徒然なるままに

 眠い。眠いのに、結局眠れずにだらだらと起きてしまった。これを書いたら寝る。嘘かもしれないけれど。

 眠れないだけではない。最近、本当に人生が思い通りにいかない。想定外のことが次から次へと降ってくる。目まぐるしく環境が変化していく。穏やかで退屈な日常を恋しく思うほどに、そしてその出来事一つひとつを噛み締める余裕もないままに、また忙しない明日がやってくる。非日常。家にいながら気分はディズニーランド。実際に行ったのは一度きりだけど。

 思いがけない出来事が降ってくるだけならまだ良い。最近は、自分の行動すらも全てが想定外だ。その筆頭は将来のことだろう。大学一年の頃から当然のように描いていた大学院進学という進路すら揺らぎ始めた。と思ったらD進するとか言い出してもう散々だ。もっと内面に近い話をすると、少し雑になったかもしれない。ちょっとずつこだわりを捨て、自分の信念を捨て、だからといってそれを再構築することもない。日々の勉強を例にとっても、必ずしも集中しているわけではない。その代わりに、「とりあえずペンを持つ」ことに対するハードルが低くなった。効率を捨てて、精神の安定と勉強時間を確保する。絶対的倫理的なこれまでの生き方を捨てて、低レイヤの欲求と時間の流れに身を任せてみる。良く言えば柔軟、悪く言えば実体がない。舗装されたように見えていた道路は穴だらけだ。道を踏み外す要素などその辺に転がっていることを知った。

 どうしてこうなってしまったんだろう、とふと考える。悩み抜き、考え抜き、納得できて初めて後悔のない決断ができる。5月の初めくらいまではそう信じて疑わなかったし、だからこそ一つ一つの決断には莫大な時間と気力を惜しみなく注ぎ込んだ。しばしばそれで体を壊したが仕方ないと思っていた。ただ、その実態はどうだろう。悩み抜き、考え抜く。その悩みや考えの正体は、本当に悩むに足ることだったのだろうか。

 自分の感情に徹底的に向き合う。本当は何がしたいのか、そのしたいことにこの決断はマッチしているのか。そういった思考や内省は言うまでもなく大切だ。自分の感情を隈なく洗い出し、意識上に載せることは、後悔を最小化させる一つの手法であるという考えは今でも変わっていない。ただ問題は、悩んでいる間に考えているのはそれだけではないということだ。そうやって感情に向き合う過程で、これまでの自分の生き方に反する部分が出てきたとき、黒々とした自己否定の感情が襲ってくるのが常だった。問題に向き合うことは、自分の感情と向き合うことは、理想通りにいかない、性格の悪い自分自身に向き合うことそのものだった。私にとって理想とはプライドだ。理想を捨てることはすなわちプライドを捨てることだった。どう頑張っても美しく生きられない自分という烙印を押すことだった。自分が許せず、「誰も傷つけない」選択を取らないことによるリスクを、やたらと過大評価したりもした。

 でも結局はいつだって、私がとるのは自分を楽にする選択ばかりだ。もっともらしい理由はあれど、これまでの価値観だって元々は自分を救うために織り上げられたものだということは自分が一番よくわかっている。自己否定しようがすまいが、結局行き着く先は同じなのだ。自分を美化しようとしたところでもう無理だ。私は私でしかない。マザー・テレサにもイエス・キリストにも、私の大好きな米津玄師にだってなれやしない。吐き気がするほど嫌な自分も、好きな人に抱かれれば消えてしまう。例えは悪かったかもしれないが、所詮その程度のものなのだ。少しの諦観で空いた穴も、きっと時間が埋めてくれる。

 そんなことを言いつつも、これからも私は事あるごとに自己否定に苦しむのだろう。苦しいと文句を垂れながら、理想を追い続けるのだろう。ただ、ある決断や挑戦をして失敗したとき、「よく考えなかったからだ」と言うのは、もしかするとナンセンスなのかもしれない。考えようが考えまいが、自分のせいであろうがなかろうが、事実はそこにしかない。よく考えた後に出した結論だって、どうせ大して変わらなかっただろう。そう思っておくのが妥当なのかもしれない。さらに言えば、その決断が失敗かどうか決まるのは、きっとその決断をした時じゃない。何なら「失敗だった」と思った時ですらない。気持ちはいくらでも変わりうる。決断をやりっぱなしにして忘れてしまったところで、誰かから怒られるわけでもない。

 結局、なるようになるんだろう。少なくとも今、私は幸せだ。

 

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