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愛とエロス

最近、コロナの悪影響と言うべきか、嘆かわしいことにSNSの影響などで接触が増えてそれが可視化するようになったからか、猥褻行為のニュースが散見されて、何だかやり切れない気持ちになる。

そういうニュースを見ると、相手の合意だけでなく、自分の意思だけで行動を起こしてしまう人の多さに複雑な気持ちになる。
(もっとも成年と未成年との不純異性行為は、未成年の意思によるものもあるから難しい。単なる愛情としてのであれば否定しがたい部分もあるが、家庭環境による愛情の枯渇だったり、承認欲求の道具として大人を使うという子も少なくないだろう。複合的であるから難しい。それを上手く利用するのが「大人」かというところもあるが。)


今、改めて、私なりに「エロス」という欲望を解釈して、考えてみようと思う。

そもそも、エロスというのはどういうものなのだろうか。辞書的意味では、こう出てくる。

エロス
1. ギリシア神話の愛の神。
2. 愛。純な友情および真善美への努力の象徴。

エロスの本来の意味には、「愛」がある。ただ、今はその文脈に愛は含まれないことも多い。


オードリーのラジオ「オードリーのオールナイトニッポン」の朝井リョウゲスト回で、流れで朝井さんがエロティシズムを言語化を試みたという話になり、

結局エロティシズムとは「アンコントロールなもの」だという所に帰着したという話をしていて、私の考えてることを言語化してくれた!って思ったんですよ。

自分はある程度コントロールできても、他人の思考はコントロール下にはないから、自己の中で論理立てて証明できないところにそこにエロティシズムが生じるのではないかということだったんですけども。

また、今の人は性的なものも、コントロール下(自分で精度の高い自己の好みに合ったものを取捨選択して欲求を満たすことができる。)にあって、アンコントロールなものに対する免疫が薄いとも分析していた。

それを聞いて、私は草食男子と呼ばれる人の増加は、欲求の減少というよりむしろ、欲求の内在化というところなのかなとも改めて考えたりもしたりもしたのね。

そもそも、娯楽が多様化し、娯楽としてのそれらが必ずしも必要ではない時代だということもある。
いや、それが認められる時代になったという意味では良いことだと思う。
三浦しをんさんの『愛なき世界』でも、植物に偏愛する女の子が描かれていて、恋愛至上主義に対するアンチテーゼというか、多様性を描いていて良かった。

要はエロスは、アンコントロールだからこそ、そこにはやはり愛が必要で、どちらかの欲求だけで成立していればそれはただ欲求をコントロール出来ない人というだけだ。自己満足のためだけに生きるのは、少し寂しいと思う。

美しく飾られた言葉より行動が全てで、そういうものを大切に生きていきたいなと思っている。

ニュースを見ながらそんなことを考える私なのでした。


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