「自分がしてほしい」が言えない日本人


最近、自分の感情に向き合えていない人によく出会った。
そこで思ったことを。

その人達は誰かに何かを教えるときに共通してこんなような言葉がたくさん出てくる。

「それは良いこと」
「普通はやるよ」
「それはしちゃダメ」
「あの人に怒られるからやめよう」
「それをやらないと」
「それはやった方が良いよね」
「あなたのために言ってる」
「そんなのも出来なくてどうするの」

よく聞く言葉だとは思う。

ただ、これらの言葉は実は全部「”誰かのせい”にしている言葉」だったりする。

”誰かのせい”を言い換えると、”誰かの責任”と言えるだろうか。

「良い」とか「ダメ」とか「普通は」とか「あなたのため」とか上記の言葉全て、世間の評価や周囲の基準または”あなた”が「そうすべきだと言っているよね?」と、言葉を発する”自分”ではなく”誰か”が行為を求めているような言い方になる言葉だ。

(ここまでの意味がわからない人はここでこの記事を離脱することをオススメします。たぶん記事の続きも理解できないので。)


でも上記の言葉達を口にするときは、実はほとんどの場合が「自分がそうしてほしい!」時だったりする。

その「自分がそうしてほしい!」を自覚できなかったり、その「してほしい」を自分の責任として言葉に出来ない人が、冒頭で言った「自分の感情に向き合えていない人」ということ。
「自分の言葉に責任を持ちたくない人」とも言えるかな。

この「自分がしてほしい」を自覚できない人、またはそれを言葉に出来ない人は珍しくない。
少なくとも私の周りにはよくいる。


自分が相手を思い通りに動かしたくて言っている言葉なのにそれに無自覚。

上記の言葉達を聞くと
「それはあなたがしてほしいんですよね?」
と、ひろゆき氏っぽい言い方をしたくなる。
まあそんな言い方をしたところで無自覚な人はクエスチョンマークが出るだけなんだろうけど。


で、「じゃあそれが悪いのか」と問われれば、その”「自分がしてほしい」が言えない”は教育においてはとても悪いことだと思っている。

だって「自分の責任として物事を伝えないやり方」を相手に教えることになるんだもん。
そうやって教えられたら、教わった相手もそうなっちゃうじゃん。
事実、自分もそうやって育てられたから、そういう言い方をしちゃいがち。
そしてそれに慣れると、自分に向き合えなくなる。
「自分がしてほしい」を自覚できると、「なぜ自分はそれをしてほしいのか」を考えることができる。
その自分への「なぜ」に気づくことから、哲学的な発見や、自分探しが出来たりする。
でも「自分がしてほしい」を理解できないままだとその学びが得られない。

しかも、上記の言葉達のように「誰かのせいにしている言葉」で育つと、周囲の評価(顔色)ばかりが気になるようになってしまう。
「自分がしてほしい」を伝えた場合は1対1の関係性なんだけど、「誰かのせいの言葉」は言われたほうが集団からのプレッシャーを浴びることになっちゃうからね。

どちらにしろ教育によくないと思うよ。
そういう人間を育てないなら別だけどね。


タイトルが【「自分がしてほしい」が言えない日本人】なのは、やっぱりそういう言葉達で育てられた人が多い文化だと思うから、主語デカ目に「日本人」にした。

まあもしかしたら他の国も同じような言葉を使ってるかもだけどね。


最後に。

こんなツイートを少し前にした。
上2つの言い方を心がけると、「自分がしてほしい」の表現に自然となりやすい。
主語が「私が」になるから。いわゆる「アイメッセージ」ってやつね。


以上、雑感でした。


終わり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?