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【小説】 サトノレイナスの秋華賞

18年生まれの牝馬を擬人化し、今年の秋華賞をネタに小説を書きました。名前は馬名そのものではありませんが、ウマ娘のノリで是非読んでいって頂ければ幸いです。

(おもな登場人物)
金子純(かねこ じゅん)- ソダシ
里野玲奈(さとの れいな)- サトノレイナス
船木有生(ふなき ゆい)- ユーバーレーベン
金子緋色(かねこ ひいろ)- アカイトリノムスメ
岡良子(おか りょうこ)- ヨカヨカ
茗溪奨花(めいけい しょうか)- メイケイエール


(本文)

「2枠4番でした。応援よろしくお願いします」
 そんなテキストとともにアップされた、眩いばかりの笑顔の写真。秋の太陽に透けそうなほどに、白く美しい素肌。細くとも、筋肉のラインがしっかりと覗くふくらはぎ。白と青のコントラストが映える、ミディアム丈の衣装。見ていられなくて、私は思わずスマホを閉じた。
 だめだ。こんなもの、今見たところで何にもならない。そんなことはわかっている。私が今しなければならないのは、フォームの改善だ。つい数ヶ月前まで気ままに走り回っていたコースを、その何倍もの時間をかけて1周する。体重を両足に均等に乗せるように、痛めていない方の足に過剰な負荷をかけてしまわないように。1月前に痛めた右太ももに大きく巻かれた包帯を隠したくて、ジャージは長ズボンが定番になってしまった。勝負服のショートパンツなど、今は着られるはずもない。ダービー前に再戦を誓ったはずの純が、春にしのぎを削ったライバルたちが、揃って秋華賞の枠順抽選に臨んでいるというのに、私はこんなおもちゃみたいなコースで何をしているのだろう。いや、考えるな。今考えたところで、心が乱れるだけだ。

 立ち上がって再びリハビリに向かおうとした矢先、ピロン、とLINEの通知音が聞こえた。船木有生。送信者の名前を見た瞬間、嫌な予感が胸を襲う。無視しようかとも思ったが、胸騒ぎに負けて再びコース脇のベンチに戻った。

「ねぇ、玲奈ちゃん抽選会なんでいなかったの? せっかく探したのに…」

 続いて「どうしたの?」とメッセージが並ぶ。有生の心配そうな、それでいて間の抜けた顔が浮かぶ。ネットの情報に全く興味を示さない鈍感さ。そのいい意味での図太さが、レースへの、そして自らへの集中力として現れる。ああ、有生は、樫の女王は、私が怪我をしたことすら知らないのだ。どうしようもない嫉妬がこみ上げそうになるのを堪らえて、再びスマホを閉じる。返信など、できるわけがない。

 円形のコースをゆっくりと歩きながら、今日抽選会に臨んでいるであろう戦友の姿を思い浮かべる。純と有生、そして緋色。短距離に転向した奨花や良子だって応援に駆けつけていることだろう。応援にだけなら、私だって行くことはできる。ただ心が、プライドが、それを許さないだけだ。こうやって私だけ重賞未勝利のまま、どんどん周りから孤立して、落ちぶれていくんじゃないだろうか。無冠の実力者なんて、そんなもの、ただの選手と何も違わない。ネガティブ思考に陥るたびに足に視線を落とす。腕の振り、顎の位置を確認する。景色がゆっくりと変わる。前に進んでいると感じられるのは、その間だけだった。

 普段よりずっと長く感じられた1周を終えてスタート地点に戻ってくると、コース脇のフェンス越しに人影が揺れていた。半袖短パン。「よかろうもん」と背中に大きくプリントされた赤Tシャツ。誕生日に私があげたそのTシャツを、彼女は私と会う時はいつも着てきてくれる。
「今日もきばっとーね! ポカリ買ってきたけん、飲まんと?」
「えっ良子抽選会行ってないの?」
「行っとらん。奨ちゃんが行っちょるけん。玲ちゃんはどげんしょったや?」
「みんな秋華賞秋華賞うるさいからさ、ちょっと落ち込んでる」
わざと拗ねた顔をして足元の小石を蹴る。良子と一緒にいると、抱え込んでいた負の感情がじわりと溢れ出すことがある。「よかよか」と背中を撫でられる。息の多い柔らかな声も聴き心地が良くて、思わず彼女の肩に寄りかかってしまう。
 でも今日の良子は少し違った。いつものように寄りかかろうとすると、「今日は無理やけん、ごめんばい」と少し後ずさる。そうか、そうだよな。みんなに甘えられる存在であり続けるのも疲れるもんな。「私こそごめん、ありがとう」と渡されたポカリの蓋を開ける。それを笑って眺める良子の瞳が心なしか少し暗い気もするが、きっと気のせいだろう。
「ねぇ良子はさ、みんなについていけないかもしれないって思ったこと、ある?」
「ん?」
「こうやって秋華賞出れなくてさ、桜花賞はあと200mあれば絶対純に勝てたと思ってて、だからこれがみんなに勝てる最高のチャンスだったのにさ、自分でふいにして。こんなんだから1回も重賞勝てないんだよね。私、来年にはちゃんとみんなと戦えるのかな」
桜花賞で下した相手にこんな愚痴を吐くのは間違っている。わかっているのに、言葉が口から流れ出して止まらない。寄りかかれない分、言葉で甘えている。いつもそれを許してくれるのが良子だったのをいいことに。罪悪感とやるせなさが胸を覆う。せっかく様子を見にきてくれたのに、こんな愚痴ばかり。良子の目を見られずに、私の視線はスニーカーの爪先を向いたままだ。
 そして私の罪悪感は、良子の次の一言で頂点に達した。
「あて、もう走れんの。スニーカーに隠れちょるばってん、足ん指折ってしもうて。やけん、ついて行くとか、もうその次元やなかと」
私は思わず顔をあげた。そんなこと、信じられない。私は何も聞かされていない。その穏やかな笑顔も、優しげな口調も、全てを諦めた先にあっただなんて。
「そんなこと言わないでよ。どうして? 私だって骨折してるけど、来年また走るって、トレーナーさんとも約束して……」
違う。言わなきゃいけないのはそんなことじゃない。「今までお疲れ様」と言えない自分に腹が立って、余計語気が強くなってしまう。そんな私を見透かすように、ふふっと良子が笑う。苦しい。良子の笑顔を見ているのが、苦しくてたまらない。
「やけん玲ちゃん見にきたと。大きな怪我ばしたっちゃ、きばっとう玲ちゃん見ちょると元気湧いてくるけん」
「だったら秋華賞応援行けばよかったじゃん。私なんかよりきついトレーニングして、めちゃくちゃ頑張ってるよ」
「それは、つらか。あてには応援は無理やった」

 絶句した。負の感情などどこかへ置いてきたような良子でも、耐えられないほどの挫折。競技生活への突然の別れ。その笑顔の裏に隠した絶望を、掻きむしりたくなるほどの悔しさを、私は知り合って初めて良子の中に認めた。
 無意識に、手が自身の太ももに触れていた。包帯のざらざらした感触が、ジャージ越しに伝わる。私は甘かった。辛いのは私だけじゃないんだ、とか、そんな砂糖多めのラテみたいな感情じゃない。黒くて、深くて、燃え盛る何かが私の中に芽生え始めていた。私は、大丈夫だ。敢えて言語化するなら、そんな塩梅かもしれない。大丈夫、大丈夫。私はきっと、もっと強くなれる。

「私は、勝つよ」
私は良子の瞳を見据えてそう告げた。
「絶対に怪我を治して、今度は必ず1着になる。だから、応援して」
良子は笑った。それが純粋な笑みではないことくらいはすぐに理解できた。それでもいい。半年後、1年後にまた、満面の笑みでターフの応援席に座ってもらえるような走りを、ひたすらに続けるだけだ。

 再びLINEの通知が鳴った。純からだった。
「あなたが怪我をしてる間も進歩を続けてることぐらい知ってるわ。だから私は負けない。あなた以外に負けてたら、あなたには絶対に勝てないもの」
Twitterで見せる愛らしさとは真逆の、強気の言葉の羅列。だが、私たちは皆知っている。いつまでも理想を追い続ける厨二病。こっちが、本来の純だ。文面を覗き見した良子がふふっと笑う。私も自然に笑みが溢れた。そんなに言ってくれるなら、受けて立とうじゃないか。

 明後日のターフには、どんな結果が待ち受けているのだろう。でも、そんなことは私には関係ない。毎日は平等に過ぎていく。このトレーニングコースを照りつける太陽、残暑に燻る土の香り。今阪神で調整中の仲間だって、同じものを感じているはずなのだ。
「今日は来てくれてありがとね」
良子の声援を背中に再び歩き出す。背中の骨、顎の位置、腕の振りを瞬時に確認する。今は遅くたっていい。今日はここが、私のターフなのだから。


(以上)

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