n番煎じ

 書けねぇな、書けてねぇな。

 小説とか、エッセイとか、自分が書いたものを見返してみて、あるいは自分の憧れる作品と拙作を見比べてみて、思わず呟いてしまう。なんてありきたりなんだろう。なんて浅はかなのだろう。そんなふうに自己嫌悪に駆られる日々が続いている。カッコつけた言い方に聞こえるかもしれないが、書いている内容は頗るカッコ悪いので鼻で笑って読んでいってください。

 夕焼けの描写って、夕日のオレンジだけだったっけ。五月蝿く鳴き始める雀の群れは、どんなふうに飛んでいたっけな。橙色に染まり始めるビル群、そんな描写だけで夕景が説明できる筈がないのに。私の記憶は、数年前に書いたメモも再現できないくらいに何もかも取り逃がしてしまう。外に出なくなって1年が経つけれど、そんなことを言い訳にできないくらいに、私には何も見えていない。外の世界と私を隔てる皮膚や鼓膜、水晶体の壁は厚すぎて、今の私の実力でこじ開けることができないのがたまらなく悔しい。世界に溶け出して行きたいのに、私には手を伸ばすことすらできていない。悔しい。悔しすぎる。

 私に足らないのはそれだけじゃない。私には世界を解釈する術も圧倒的に足りない。それが分かっているから、屋内の描写をためらってしまう。外の描写がしづらいなら身近なものを表現すれば良いのだが、今側にいるどんなものも、表現すればするほど遠くなっていく気がして怖いのだ。せっかく私の目の前に素晴らしき世界が広がっているというのに、「いま、ここ」の世界を表現する、言語化する力が私にはない。それを目の当たりにするのが怖くて、私は空想に逃げている。そうやって浅ましい作品を書き続けている。

 そんな私にもできることがある。猿真似だ。ラジオやインタビューを聴き返す。作品を聴く、読む、鑑賞する。そして「いいな」と思ったものをパクる。そうやってn番煎じの獣道を、私はひたすら歩いている。浅ましいよりは大分マシじゃないか、なんて思いながら、堂々とパクったものを世に出そうとする。たまにそれすら面倒になって、キャパがないキャパがないと言い訳をしながら浅ましいものを書き殴る。ああ、なんて浅ましいのだろう。笑えてくる。

 今度書く小説は少なくともnが数えられる範囲で収まったものでありますように。いいや、祈ってる場合じゃない。とりあえずちゃんとメモをとりましょうね、しおん。

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