました。四つ星レストランだと言いたいのか? もしくは四大中華料理のひとつと伝えたい? 真意は分かりませんでしたが、私は笑顔で頷き返しました。
翌晩は、趣向を変えて夜市に連れ出してくれました。買ってもらった正体不明のお肉を恐る恐る口にしました。コリコリとした触感が癖になるお肉でした。チェンさんはこの日も、三本指を立てて私に見せました。
私は違和感を覚えました。屋台はどう考えても三つ星レストランではありませんよね。それに、普通は人差し指・中指・薬指を立てるでしょう? 彼は人差し指の代わりに小指を立てていました。
それで、気づいたんです。ああ、カウントダウンをしているんだなと。5・4・3と数字が小さくなっている。でもこれが何を表すのかさっぱり分かりませんでした。
予想通り、チェンさんが示す指の本数は2本、1本と減っていきました。「どういう意味?」と中国語に翻訳したスマホ画面を見せても、彼は微笑むだけで何も答えてはくれませんでした。
そして0を示す、じゃんけんのグーが見せられた晩。私たちは、高級ホテルのレストランで食事をしました。チェンさんは最上階のスイートルームを予約してくれていて、私たちは部屋に入るや否やシャワーも浴びずに、互いの身体を貪るようにまぐわいました。
するとどうでしょう。理解できなかったチェンさんの言葉が少しずつ分かるようになったのです。「綺麗だ」とか「気持ちいいよ」とか。奇妙に思った私は閉じていた目を開けました。その時の衝撃といったら……。私が繋がっていたのは醜い獣でした。全身が毛で覆われていて、おぞましい。口から滴る赤茶色の、生臭い液体が私の胸に落ちてくる。だけど私を見つめる瞳だけは優しくて、チェンさんのものでした。何故かとても哀しくなりました。
「これで君に愛を伝えられる」
目の前の獣がそう言った瞬間、私は気を失いました。
覚えているのはここまでです。
――こうやって話しても、夫のあなたにも伝わっていないんでしょうね。あなたに裏切られたとき、怒り任せに飛び出すのではなく、きちんと話し合えばよかった。私たちには共通の言語があったのに。それはとても幸福なことだったのに。
*
「私は過去の過ちを心から後悔しています」
興味深そうに話を聴く精神科医の前に、男が悲痛な顔つきで座っている。
「観光ビザが切れても妻は帰国しませんでした。不法残留で入国管理局に摘発されたときにはこの状態だったそうです」
男の横には四つん這いで「ヴヴヴ……」と低い唸り声をあげる若い女の姿がある。髪は乱れ、口からは涎がぽたぽたと流れ落ちている。ジーンズは膝部分が茶色く汚れ、その下に履いているおむつが見える。
「今の妻と過ごすのは正直苦痛です。許されるならば逃げ出したい。でも、妻の瞳が私を逃がしてくれないのです。責めるような、問いかけるような、訴えかけるような。妻はこんな目をしていなかった。ねえ先生。彼女は今、何を思っているんでしょう」
診察室には沈黙が漂う。
医者は目を逸らし、男は涙を流し、女は漆黒の瞳で男を見上げていた。
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