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Bad Things/16

恋だけじゃない。でも、恋に振り回されないわけがない。そんな恋愛短編オムニバス
【episodeハルヒ〈1〉ベンチタイム】

【episodeハルヒ〈2〉一次発酵】


「ハルヒちゃん、ナオ君まだ来てないよね」

 叔父さんは私の肩越しにガラス戸の向こうをうかがった。

 濃い緑の街路樹、向かいの屋根の上には深く青い空。八月も終わり近くというのに、ジリジリと照りつける真夏の日差しが通りにおちる木の影をくっきりと描いていた。

「もうすぐ十一時になるのに。ねえ、叔父さん。サンドイッチ用のスライスしてあげたほうがよくない? 多分バタバタしてるんだろうから、とりあえず一本だけ。たまにモーニングが忙しくてサンドイッチ用のが足りなくなったとか、ナオ君が言ってるじゃない」

『豆蔵』がサンドイッチに使うのは、前日に納品した山食パンだ。

 店のマスターがいつも開店前の『タキタベーカリー』に寄って、朝イチで焼いた山食をモーニング用に買って行く。それが足りなかったらサンドイッチ用のをモーニングに回し、そうすると、サンドイッチ用のパンが足りなくなる。


 サンドイッチは当日の朝に焼いたパンだと柔らかすぎて中身の食材が勝ちすぎてしまう。足りなくなって当日に焼いたのを使うときは、厚めにスライスしてバランスをとっているらしい。

 一度だけそのバージョンのを食べたことがあるのだけれど、ふかふかしたパンのサンドイッチは、それはそれで味わい深い。けれど、やはりそれは『豆蔵』のサンドイッチとは違うのだ。

 マスターが来客予測を外すことは滅多にないけれど、完璧な予測なんてきっとAIでも無理。

 その予測が外れた日、ナオ君は「死にそう」なんて言いながら、パンの並んだ番重をひったくるようにして帰っていく。

 夏休みのあいだ、私はパンを取りに来たナオ君の車に乗って何度か『豆蔵』に行った。

 豆蔵特製の厚焼き玉子サンドとブレンド珈琲を注文し、十一時くらいからのんびり昼過ぎまで読書をして過ごす。

 カウンターに座ってナオ君の仕事ぶりをながめるのも楽しかった。通っているうちに仕事の流れみたいなものが分かってきて、『豆蔵』でアルバイトしてみたいと考えたりもした。

 実際に働くことはないと思うけれど、そんな妄想をしていたからつい余計なお節介をしたくなるのだ。

「叔父さん『豆蔵』の分スライスしちゃうよ。二本くらいスライスしてもいいけど、勝手に切って余らせたら悪いし」

 叔父さんは判断に困っているのか、うーんと呻るばかりだ。奥の流しで洗い物をしていた叔母さんが「もう」と呆れたように溜息をついた。

「二本切っちゃいなさい。切るのは朝イチで焼いた分ね。追加で買うかどうかは、ナオ君が来たときに聞いて。スライスしたのが要らないなら、その分は店売りにするから」

「店売りって、お前。『豆蔵』のサンドイッチ用は七枚切りだろう? そんなの普通の客は買わないんじゃないか」

 いいのいいの、と叔母さんは手を振って私を促す。

 二本分の山食をスライスし終え、袋に詰めたところでカランとドアベルが鳴った。思った通りナオ君はあわてた様子だ。

「ナオ君、サンドイッチ用のスライス二本あるけど」

 途端、彼の顔が安堵でゆるむ。

「マジ? 助かる。それ追加でもらえるかな。もう朝からバタバタで死にそう」

 叔母さんとチラと目を見合わせたあと、私は「もちろん」とうなずいた。

「あー、もう。ハルヒちゃんの笑顔に癒やされる。これを糧にもうひと頑張りしてくる」

 私が店のドアを開けると、番重を抱えたナオ君は「じゃあね」と店の前に停めた車にパンを積み込んだ。バックドアを勢い良く閉め、彼は手を振って車に乗り込む。

 外はうだるような暑さなのに、ナオ君の笑顔で暑さなんて吹き飛んでしまう。今会ったばかりなのに顔を合わせるだけでは物足りなくて、私はランチが落ち着いた頃を狙って『豆蔵』に向かった。

 たった一キロ、されど一キロ。ナオ君の元にたどり着いたときには汗びっしょりだった。

「いらっしゃい、ハルヒちゃん。パン、ありがとね。助かったよ」

 ドアを開けた瞬間、マスターが満面の笑みで迎えてくれる。マスターとナオ君の目元の垂れ具合がそっくりなのは、二人が親子だからだ。

 しかも、マスターは叔父さんの高校の時の同級生らしく、クラスも一緒だったとか。その上、クラスは違うけれど叔母さんも同級生。だから、叔父さんが高校の頃やんちゃだったなんて話が聞けたりする。

 叔母さんと叔父さんは高校の卒業式のあたりから付き合いはじめたらしく、二人の恋人時代のことはマスターはあまり知らないようだった。

 ただ、二人は一度別れたけど復縁したんだと教えてくれた。

『ハルヒちゃんの叔父さん、半ベソかきながら僕のところに押しかけてきたんだ。僕じゃなくて亜紀さん本人に泣きつけって追い返したけどね』

 マスターはその話をしてくれた時「懐かしいなあ」なんて言いながら、小さく鼻歌を口ずさんでいた。

『あのCDの借りは、そろそろ返してもらわないとな』

 独り言のようなマスターの言葉が引っかかったけれど、ちょうど店に入ってきた客に気を取られ、すっかり頭から抜け落ちてしまった。その時「こんにちはー」と愛想のよい笑顔で入ってきた客は、どうやらナオ君の友達らしかった。

 女トモダチ、だと思う。以前探りを入れたとき、ナオ君は「彼女かあ。なかなかできないな」と言っていたから。

 その女トモダチの姿が、一人窓辺の席にあった。グラスにはすでに小さな氷が残っているだけで、彼女は私と入れ替わるように席を立った。

「ナオ、そろそろ帰るから。飲み会の件はまた連絡する」

 ナオ君に向けられた彼女の唇はつやつやと光り、耳元のピアスも、華奢なミュールも、私とは全然違ってオトナだった。

「来週の月曜だろ。俺は店が終わってからになるから、行けたら行くってことで」

「いいよ、全然。だいたい月曜に飲み会ってのがおかしいんだから」

 彼女が会計を済ませ「おじさん、またね」と手を振ると、マスターも「バイバイ、リサちゃん」と気安い言葉で彼女を見送った。

 ナオ君は彼女と一緒に外に出て、しばらく二人で話していた。私は目の端でその様子をうかがいながら、マスターが出してくれたアイスコーヒーをすすり、文庫本を開いた。

「気になる?」

 不意にかけられた言葉に顔を上げると、マスターがこちらを見てニヤリと笑った。

 恥ずかしくなり、ストローを咥えたまま首を振って文字に視線を落とす。クスクスと聞こえてくるマスターの含み笑いに、私は居心地が悪くなって顔を上げた。

「どうして笑ってるんですか?」

「ハルヒちゃん可愛いなって。なぁ、ナオミチ」

 振り返るとすぐ後ろにナオ君が立っていて、彼は呆れ顔で父親を一瞥する。

 リップサービス過剰なところも父子そっくりで、口から生まれたというのか、多分こういった商売にはすこぶる向いているのだろう。

 こうして仲良く親子で働いているけれど、元はマスターが奥さんと始めた店なのだと叔父さんから聞いた。マスターの奥さん、つまりナオ君のお母さんは二十年くらい前に亡くなっている。

「自分の息子より若い女の子口説いてどうすんの。こんなエロオヤジ放っといたらいいからね、ハルヒちゃん」

 ね、と私の顔をのぞき込んだナオ君に「うん」とぎこちなく返事をすると、再びマスターの笑い声が聞こえてきた。

 ナオ君が私の髪をくしゃりとなで、その手はするりと離れる。心臓が騒ぎはじめる。

 カウンターに入ったナオ君が、「あ!」と声を上げて私を見た。

「ハルヒちゃん。『本の庭』連れてってあげようか。俺、四時あがりだし、本屋行こうと思ってたんだ。たしか行きたいって言ってたよね」

「行く! 行きたい!」

 即答した私の声は色んな意味で浮き立っていた。

『本の庭』は田舎の本屋にしては珍しく品揃えが豊富だ。特に芸術関係の書籍が充実していて、画材も売られている。

 店内は開放的な造りで、カフェ併設の閲覧スペースがあり、開催されるイベントやカルチャースクールも人気だ。

 車で二十分ほどの場所にあるけれど、郊外店の『本の庭』は車を持っていない私にとってアクセスが良いとは言えなかった。以前、そんな愚痴をナオ君にこぼしたような気がする。

 もうひとつ私の心が弾んでいる理由。それはもちろんナオ君と二人で出かけられるということ以外にない。

 ふと、疑問が浮かんだ。

「ね、ねえ。二人で行くの?」

 嫌なの、と問われてブンブンと首を横に振った。マスターが、ニヤニヤとこちらに視線を向ける。どうやら、私の気持ちに気づいて楽しんでいるに違いなかった。

 これが叔父さんと同い年の大人だろうかと思うけれど、オトナも年をとれば人それぞれなのだろう。反対されないだけ良しとすることにした。

 大学一年生の私はまだ十八歳で、秋が来ればようやく十九になる。ナオ君はすでに二十四歳。

 学年は五つしか違わないのに数字だけ見ると六歳も離れていて、しかも私は未成年。ナオ君の年齢をあまり意識しないでいられるのは、彼の気遣いと、あとは服装のおかげだ。

 いつもTシャツにジーンズというラフな格好で、仕事中は『豆蔵』と刺繍がされた茶色のエプロンをし、デニム地のキャップを被っている。マスターは同じエプロンをし、髪は後ろで一つに束ねていた。 

 私はそわそわしながら文庫の文字を追うけれど、まったく頭に入ってこない。マスターはそんな些細なことすら目ざとく見つけてしまいそうで、私は店内のラックからローカル情報誌を持ってきてぼんやり写真を眺めた。

「あ、それ同級生が働いてる店」

 ページを繰ろうとしていた手を止めると、ナオ君が「これこれ」と雑誌をのぞき込む。

 そこには『レスプリ・クニヲ』という高そうなフランス料理の店が載っていた。とても私なんかが行けそうな店じゃない。

「ナオ君、この店行ったことあるの」

 ないない、と首を振ったナオ君の顔はすぐ目の前にあって、彼はその距離をなんとも思っていないようだった。

 大人になると、この三十センチは当たり前になるのだろうか。それとも私が意識しすぎなのだろうか。

 これまで男の人と付きあったのは一度だけ。それも中学の卒業式から高校入学までの一ヶ月ほどだった。

 田舎の中学から市内の高校に進学すると、まわりはみんなお洒落な女の子たちばかりで、なんとなく気後れして「私こんなだから」とイケてないのをキャラで誤魔化していた。いきなり化粧なんかして「色気づいた」なんて言われるのも癪だった。

 それを変えたくて、大学が決まってからこっちに引っ越してくるまでのあいだファッション誌を読みまくった。けれど、いざ入学してみれば地味女ばかり。

 ジーンズにトレーナーといった女子であふれていて、張り切ってお洒落しようものなら逆に浮いてしまいそうだ。結局「イケてなくはない」という無難な服装で日々過ごしている。

 身近な友達のなかではお洒落な方なのに、いかにもイケてない子たちにはいつの間にか彼氏ができていた。その彼氏もハッキリ言ってイケてないのだけれど、彼女たちとの恋バナについていけないことにコンプレックスを感じる。

 夏休み前、「ハルヒも早く彼氏作りなよ」とい優越感に浸りたいだけの友人の台詞に、『好きな人いるよ。社会人』と、私は勢いで返していた。

 その時はパッと頭に思い浮かんだナオ君のことを口にしただけだった。なのに、それ以来ナオ君の顔を見るたびにドキドキしてしまう。

 恋に恋してるだけ。

 もしかしたらそれなのかもしれない。年上の彼と並んで歩く姿を想像して、もしかしたら服脱がされちゃうかもなんてバカなことを考え、考えれば考えるほどナオ君に会いたくなる。

 会えば会ったで「また」と手を振る彼に寂しさを覚え、二人で出かけたりしたこともないのに妄想はどんどん膨らんでいく。

 夏休みが終わるまでに少しでも近づいて、「一緒に花火に行ったの」なんて自慢したかったけれど、すでに花火の時期は終了してしまった。

 そして、今目の前にあるのはこの夏最大のチャンス。

「ナオ君、この店連れてって」

 絶対無理だと分かっているから、案外簡単に口にできた。

 紹介されている秋のコースは一人五千五百円。彼女でもないのに連れて行ってくれるはずがない。案の定「冗談だろ」と一笑に付された。

 が、神様は案外身近にいたのだ。

「ナオミチ、『本の庭』行くなら少し足伸ばして『ピッツェリア岬』で食ってきたら?」

 マスターは「カンパしてやるから」と、財布から五千円札を取り出してナオ君に渡した。

 ナオ君に「行く?」と問われてコクリとうなずいた。うなずいたら、緊張が体中を暴れはじめる。

 マスターは、どうしてこんなことをしてくれるのだろう。嬉しいけど、正直どうしていいか分からない。

 四時を過ぎて、ナオ君は「着替えてくる」と奥に引っ込んだ。その隙にマスターに小さな声で聞いた。

「……いいんですか? ごちそうになって」

「もちろん」

 鷹揚にうなずいたマスターの顔は優しく、そして、どこか遠くを見ているようでもあった。

「滝田んとこ子どもいないだろ。ハルヒちゃんが大学に入って一緒に暮らすってなったとき、すごく喜んでたんだ」

 ”滝田”は『タキタベーカリー』のタキタ。マスターが話しているのは叔父さんと叔母さんのことだ。

「だからっていうわけじゃないけど、ハルヒちゃんにはここでの暮らしを楽しんで欲しいなって思って。滝田の姪なら俺にとっても娘みたいなもんだから」

 本当に娘になってもいいよ、とマスターは囁いた。その意味を数秒遅れで理解し、頬が熱くなる。

 ひとり興奮する私の耳に、ポツリとこぼれたマスターの声が届いた。

「そしたら、ハルヒちゃんはずっと滝田の近くにいることになるからさ」

 軽い口調のその言葉は、マスターの本当の願いだったのだと思う。



「なんかハルヒちゃん大人しい」

 信号待ちで車を止めたナオ君は、助手席に座る私の顔をのぞき込んだ。

「俺の運転緊張する? 大丈夫だよ。安全運転だから」

 うん、と頷いたけれど『本の庭』に着くまでずっと同じ調子でポツポツとしか言葉が出てこなかった。

「なんかハルヒちゃんテンション高すぎ」

 後ろからついてくるナオ君を振り返り、「早く」と手招きする。

『本の庭』の駐車場は平日にも関わらずいっぱいで、店に出入りする人の姿も絶え間がなかった。

 入ってすぐの吹き抜け、正面には階段がある。柵越しに二階から見下ろす人がいて、その奥にはテーブルに座ってカップを傾ける人が見える。

 エントランスの案内板には二階で開催されている写真展のポスターと、今開かれているらしい絵画教室のチラシが貼られていた。

 ナオ君と一緒にまわれば良かったとあとで後悔したけれど、そのときは興奮して「先に行くね」と画集コーナーに陣取り、捲っては戻しを繰り返したけれど、結局何も購入しなかった。

 年頃の女の子は何かとお金がかかる。ネットで古本として安く売られてないか確認してから買おうと、泣く泣く書棚に戻し、画材コーナーも覗いてみようと奥へ向かいかけたところで腕を掴まれた。

「やっと見つけた」

 ナオ君は「ふう」と息をつく。

 ハッと気付いて時計を見ると、ナオ君と別れてから一時間近くが経っていた。

「見つかってよかった。せっかくだから暗くならないうちに出よう。海沿いのドライブだから」

 ね、と微笑むナオ君に、距離が近づいたような錯覚をおこす。まるで恋人みたいに、手を引かれて店から出た。

 助手席に座っても来たときのような緊張はなく、隣にいるのを許されたような気になる。その一方で、ナオ君の笑顔に胸が締めつけられた。

 私が恋してるのは、”恋に”じゃなくて”ナオ君に”なんだ。そんな確信が心のなかに芽生えた。

 運転席側の窓には海が見えている。私はそれを眺めるふりをしながら、ずっとナオ君の横顔を見つめていた。

 ナオ君は「ちょっと寄り道」と海岸沿いの空き地に車を乗り入れる。

「今年の夏は海来れなかったんだ。ハルヒちゃんは?」

「私は七月に一回海水浴に行ったよ」

「友達と?」

 うん、と答えると「男も?」と聞かれ、驚いてナオ君の顔を見た。彼は私の言葉を待たずに車から降りて、隣に並ぶと手をとって歩き出す。

 繋いだ手がじっとりと湿ってきて、恥ずかしさと期待を抱えながら砂浜を歩いた。その先に護岸工事のされたコンクリートの段があり、パシャパシャと穏やかな波が打ちつけている。

「ギリギリ。半分くらい沈んでる」

 水平線の上に、半円の太陽が残っていた。地ベタに座りこんだ私の隣に、ナオ君は腕が触れるほどの近さで腰を下ろす。

「男も一緒だったの?」

「え?」

「海水浴」

 首を振ると、ナオ君は口元に笑みを浮かべて「パンの匂いがする」と私の髪に顔をうずめた。彼の手が私の頭を引き寄せ、「汗臭いよ」と言っても彼は離れなかった。

 どうしたらいいか分からず、不意に彼の感触が離れて「汗の匂いってさ」という声が耳元で聞こえる。その後に続く言葉は何だったのだろう。

 彼は続きを口にしないまま、そっとキスをした。

 触れた唇が離れ、ナオ君は「太陽が見えなくなるまで」と、また唇を重ねる。

 唇が合わさり、離れかけては近づき、そんな時間は長かったような、短かったような。いつのまにか太陽の姿は水平線の下に消えていた。

 やっぱり、夢でも見ていたのだ。

 恋に恋しすぎて、ナオ君に恋しすぎて、ひとりナオ君の隣で妄想していたのかもしれない。

 そう考えてしまうくらい、そのあとのナオ君の態度はいつも通りだった。

 それでも私は浮かれていた。期待しないはずはなかったし、”彼女”っぽい存在になれたのだと思っていた。

 けれど、それはあっさりと打ち砕かれた。

 翌週の月曜のことだった。私は例のごとく『豆蔵』で厚切り玉子サンドにかぶりついていて、カウンターの向こうに立っていたナオ君の顔が「あ」と何かに気付いて笑顔になる。

「こんにちはー。ナオ、高波連れてきちゃった」

「ナオミチ、ひっさしぶりー」

 あからさまに振り返ることはできず、ただ女の人の声が「リサ」だということは分かった。

 ナオ君はカウンターから出て、私がそろりと振り返ると、リサの隣には男の人がいた。

 人懐こい笑顔で「あちー」と言いながら、手で顔を扇いでいる。リサの彼氏だろうか。そうならいい。

 ナオ君が私に向ける笑顔はリサに笑いかけるときよりも優しい。でも、リサに対する時のように対等ではなかった。

「妹」にキスなんてしないよね。

 そう思うけれど、好きだとも付き合おうとも言われていなかった。

 そんな言葉なんてなくても恋人にはなれる。「どっちからとかじゃなくて、何となく、気づいたらそんな感じ」と、友達は自分の馴れ初めを話していたけれど、私は不安でしょうがなかった。

「ハルヒちゃん、こいつらちょっとうるさいけど隣座らせてやって」

 店内を見ると、どうやらカウンター以外席はないようだった。

「ごめんね。隣いい? たまに来てるの見かけるけどナオの知り合いだったんだ」

 きれいに整えられた眉にすっきりとしたアイライン。口紅もいやらしくなく、目の前で気安い笑みを浮かべるリサは、ナオ君より二つか三つくらい年上に見えた。

 話し方がいかにも目下の子どもに向けたような響きで、あまりいい気分ではない。

「『タキタベーカリー』の親戚の子で、今そこに住んでんの。店の手伝いもしてるから、うちもお世話になってるんだ」

 ナオ君は私のことをそんな風に紹介しながら、水の入ったグラスを二人の前に置いた。

「あ、そうそう。ハルヒちゃん、リサの後輩だわ」

「もしかして大学一緒? 私ナオと同級なんだけど、今年で院の一年目。経営のね」

「あ、私は人文の一年、です」

 リサは何が楽しいのか「本当?」とテンションが高く言う。

「若いねー。うらやましい。私なんてもうオバサンだよー」

 絶対思ってもいないことを、リサはヘラヘラと口にした。ヘラヘラと、というのは私の主観だ。

「十八?」と問われたので素直にうなずいたけれど、来月で十九だと言う前に、高波と呼ばれた男性が口をはさんだ。
 
「十八かあ。ナオミチ、可愛いからって未成年に手ぇ出すなよ。五つ下なんて犯罪だ」

 心臓がギュッと潰されたようだった。

 冗談だと分かっている。たぶん、ノリだ。そして、絶対ありえないと思っているから口にできるのだ。

「ほんとほんと」と、リサは被せるように囃し立てた。堪らず唇を噛んでいた。

「分かってるよ、そんなの」

 それがナオ君の声だと認めたくなかった。

「ハルヒちゃんだって、俺みたいなオッサン相手にしたくないって」

 そんなことないよ、と軽く返せるくらいなら、私の隣にはとっくに誰か男の人がいたはずだ。

 けれど実際の私はそうじゃない。

 恋愛に慣れてもいないし、ナオ君の言葉を否定してみたところで、リサや高波に「やめときな」と言われるのが関の山だ。

 そのあともリサにからかい混じりの質問で攻められ、私は愛想笑いと相槌でやりすごした。ともすればこぼれそうになる涙に意識を向けないように必死でヘラヘラ笑っていた。

 ヘラヘラ、ヘラヘラ。

 本当に中身のない笑顔を浮かべて、心の中も空っぽになっていった。

 リサと高波が「また夜ね」とナオ君に声をかけて店を出て行く。ナオ君が彼らを見送りに出ている間にそそくさと会計を済ませ、店に戻ってきたナオ君に「私も帰る」と言ってドアを開けた。

「あ……」と中途半端なナオ君の声が聞こえたけれど、気付かないふりをして外に出た。

「あ、帰るの?」

 正面から聞こえた声に顔を上げると、買い物袋を両手に持ったマスターが立っている。

「ごめん、ハルヒちゃん。ドア開けてくれる」

 優しい笑顔に涙腺の我慢がきかなくなりそうだったけれど、いつも通りの自分で「どうぞ」とドアを開けた。

「ハルヒちゃん、何かあった?」

「いえ。外、暑いですね。溶けちゃいそう」

 マスターは安心したように「またね」と口にし、私は「ごちそうさまでした」と頭を下げて背を向けた。

 カランという音と、バタンとドアの閉まる音。

 それを確認し、まっすぐ帰る気になれず道を曲がって県立博物館へと向かった。

 汗が次から次へと流れ落ちて、服も、顔もぐしゃぐしゃになる。博物館には入らず、前庭の端で日陰に座り込み、そのまま膝を抱えて涙を流した。

 声を上げないように、出てくる汗と涙をじっとハンカチで押さえて、それがおさまるのを待っていた。 

 その日以来『豆蔵』には行っていない。

「大学でレポート」というありきたりな理由と、懸命に作り上げた普通の私の笑顔に、ナオ君はそれ以上深く問いただすことはしなかった。彼にとってもその方が良かったのだ。

 恋心は簡単に消えてくれなくて、ふとした瞬間疑問が浮かぶ。

 ――ナオ君、どうしてキスしたの?

 口にしてしまったらきっと私の恋は完全に終了。そうなれば顔を合わせるのも気まずくて、バイトもまともにできそうになかった。だから聞かない。

 自分の気持ちは心の中におさめて、報われない恋は自分で整理をつければいい。


次回/【episodeハルヒ〈3〉成形】


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