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【短編】 ポン・デ・リング、110円

 彼女が自殺したらしい。人づてに耳にした夜、僕はミスドのある自宅の最寄駅へ急いだ。
 可愛らしさから逃れるように、無造作に束ねられた黒髪。セール品のパンツスーツに、履き慣れたローヒールのパンプス。それが彼女の一張羅だった。二年前の秋、僕は彼女とひと月だけ恋人として過ごした。彼女は僕以外の何にも興味を示さなかった。今その手を離せば、彼女は世間からこぼれ落ちてしまうかもしれない。そんな焦りのなかで、夢のように通り過ぎた時期だった。
 当時から暮らしているアパートは、15分ほど歩かないと駅には着かない。
「もう遅いんだし明日買いに行けばいいじゃん……せっかく片付けに来てあげたのに」
とむくれる妹を尻目に、部屋着のままで玄関口を出る。彼女の華奢な装いを闇に描きながら、ぽつり、ぽつりと並んだ街灯の下を歩いていく。蒸し暑い空気に、涼しげな風が混じり始める。そのふとした冷気が鎖骨に当たって、どきりと心臓が疼いた。ああ、今年も秋が来たのか。心細い住宅街の先にある、小さな改札の明かりが恋しくなる。

 
 各停しか停まらない最寄駅の改札横に、ミスドができたのはちょうど三年前のことだ。彼女が僕の家に来る日は必ず、このミスドで一緒にドーナツを買って帰った。ドーナツといっても種類はいつも同じだ。彼女の好きなプレーンのポン・デ・リング。8つ繋がった球形のドーナツを一つずつ、交互にちぎって食べるのが習慣だった。
「すき、きらいゲームしませんか」
決まって彼女はそう言った。その緊張に強張った顔が可笑しかった。ドーナツをちぎるときに、交互に「すき」「きらい」と言いながら食べる、それだけのゲーム。ポン・デ・リングの球は必ず8つ連なっているのだから、最初に「きらい」から始めれば、最後は絶対に「すき」で終わる。それが分かっているから、初めは二人で競うように「きらい」を選ぶ。最後の一粒、相手に「すき」と言わせるために。バイト帰りの午後8時。切れかけた白熱電球。110円のポン・デ・リング。
 舌先にねっとりと残るシュガーの甘さを転がしながら、何度自分に言い聞かせたことだろう。この子は僕が守らなきゃだめだ、愛情は幻想なんかじゃないと教えてあげなくてはいけないのだ、と。けれど実際には、僕は彼女に何もできてはいなかった。TVや動画の音量に気づいて少し下げることも、帰り道で月に見惚れる彼女を急かさずに見守ることも。結局、人の愛し方を知らないのは僕の方だった。最寄り駅の改札、ミスドの看板前。好きになってごめんなさい、と、あまりにも突然に彼女は僕の手から離れていった。


 住宅街の暗がりを抜ける。金網と雑草で覆われた土手の向こうに、うっすらと線路の形を認めた。ホームの白い電飾がぼんやりと宙に浮かぶ。その少し手前に、見慣れたオレンジと黄色の看板が現れた。まるで時が進んでいないかのように色褪せない外装。立ち止まって、乱れた呼吸を整える。胸が高鳴る。店の窓ガラス越しに佇むドーナツカウンター。そこにまだ、あるだろうか。いや、ないはずがない。彼女だってそうだ。未だこの世に取り残されて、震えているに違いない。今日は彼女を探し出して、この店のポン・デ・リングを届けに行くのだ。足がはやる。自動ドアにぶつかりそうになりながら店に駆け込む。カウンターの上段右端。位置までちゃんと覚えている。

 確かに「ポン・デ・リング」と書かれた札はそこにあった。トレイの上に薄く敷かれたクッキングシートにも、その欠片がわずかに付いていた。けれど、それは過去の痕跡に過ぎなかった。ポン・デ・リングは売り切れていた。

 目の前が暗くなりそうになるのを突き破るように、スマホの着信音が鳴った。
「今ミスド?」
妹の声が響く。
「ああ」
「兄ちゃんなんか声変だよ。大丈夫?」
「別に大丈夫だけど」
返事が掠れて声にならない。
「ならいいけど。あと、私にも買ってきてよ。ミルクドーナツがいい」
「分かった」
逃げるように電話を切った。「ご注文はお決まりですか?」と、店員の声がした。


 ビニール袋を片手に店を出る。中にはミルクドーナツが二つ。本当は僕の見間違いかもしれない。もしかしたら見落としていただけで、本当はまだ残っていたのかもしれない。しかしどんなに振り返っても、いくら目を凝らしても、窓越しのカウンターにポン・デ・リングの姿はなかった。もう、そこにはないのだ。電車の発車する音がして、改札からまばらに人が吐き出されていく。その中に黒スーツとローヒールの女性を探してしまう自分に嫌気がさして、人気のない住宅街の暗がりへとひたすら歩を進めた。
 閑散とした住宅街の、数少ない街灯の下でビニール袋を開ける。ドーナツの包み紙を剥く。ミルクドーナツには切れ目どころか、ドーナツの穴すら存在しない。どこから食べても、8つから7つになりはしないのだ。
「すき、きらいゲームしませんか」
抜けるような夜の闇に、彼女の澄みきった声がこだまする。いいよ。ちぎったりはできないけどね。
「すき」
呟いて、思い切りドーナツにかぶりつく。口から溢れ出す生クリームに一筋、涙が溶けて消えた。



(本文 2083字)

(追記)
 この文章は、ぴーす(@_peace_vv)さんのツイート

をもとに制作したものです。アイデアを提供してくださったぴーすさんに感謝申し上げます。

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