見出し画像

遠い国でフライドポテトを買うということ

予約していた航空券がキャンセルになったのは、出発の一週間前のことだった。
キャンセルではなく変更にできないか、と食い下がる私に、カスタマーセンターの男性は「こういった状況ですから」と申し訳なさそうな声を出した。変更できないことはないが、その変更した便も欠航になる可能性が高いのだという。
予期していなかったわけではなかったが、そこまでか、というのが率直な感想だった。

中国で新型の感染症が発生。
各国が水際対策に乗り出し始め、海外渡航を自主的にキャンセルする人が相次ぎ、感染症を原因とした欧州でのアジア人差別が話題になりつつある折だった。

渡航が危ぶまれたのはほんの一瞬のことで、代わりの航空券はあっさりと手に入った。
私の航空券がだめになってしまったのは中国で乗り換えがあるものだったからで、直行便は問題なく運行されているようだった。当初の値段の二倍かかったうえに、時差を考慮することを忘れて集合する日の前日に到着するチケットを買ってしまう失態まで犯したが、とにかく飛行機に乗れさえすればこっちのもんである。

こうして日本に感染症の影が迫りくる二月中旬、私は欧州へと旅立った。



それは私にとって初めてのヨーロッパだった。
寒くて、曇っていて、古い建物や新しい建物があった。人々はおおむね優しく、おおむね親切だった。

私はそこで、いくつかの教会や美術館や映画館を訪れた。
大好きな映画に出てくる店で食事をしたり、早朝の通りで署名を求める子供たちに取り囲まれたりした。

英語が通じない機会が多かったのは意外だった。
店の扉に貼られている、店の営業時間が書かれているであろう紙を見たときに初めて、フランス語で月曜日や火曜日をなんて言うのかさえ知らないことに気が付いた。


「パリ郊外の日本食レストランに差別的な落書き」と題された記事を見たのは、ベルギー滞在の最終日であった。中国人店主が経営する日本料理店の壁に「コロナ消え失せろ」とスプレーで書かれていたという。コメント欄は、欧州のアジア人差別がひどいのは今に始まったことではない、といった指摘であふれかえっていた。
その日、それまで食べたベルギーらしいものといえばワッフルくらいだった私は、最終日にふさわしいベルギー名物を味わうべく、あるハンバーガー屋をたずねる予定だった。日本人旅行者のブログで紹介されていた店で、なにやら美味しいフリッツが食べられるらしい。
フリッツとはフランス語でフライドポテトのこと。ベルギーはフライドポテト発祥の地でもある。

店を目指してアパルトマンを出たのは、かなり日が暮れてからのことだった。歩いて三十分ほどで着く予定だったが、真冬ということもあって日はぐんぐんと沈み、徐々に人影も少なくなっていく。
道端に所在なさげに立っている人が増え始めたところで、あきらめて来た道を戻ることにした。
海外旅行の最大にして唯一の目的は「命をとられないこと」。おいしいフライドポテトは日本でだって食べられる。


大通りを歩いて帰っている途中、一軒のハンバーガー屋が目に留まった。店先には巨大なフライドポテトくん(眼のついたフライドポテトの置物)が立っている。
店内をちらとのぞき込むと、飲食スペースには一組の家族が、レジ兼厨房には夫婦と思しき中年の男女がいた。お世辞にも洒落ているとは言いがたいその風貌から察するに、この夫婦の個人経営店なのだろう。
どうしよう。
店の前で逡巡して、踵をかえした。
この状況でアジア人に来られたらきっと迷惑するだろう。フライドポテトなんか日本でだって食べられる。お金もあんまり使いたくないし。

そうやって自分に言い聞かせて、本当は、店の人に嫌な顔をされるのが怖いだけだった。

それまでの十日間、表立って差別されるようなことは一度もなかったが、次に入った店で、次に会った人に、差別されないと言い切ることは誰にもできない。誰だって不用意に傷つきたくない。今朝見た記事が脳裏をよぎる。

ところが、あと少しで宿に着くというところで、自然と来た道を引き返している自分がいた。

傷つきたくはないけれど、逃げたくもなかったのだと思う。


意を決して店の中に入ると、先ほど見かけた家族のほかに男性が一人いて、商品が出来上がるのを待っているところだった。レジにいた女性が私に気が付いて、ボンソワと声をかけてくる。注文すべく口を開くも「Fritesってどう発音するのが正解なんだろう」とどうでもいいことが気になって、少しだけ間があいてしまった。女性がなぜか「ナゲット?」と尋ねてきたところで我に返って、近くに貼ってあったフライドポテトのポスターを指さしながら「これが欲しいんだけど」と告げると、「ソースは?」と言う。種類を尋ねると、彼女の後ろに大量に置かれたソースマシーンを指さした。それぞれ名前が書かれているが、フランス語なのでどれひとつとして読むことが出来ない。仕方がない、あるだろうかと不安になりつつも「マヨネーズで」と答えると、いいチョイスと言わんばかりににっこり微笑んでくれた。女性は容器一杯に盛った揚げたてのフライドポテトを私に見えるように掲げてから、マヨネーズをたっぷりとかけてくれた。フライドポテトくんの容器を受け取った私は、幸福な気持ちで店を後にした。

いくつになってもどこに行っても、自分の力で物を買うのは途方もない喜びだ。揚げたてのフライドポテトなんか美味しくて当たり前なんだけど、でもやっぱりこのポテトの味は格別だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?