Bad Things/14

【episodeサチ〈2〉交差点】

「ヒナキ、まかないの前にちょっといいか」

 樋引の声に、ヒナキは肩を縮めて後ろをついていった。残されたスタッフは心配げに二人の後ろ姿を見送り、その中で一人、私だけが心配ではなく嫉妬を感じている。

「サチ、悪いけどお前も少しいいか?」

 事務室の前で立ち止まった樋引が手招きした。

「お前とヒナキの飯持ってこっち来い。俺のはいいから」

 意図する所が分からず問いかけるような視線を送るけれど、彼は意に介さずさっさと事務室の扉を閉める。そして彼らは今あの部屋のなかに二人きりだ。

 仕事だと分かっていても胸がざわつくのは単なる条件反射。それをやり過ごすことには慣れている。私は大皿に盛られたまかないを二枚の皿に適当にのせ、「じゃあ」と他のスタッフに声をかけて事務室に向かった。

「サチさん、水いります? フォークも」

 ケイスケの声で自分の手元に視線を落とすとそこにあるのは料理だけ。これでは手づかみで食べるしかない。

 閉めきられた事務室のドアをノックし皿だけ渡すと、ちらりと見えたヒナキは椅子に座ってうなだれていた。

 何となく気まずく、部屋を出てケイスケを待った。デシャップ越しにフォークの刺さったグラスを差し出す彼は「サチさんってたまに抜けてますよね」と笑顔を向けてきたけれど、私が言葉を返すまえにその表情は奥に引っ込んでしまう。

 ケイスケの視線は樋引とヒナキのいる事務室に注がれていた。

「大丈夫でしょうか?」

 ケイスケが心配しているのはヒナキだ。ヒナキより二歳年下のケイスケは、三年前にこの店に来たときから彼女になついていた。

 どうやらケイスケはヒナキに想いを寄せているようなのだけど、その二人の関係が最近妙によそよそしい。ヒナキのミスも目につくし、それは彼女自身も自覚しているだろう。

 二人のあいだに何かがあったのかもしれないし、そうではないかもしれない。もしあったとしたら少々面倒臭そうだ。なぜなら、ヒナキには澄田という恋人がいる。

 澄田は『シェ・アオヤマ』という別の店のシェフだった。彼がヒナキと付き合い始めたのはケイスケがここに来てしばらく経った頃だと記憶している。

 元々その店と『レスプリ・クニヲ』には交流があって、仕事終わりに合流して飲みに行くこともあった。初めて顔を合わせたヒナキと澄田がどんな様子だったかなんて、私の記憶にはない。ただ、付き合いはじめた頃のヒナキは一生懸命で初々しかった。

 それが一年ほど経つと”おしどり夫婦”と冷やかされるようになり、樋引などは澄田のことを”ヒナキの旦那”と呼んでいる。が、その呼び方は最近耳にしない。つまり、樋引も彼らの変化に気付いているということだ。

 最近、『シェ・アオヤマ』と合流して飲みに行っても澄田が顔を出さない。以前は必ずといっていいほど、ヒナキがいればその隣に澄田がいた。

 ヒナキのミスが増え、彼女とケイスケがよそよそしくなり、澄田が顔を見せなくなった。振り返ればそのすべてが同時期で、そこに関連性を見出すのは必然だろう。

「ケイスケ、何か心当たりある?」

 私の問いかけに「さあ」とケイスケの視線が泳ぐ。

「三角関係で仕事が手に付かないなんて最低ね」

 彼の「違う!」という思いのほか鋭い声と、刺すような視線に私が怯んだのはほんの一瞬。大きな声ではないし、私だけに向けられたその声は他の誰の耳にも入っていない。

「早く行ったほうがいいですよ」

 ケイスケは不貞腐れた声を出し、私は何だか白けた気分で再びドアをノックした。

 ヒナキのまわりには味方ばっかりで、これで彼女が愛想やフェロモンを振りまくタイプなら心おきなく罵倒できるのだけれど、如何せん普段の彼女が努力家だということは誰の目にも明らかだ。休みの日に契約農家の畑を訪れるくらいには。

 そうは言ってもここ最近の彼女は目に余る。恋愛で仕事が手に付かないなんて、ホント、やってらんない。

 持って来させた食事が二人分ということは、樋引は私と彼女を事務所に残して立ち去るつもりだろう。何をさせようというのか分からないけれど、彼女を優しく諭す気にはなれない。

「……入っていいですか?」

 ドア越しに「ああ」という樋引の声が聞こえる。ドアをそっと押し開けるとヒナキはチラと視線を上げたけれど、首はうなだれたままだった。

 事務机が一つと本棚が一つ。あるのはそれだけで、奥には倉庫の扉があり、樋引はその前で折りたたみ椅子に座っていた。ヒナキは机に背を向けるようにくるりと回した椅子に腰を掛け、私は樋引と向かい合う場所で脇のスツールを引き寄せて座った。

 足を伸ばせばお互い触れ合うくらいに狭苦しい空間だ。

「ヒナキには話したけど、しばらくこいつには接客の方させようと思ってる。サチ、頼んでいいか?」

「え……?」

 予想外の話に、戸惑うばかりで返事をすることができなかった。樋引はひとつ溜息をつき、おもむろに口を開く。

「最近のヒナキは集中できてない。誰のために料理を作ってるのか、そんな当たり前のことが頭から抜け落ちてる。厄介払いという訳じゃない。ちゃんと自分が何やってんのかその目で見て来い」

 樋引の言葉は私ではなくヒナキに向けられたもので、私の中にはまた苛々が積もっていく。それを顔に出せないのは彼女より一回りも年上だから。

「すいません」というヒナキのか細い声が、余計に私の心をざらつかせた。

「ヒナはそれでいいの? 料理したくてここで働いてるんでしょ」

 声音というのはなかなか感情をごまかせるものではないらしい。私が苛立っているということはしっかりヒナキに伝わったようだった。すっかり萎縮し、彼女の口からは何も出てこない。

 私はもう一度溜息をつき、視線を樋引に移した。彼はただじっと私を見返してきて、そこには頼み込むような素振りも、命令するような威圧もなかった。

「分かりました。ヒナは明日からこっちでいいです」

 樋引の表情が緩み、それに愛しさと腹立たしさを覚える。

「サービスだからって気を抜かれても困るから。集中できない原因が分かってるなら自分で何とかしないと、どこ行っても何も変わらないわよ」

 吐き捨てるように言うと、「はい」という殊勝な声が返ってきた。それを機に樋引が椅子から立ち上がる。

「話が終わりなら、私達も向こうで食べます」

「いや。悪いけどヒナキの話聞いてやって。サチも言ったろ。集中できない原因をどうにかしろって。女同士で話してみてよ。俺じゃ話しづらいこともあるだろうし」

 頼むよ、と言われれば嫌とは言えなかった。

 樋引は一人部屋を出ていき、私は樋引の座っていた奥の椅子に移動した。「とりあえず食べようか」と机に置かれていたまかないの皿をヒナキに手渡す。彼女は素直にそれを受け取ったけれど手をつけようとせず、私がチキンの端切れを口に運ぶと、ようやく彼女はフォークを手に取った。

「……ヒナ、澄田さんと別れたの?」

 彼女を傷つけようという意図がまったくなかったと言えば嘘になる。直球の言葉に、ヒナキは驚きを隠すことなく私を凝視した。

「どうなの? ケイスケともぎくしゃくしてるみたいだし、三角関係でもこじらせた?」

 そこまで言うとヒナキの顔からは強張りが消え、そして覇気なく頭を振った。

「ケイスケは、何も。私も感じてたんですけど、ケイスケがどうして私を避けるのかよく分かりません」

 彼女の口ぶりからそれは本当のようだった。こんな風に自信なさげに俯く姿に、男どもは守ってあげたいと思ったりするのだろう。けれど、悲しむのも浸るのも一人でやって欲しい。三十八年間独り身でいた私からすれば、彼女は甘えているとしか思えない。

「で、旦那とは?」

 ヒナキの表情にわずかに怒りが浮かんだ。明らかに皮肉だったし、もちろん彼女を傷つけるつもりだった。

「旦那じゃありません」

「別れたんだ」

「別れて、ません」

 絞り出すように口にしたヒナキの目から涙があふれ頬を伝った。

 彼女の皿はほとんど手付かずのままで、その手からフォークが落ち、床の上で鈍い音を立てた。私はそのフォークを拾い、「涙拭きなさい」とティッシュを渡して事務室から出た。

 扉を閉めると思わず溜息が漏れる。そのときガチャリと通路の奥の裏口が開き、顔を出した樋引が怪訝そうに私を見た。

「サチ、中は?」

 ぞんざいに顎で事務室を指す樋引の顔には批判の色が浮かんでいる。泣きたいのはこっちだ。とばっちりで子守をさせられ、そのうえ樋引からはこんな視線を向けられる。

「泣かせたけど、私のせいじゃないですから。フォーク洗いに来ただけです」

 何か叱責の言葉でも浴びせられるかと思ったけれど、樋引は「まあ、お手柔らかに頼むわ」と私の肩を叩いてスタッフの中に紛れていった。

 どうしてこんな時だけ触れてくるのだろう。私ではなくヒナキを気遣って。彼の網膜は私のことなんて捉えてないのかもしれない。

 厨房に入るのをやめ、棚から新しいフォークを取り出して部屋に戻った。八つ当たりするようにドスンと椅子に腰を下ろし、フォークを差し出すとヒナキは「すいません」と両手で受け取る。

「別れてないなら、何? 浮気でもされた?」

「浮気……たぶん、されました」

 体中に燻っていた苛立ちが一瞬で真っ白に消え去った。

 ――まさか澄田が?

 そんな返答が返ってくるとは思っていなかった。けれど男なんてそんなものかもしれない。

「まさかあの人が」というのはよくあるパターンで、実際に私が関係をもった男性の中にもそういうタイプの人はいた。

 真面目だからこそ家庭のなかできっちりと役割を果たそうとする、見た目もごくごく平均的な人だった。私との関係はいっとき傷を舐め合うだけの消耗品で、彼は何事もなく家庭に戻り、いつしか連絡も途絶えた。寂しさは時とともに埋まる。

 ぽつりぽつりと話すヒナキの言葉を、私はただ聞いていた。

 浮気相手になったことはあっても、特定の相手がいなかった私には浮気をされたという経験がない。そもそも私にまともな恋愛経験がないのを知っている樋引が、どうしてヒナキの相手をさせようとするのか。そんなことを考え、消えていた苛立ちが徐々に舞い戻ってくる。

 スミ君の――とヒナキは口にした。スミ君とは澄田のことだ。 

「スミ君の部屋に女物のピアスが落ちてて、聞いたら妹が来てたって言うんですけど、いつ来たのかもはっきり言わないし。そうしたら、少しずつ彼の行動が疑わしく思えてきて、……いつの間にか彼の気持ちが離れてたのにも全然気付かなくて」

「どうして澄田さんの気持ちが離れたって分かるの? 向こうが別れようとか言ってきた?」

「いえ。私が距離を置こうって言ったんです。もうどうしていいか分からなかったら。……本当は『いやだ』って言ってほしかった。でも、スミ君『俺もゆっくり考えたかった』って。私とのこと」

 ヒナキの代わりに、私は思いっきり溜息をついた。

「結局疑惑は疑惑のままなんだ。それで、ヒナは何をぐずぐず悩んでるの?」

「一度ちゃんと話したいけど、私から距離置こうって言ったのに……」

 贅沢よねと私が言うと、ヒナキはその意味を理解しかねたのか首を傾げた。

「自分からは何も知ろうとしないで、疑ってばかりで、怖くなって距離を置いて。で、やっぱり寂しいから話がしたい? じゃあそうすればいいじゃない。向こうが別れたいって言ってきたわけでもないし、向こうも同じように話したいと思ってるかもしれない。もしかしたら自然消滅を狙ってるのかもしれないけどね」

 最後の一言でヒナキが顔を背ける。

「ヒナは話がしたいんでしょ? ならそうするしかないじゃない。それが出来ないからってプライベートをぐずぐず店まで持ち込まないで」

 ヒナキが唇を噛みしめるのが目に入ったけれど、言葉を緩める気はなかった。

 女同士で話してみろなんて言ったのは樋引で、私がこの密室で何を話そうが、もうそれは彼の責任にしてしまえばいい。恋愛感情を押し殺して日々勤めてきたのに、ヒナキにそれを吐露させて私はダメなんて、そんなことは言わせない。

「ヒナはまだいいじゃない。話してみたら案外何もなかったみたいに元に戻るかもしれない。私なんて見返りもないのにずーっと一方通行の片思いよ。五年も前から『無理だ』『やめろ』『他の男にしろ』それしか言われたことない。私だって諦めたかったわよ。その方が楽だし、一緒に働いてくのにはその方がいいし」

 ヒナキは私の独白が身近な話だと気付き、その顔に戸惑いの色が浮かぶ。私は少し笑いそうになった。

「あのクソ樋引、男のケツばっかり追っかけまわして私には指一本触れてこない。分かる? 分かんないわよね。ヒナみたいに男にチヤホヤされてる人間には分からない。甘えてばかりでいつも受け身。ヒナが頑張ってきたことも知ってる。でも、一度駄目だったからって簡単に諦めるような人と私は一緒に働きたくない。仕事も、男も。簡単に尻尾巻いてどうするのよ。傷つかないでいようなんて虫が良すぎる。私が何度玉砕してると思ってるの」

 息が切れて、私はグラスの水を一気飲みした。そして、呆気にとられているヒナキを放って皿の料理を黙々と口に運んだ。それに倣うようにヒナキもまかないを食べはじめ、きれいに食べ終えたあと彼女は「ありがとうございます」と口にした。

「何の礼だか知らないけど、私はヒナを励ますつもりで言ったんじゃない。まわりがみんな自分に優しいとか思わないで。礼を言う前に行動で示しなさい。言っとくけど、仕事のことよ。ヒナのプライベートな報告を聞くつもりはないから、そっちは自分でどうにかして」

 分かりましたというヒナキの声は今日聞いた中で一番マシだった。

 ケイスケにはあとで探りを入れたほうがいいかもしれない。彼とヒナキのギクシャクした関係には澄田の問題とは別の原因があるようだ。

 彼女を奪うチャンスかもしれないのに、どうやらケイスケは何の行動も起こしていない。起こしていないどころか意識しすぎて距離をとってしまったのかもしれない。動くのも動かないのも彼が選んだことだ。

 チャンスを目の前にしながらそれを見送るというのは、私には不甲斐なく思える。けれど、私がどうこう言うことでもない。職場のコミュニケーションが問題なくとれていれば口出しするつもりもないし、皆が皆、私のように猪突猛進するわけではない。それくらいは分かっている。

「私、スミ君に会ってきます」

 ヒナキの顔にはまだ不安の色が浮かんでいたけれど、それは彼女が彼女自身の問題とぶつかって乗り越えることでしか解消されない。

 ――うまくいけばいい。

 そんな偽善者ぶった考えが頭に浮かんだ。でも、それを口にするほど私は優しくない。

「私も全部オープンにしようかな。私が樋引さん狙いだって知れば、男どもも簡単にキスさせたりしないでしょ」

 樋引が私を遠ざけるためにバイセクシャルであることをオープンにしたのなら、私はそれと同じやり方をさせてもらう。ヒナキは「本気ですか?」と目を丸くし、私は「もちろん」と深く頷いた。

「サチさん、私もがんばります。勇気もらいました」

 ヒナキは深々と頭を下げ、二人分の皿とグラスを手に事務室を出ていった。入れ替わるように樋引が中を覗き込み、私は強引に彼の手を引いて厨房へと引きずっていく。

 まかないを終えて洗い場と食器棚のあたりに散らばっていたスタッフが何事かとこちらを振り返った。

「スタッフの皆さん! 私、サチは樋引料理長にアプローチ中ですので、彼に余計な誘惑やちょっかいは出さないようお願いします!」

 一瞬時が止まり、その後どよめきと拍手と笑いが起こった。

「……サチ、お前」

 ドヤ顔を樋引に向けると、彼は怒ることもなく脱力していた。私の手を振り払いもせず苦笑している。

 ああ、やっぱりこの人好きだ。

 じわじわと胸に広がる想いを噛み締めながら樋引の手を離し、スタッフに混じって戸締まりの確認をした。これから職場の中でどんな立ち居位置になるのか、考えてもどうしようもないからなるようになるだろう。

 ケイスケが「本気ですか?」と私の顔をうかがう。どうやら身近なゴシップネタを楽しんでいるようだった。

「本気じゃなければあんなことできないでしょ? 私とケイスケの違いは多分そこね」

 ケイスケは「そうですね」と一転自嘲のような笑みを浮かべた。

「諦めるんだ、ヒナのこと。今チャンスかもよ」

 小声で囁きかけると、ケイスケはおどけたような表情で首を振った。

「色々考えたんですけど、ヒナキは澄田さんしか見てないから。それに俺、他に気になる奴ができちゃったんで」

「はあ?」という私の声に、近くにいた何人かが振り返る。何でもないと手を振って彼らの視線から逃れ、ふと見るとケイスケは私の反応にニヤニヤと笑みを浮かべていた。

「いいわね、簡単に諦められて。私もそうできたら楽なんだけど」

「諦めたいんですか?」

「どうかな。すでに諦めることを諦めちゃったから。自分がそうしたくてしてるだけよ。今さら他の人を羨んでも仕方ないしね。これが私なんだもの」

 そう、これが私。

 妬みや僻みや、もっと汚い感情も、嫌というほどこの体のなかに渦巻いている。

 追いかける恋愛ばかりにのめり込むのも私。一人でいいと強がりながら寂しさに震えるのも私。まっすぐぶつかりながら、砕け散って泣きわめき、それをポーカーフェイスで隠し通すのも私。

 ”後悔なんかしない”

 それを道標に生きてきた。たとえ一人、道端で野垂れ死にすることになったとしても、それまではもがき続ける。いつも手を伸ばし続け、それは私をその先へと導いていく。

「帰るぞ」

 裏口のドアの脇にある電気を消すと、すぐ外で小さな明かりが灯る。それは樋引が咥える煙草の火。

 彼はひとつ大きく煙を吐くと「してやられた」と私の顔を見て笑った。

 隣同士並んで壁にもたれかかり、私は試しに彼の肩に頭をのせてみる。それは振り払われることも押し戻されることもなく、「バカなやつ」という小さな呟きが間近で聞こえた。

「好きなんです」

「聞き飽きた」

「樋引さんは好きな人がいないんですか? それともまだ州生さんが好きなんですか?」

「州生のことは、多分一生好きなままじゃないかな」

 躊躇いながら、私はまた玉砕することを覚悟で口を開く。

「私のことは?」

「サチはまだ生きてるからなあ。一生好きかどうかなんて分からない」

「じゃあ、今は?」

 沈黙が続いて、私が返事を待っているあいだに彼は煙草を一本吸い終わってしまった。答える気はないのかもしれない。それでも今までよりマシ。他の男にしろと言われるよりよっぽどマシだ。

「サチは俺と似てる気がしてた」

 煙草の小さな火がなくなっただけで不意に闇が濃くなり、彼との距離が近づいたように思えた。

 空を見上げる樋引の隣で、視線の先を追う。何の変哲もない、いつもと変わらぬ仕事終わりの夜空。

「俺はまともに誰かと向き合うのは苦手だ。だから適当に楽しくやって、好きなやつのことは心ん中で想ってればいい」

「料理に対する姿勢とはずいぶん違いますね」

「反動かな。料理はちゃんと手をかければ応えてくれる。人と人の関係はそういうわけにはいかない。だろ?」

 身に沁みてます、と言うと、自分で言わせておきながら彼はクスクスと笑った。

「サチも向き合うのが嫌だから俺を追いかけてるんじゃないの? 振り向かないから追いかけるだけでいい。向き合わなくていい」

 樋引の言ったことは何度も自身に問いかけてきたことだった。けれど、その答えが出ることはない。それが私の結論だ。

 考えても仕方ないのなら、いつも通り手を伸ばし続けていくしかない。手を伸ばさなければ掴むことはできないし、掴んだあとのことはまた考えればいい。掴んでもいいものと掴んではいけないもの、それくらいの分別はつくようになったはずだ。

 手を伸ばすのはいつも傷つく覚悟と引き換えで、なにを望んでいるのかは欲に塗れて見えなくなる。だから、やはり考えても仕方ないのだ。

「私バカなので実践しないと分からないんです。だから、試しに向き合ってみませんか?」

 本気? と問いかける樋引の顔がすぐ近くにあった。

「私はいつも本気ですよ。はぐらかしてるのは樋引さんです」

 そっか、という呟きとともに、彼は小さなわだかまりを闇へと吐き出したのかもしれない。

 理性、自制、責任。

 私を遠ざけるだけの理由はたぶんいくらでもあったのだろう。それ以前に、彼はただ変わりたくなかっただけなんじゃないか、州生を忘れることを怖れていたのではないかと、少し悲しげに寄った彼の眉間を見て思った。

「サチ、傷つけたらごめんな」

 自分ばかり傷つこうとして、そんな甘さの欠片もない言葉で彼は私の体を引き寄せる。

 ヘラヘラと本心を隠しながら、本当は誰より傷ついているくせに。その傷を拭ってあげたいと思うけれど、私にできるのは傷から意識を逸らすくらいのこと。樋引は私を見ていればいい。

 頬をなで、髪を梳くと、彼の唇が瞼のうえに落ちてきた。
 
「私の打たれ強さは、もう知ってますよね」

 ふと唇の離れた隙に囁くと、「そうだな」と彼の口元が笑う。

 私が掴もうとしていたものが何なのか、それは今この目に映るものだと悟った気になったのは、たぶん闇に陶酔した蒙昧な私の勘違いだ。


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episodeサチで名前の登場したシンイチロウ(慎一郎)とソウタ(爽太)は長編「Trace」に出ています。同作には『レスプリ・クニヲ』に来る直前の樋引も登場しています。6年前という設定です。


次回【episodeハルヒ〈1〉ベンチタイム】

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