あなたの指導は”犬の躾”との違いはありますか

しつけ(躾・仕付けまたは仕付)とは、人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように訓練することで、教育の一種である。概念的には伝統的な子供への誉め方や罰し方も含む。

Wikipedia

犬の躾。
トイレを覚えたり、むやみに吠えないことを教えたり、噛みつかないようにしたり。
この記事内では、「お手」などの芸を教え込むことも躾に含めておこう。


で、タイトルの「あなたの指導は”犬の躾”との違いはありますか」の話。


なんでそんなタイトルのことを思ったか。

SNSなどで「この練習をやるとこうなります」「こういう指導をするとこれが変わります」っていう内容をよく見かける。
よく見かけるということはそれだけ拡散されているということでもあると思う。
セミナーとかでもそういう「練習のやり方」みたいなものは人気がある気がしてる。
自分もよく参考にしている。

ただそこでふと思ったのが、「こう教えるとこの粗相が減って、この芸が出来るようになるよ」って犬の躾みたいだなって。


粗相の無くし方、芸の覚え方、それらを学んで選手に試して教える行為。
その根本にあるのは「指導者が思う選手像」に持っていくためでしょ?
「個性に合わせて教えてます」とか言って画一的に教えていないとしても、そもそも指導側の都合の良いように教えて仕込むこと自体が犬の躾と何も変わらないのではないかと。


もちろんね、社会で生きるために必要なことは”躾”として教えるべきだとは思うよ。
それが社会に子供を送り出す大人の責任だから。

けどさ、スポーツの指導は「”躾”として教えるべき」ことなのだろうか。


飼い犬と人間の違いはなんだろう。

語弊があることは承知で言うけど、飼い犬は「御主人様にとって都合の良い存在」であることを求められるんだよね。

では人間はどうか。
人間は「自分自身で存在意義を見出す存在」なんだよきっと。

なんでそうなるかというと、そういう”権利”が与えられているから。(どこから権利を与えられているか、とかはめんどくさいから端折る)


こんなツイートもしたけど、その「人権を尊重出来る」さえ出来てれば、きっと犬の躾とは違う指導になっているんだと思う。

世に溢れている「練習のやり方」も、それをただ実行するだけならばそれは犬の躾だけど、そこに人権への尊重が含まれているなら、それは人間への指導になるのではないかな。


人権を尊重した指導がよくわからないなら、どっち都合で指導が決まるかで考えたら良い。

犬の躾は、指導者側の都合
人間の指導は、指導される側の都合
で指導内容が決まる。

そこに「相手の声」があるかないか、その声に耳を傾けているかどうか、と言っても良いかもしれない。

指導者が思っている方向に進むのではなく、指導される側が行きたい方向に進む、が人間の指導として理想なんだろうね。
もちろん未熟な子供達だとしたら、行きたい方向を整理する助けは必要だと思うけど。
ただそこにも指導者の思いを強く入れたらダメだろうね。


「粗相をしないかどうか」「芸が出来たかどうか」にしか興味を示さず、出来たら褒めたり喜んだり褒美をあげて、出来なければ叱ったり咎めたり罰を与える。
その”粗相”や”芸”はその指導者の価値観で、その方向に誘導する。
ね。
「御主人様にとって都合の良い存在」に導く犬の躾と何が違うんだと。


…うん。
こうやって記事を書きながら整理していたら、自分もよく犬の躾みたいな指導してたわ。

自分の思いやバイアスを極力排除して、もっと相手の声にフラットに耳を傾けたいと思う。



さて、ここまで読んで頂いた皆さんはどうでしょう。

「あなたの指導は”犬の躾”との違いはありますか」

そう問われたときに何と答えますか?



終わり


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