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掌編小説『見つめる者たち』

 数年前に起きたM県O町採石場での崩落事故は局所的な大雨が原因だった。当時土砂災害警戒警報が発令されていたこともあり人的被害はなかったが、採石場周辺で五箇所の土砂崩れが確認され、地質調査の甘さが指摘されて採石場は閉鎖した。

 採石権はS工業会社にあり、土地所有者との契約締結時には現場の再緑化が盛り込まれていたというが、崩落事故後にどんな話し合いが行われたのか、採石場閉鎖が決まるとS工業会社は早々に現場から撤収したのだった。

 採石場にもっとも近い集落は蒲谷地区。フリージャーナリストのタムラがそこに取材に向かったのはS工業会社の友人キリヤマから不可解な早期撤収の話を聞いたからだ。タムラはキリヤマの話を録音し、文字に起こしている。

『キリヤマ(以下K):おれはあの現場に二年いたんだが、最初は別に、よくある田舎の山奥って感じだった。
 いつ頃からだったかな。工事の音がガンガン響いていても鹿や猪、兎や猿なんかが平然と現場に出てくるようになったんだ。作業を観察してるみたいに遠巻きにじっと見てると思ったら、昼飯食ってトラックから出るとドアのすぐ外にいるんだ。餌が欲しいのかと思ったが、弁当には見向きもしない。
 野生動物というより精巧に作った動物型偵察ロボットみたいだった。つぶらな瞳の奥にはカメラが仕込まれてるんじゃないかってさ。
 工事の邪魔をするわけじゃないし、そのうちみんな慣れていったが、おれはずっと気持ち悪かった。

タムラ(以下T):あの辺って人は住んでないのか?

K:現場から三キロほど下った山麓に蒲谷地区ってとこがあるんだが、そこでちょっと奇妙な話を聞いたんだ。
 おれがトラックで通りかかったとき畑に二、三人いて、畦道の鹿を指差してた。それでおれはピンと来たんだ。あの人たちも気味悪がってるって。やっぱりそうだった。
 最近山の動物が妙だって言うんだ。以前より頻繁に田畑や民家周辺をうろついてるのに、農作物被害は減ってるんだって。まるで野生動物が観光で人里に降りて来てるみたいだと。

T:農作物被害が減ってるならいいことじゃないか。採石場でも邪魔されたわけじゃないんだろう。

K:まあな。だが話の続きがある。崩落事故のあとに蒲谷地区で妙なことがあったんだ。

T:妙なこと? 

K:崩落が起きたあの日、山頂付近は局所的にすごい降りだったんだが、蒲谷地区はそうでもなかったらしい。警報が出てるから小学校は休校で、午後に雨が上がったあと何人かの子どもが増水した川を見に行ったんだ。山の上はまだ降ってた。

T:もしかして、子どもが流されたとかそういう話か?

K:いや、流されたのは子どもじゃなくて動物だ。一匹や二匹じゃない。水が引いたあとに確認したら、蒲谷地区内にある二箇所の河原に、熊が一頭と鹿が四頭、猪が七頭、他にも狸やイタチや小動物の死体が転がってたらしい。
 蒲谷地区最長老のカツ爺さんの話だと、祟りだってさ。

T:祟り?(笑い)

K:土砂崩れのあった場所に古い祠があったらしいんだ。その祠には長年誰も近づけなかった。

T:どうして?

K:カツ爺さんが子どもの頃に祠周辺が沼地になったらしい。原因は不明。
 その当時の爺さんの友達二人が沼地探検に行って狐憑きになったとかで、それで立ち入り禁止だってさ。

T:狐憑きっていつの時代の話だよ。

K:カツ爺さんが子どもの頃だから八十年くらい前。
 話はまだ終わらないぞ。あの大雨の後で河原に動物の死骸を見に行った小学生三人が狐憑きになったって言うんだ。暴れはしないが言葉が理解できない。精神科に連れて行かれて、たぶん今も入院してる。
 おれはもうあの採石場には関わりたくないが、おまえはジャーナリストだろ。調べてみたらどうだ?

T:狐憑きをか? オカルトはおれの専門じゃないぞ。

K:土地所有者とS工業の間でどんなやりとりがあったのか調べてみろよ。採石権を持ってたS工業がさっさと撤収したのは、動物の変死と関連してる気がする。熊やら鹿やらごっそり流されて報道されないなんておかしいだろう?』

 金曜夜の居酒屋でキリヤマとこんなやりとりをした後、タムラは週明けにO町役場に電話をかけた。例の動物死骸処理を担当した職員に話を聞くためだ。

 電話口に出た女性は「少々お待ち下さい」としばし席を外した後、上司からそう言えと命じられたような口調で「当時の担当者は退職いたしました」と答えた。タムラが資料開示を要求すると「調査中ですので」と撥ねつけ、埒が明かないと判断したタムラは通話を切り上げて直接蒲谷地区へ赴くことにしたのだった。

 タムラはキリヤマの名刺を利用し、S工業会社の者だが事後調査をしていると偽って蒲谷地区住民に話を聞いて回った。住民たちが協力的なことにタムラは最初驚いたが、事情を聞くとなるほどと納得した。キリヤマに聞いた以外にも狐憑きが出ていたのだ。

『一週間ほど前、そこの斜向かいの家に熊が出たのさ。鹿や猪には慣れたが、さすがに熊は放っておけない。後ろ足で立ち上がって窓からのぞかれるだけで恐ろしいだろう?
 役場に電話したら猟友会の男を連れて来たんだが、(ここで声を潜めて)その男、熊を殺したあとおかしくなっちまった。
 実は、その男を連れてきた役場の職員がおれの甥で、熊の駆除に同行したんだ。熊は銃を向けても身じろぎせず、人間みたいに二本足で歩いて近づこうとした。そこで男が撃った。一発じゃ死なず、三発。熊は暴れもせず、声ひとつあげなかったらしい。
 熊が動かなくなって死んだのを確認しようと男が手を伸ばした。そうしたら毛の間からヌルヌルっと黒いもんが出てきて、男はヒイッと悲鳴をあげた。男の手が黒くなったが、すぐに消えたそうだ。
 甥は見間違いかと思ったみたいだが、そのあと男が狂ったんだ。人間みたいな動きはするが言葉は通じない。甥を観察するような目でじっと見てきて、この山の動物みたいだと思ったってさ。甥は、熊が憑いたに違いないと言ってる。
 そのあと男は入院したらしいんだが、看護師さんに言葉を教わってるそうだ。三つ四つの子どもに教えるみたいに『あれは鳥』『これはご飯』って。
 よそ者のあんたは笑うかもしれねえが、これは祟りだ。カツ爺さんが言ってた、祠の祟りに違いない』

 蒲谷地区の変化はそれだけに留まらなかった。

 同地区の住人によると、S工業会社のトラックをめっきり見なくなった代わりに、採石場の土地所有者イイヅカ老人を見かけるようになったらしい。荷台に幌の掛かった軽トラックで毎日山を登っていくという。何を運んでいるのか、その軽トラックが通ったあとは何とも言えない泥っぽい腐敗臭が漂うのだそうだ。堪りかねた住民が強引にイイヅカ老人の車を停めて荷台を確かめたらしいが、空だった。

『荷台に黒い泥がこびりついてたから何か運んでるんだろうが、外に持ち出してるわけじゃないようだ。ここ二、三日は荷台を洗って山を下ることにしたのか、軽トラが通っても匂いは気にならない。
 しかし、イイヅカ老人ってのは気味が悪い。笑っても眉を顰めても感情が欠落してるっていうか、アンドロイドみたいな、作り物めいた感じがするんだ。そのくせ瞬きもせず観察するようにこっちを見るもんだから、居心地が悪くてしょうがない』

 そのイイヅカ老人は元々蒲谷地区に住んでいたらしい。小学校の頃に精神を患って入院し、そのまま引っ越したのだと言う。

 この話をタムラにしたのは蒲谷地区最長老のカツ爺さん。イイヅカ老人とは小学校の同級生で、八十年前に狐憑きになった少年のうちの一人が彼だそうだ。もう一人はシモダというらしいが、シモダ少年は狐憑きのまま祠を目指し、沼地のそばで足を滑らせ、岩に頭をぶつけて死亡した。

『ワシは父親が電話で話してるのを聞いちまったんだ。沼の泥がヌルヌル動いてシモダ君の体に近づいて、そのあとシモダ君が死んでるとわかると興味を失ったようにヌルヌルと沼に戻っていったって。
 このことを知ってるのは父親を含めた消防団の数人。みんなとっくに死んじまった。知ってるのはワシだけだ。
 イイヅカ君とは同窓会で再会してから親交がある。採石場ができた時、祠はどうなってるとイイヅカ君が聞いてきた。ワシは、あんな山奥に誰も行きやしないさと答えたが、イイヅカ君は自分で見に行ったようだった。
 山の動物が変になったのはそれからだ。あれはイイヅカ君の仕業だ。祠の周りが沼地になったのも、イイヅカ君の仕業なんだ。肝試しで祠の木像とコケシを取り替えたから。
 わしはずうっと昔から気づいていた。イイヅカ君はおかしかったんだ。あれはイイヅカ君じゃなくて、イイヅカ君のフリをした何かだ。八十年前に沼地でシモダ君とイイヅカ君に取り憑いたそれ・・が、シモダ君を沼地に呼び寄せ、イイヅカ君を操っているんだ。イイヅカ君のフリをしたそれ・・は、どうやってか知らないがそれ・・を山の動物に取り憑かせて、野生の本能を失わせた。それで動物たちは溺れて死んじまった。
 祠も沼地も土砂で流れたに違いない。もうそれ・・を止めることはできないんだ。子どもや猟友会の男の体の中に入って、わしらを観察している』

 観察してどうするんです、とタムラは訊いた。

『人間になるのさ。イイヅカ君みたいに、人間のフリをして人間として暮らす。熊から出てきた黒いヌメヌメの話は聞いたんだろう? おそらく、それ・・は本体が死んだら次を探して乗り移る。偽物のイイヅカ君は、沼地の泥を使って仲間を作ろうとしているんだ。最初は動物で試して、次は――』

 カツ爺さんは話しているうちにブルブル震えだしたが、タムラは老人の妄想だと内心苦笑した。だが、彼の習慣で会話はきっちり録音して残してある。その録音データの最後には、『カツ爺さん、下蒲谷のトクダさんにヤマメもらったから、お裾分け置いとくね〜』という、隣家のムツコさんの暢気な声も入っていた。

 カツ爺さんは『ヤマメ焼いてやろうか』とタムラに言ったが、川魚特有の匂いが苦手な彼は『このあと用事が』と嘘をついて帰途についた。玄関先に置かれた発砲スチロールの箱には泳ぐ三匹のヤマメ。尾びれを跳ねさせ、プンと鼻をつく泥臭い匂いにタムラは眉をしかめた。

 甥が役場に務めているというあの男からタムラに連絡があったのはその翌日だった。本当の名刺を渡してジャーナリストだと明かしたのはカツ爺さんにだけで、タムラは着信番号を確認してから『キリヤマです』と電話を受ける。

 男の話は最初要領を得ず、ムツコさんが『ヤマメの黒いヌメヌメがついた・・・』と訴えていると言う。タムラは『ついた』を『憑いた』だと勘違いしてゾッとしつつ多少うんざりもしたが、そうではないらしい。ヤマメを焼こうと串を刺したら、エラからドロっと黒いものが出てきて、指について色が落ちなくなったと言うのだ。痛くも痒くもないが、気持ち悪いからヤマメは食べずに捨てたと。

 カツ爺さんにあげたものはどうかとタムラが問うと、三匹のうち一匹のエラから黒いものが出てきたと男は言った。流水で排水溝に流れたそうだが、爺さんの手はシミやホクロがあちこちにあり、ヌメヌメがついたのか、最初からあったのかわからないようだ。

 数日後にムツコさんの検査は異常なしだったと報せがあり、タムラはその翌週ヤマメを調べるために蒲谷地区に向かった。彼が違和感を覚えたのはムツコさんの家に行った時だ。

『なんであんなシミ怖がってたのかしらね。せっかくもらったヤマメを全部捨てちゃって。もったいないことしたわ。シミ? 消えちゃったのよ。昨日お風呂に入ったあと、ふと見たらなくなってたの』

 終始朗らかなムツコさんはタムラの知る彼女そのままだったが、黒いヌメヌメへの恐怖がすっかり消え去っているのが妙だった。それに、ご主人がどこかぎこちない。時折り気味悪そうに妻を横目でうかがっては、彼女の視線を避けるように顔をそらすのだ。タムラ自身もジロジロと観察するようなムツコさんの視線に居心地悪さを覚えていた。そして、ご主人がムツコさんのいない隙に小声でこう囁いたのだ。

『昨日の夜からムツコがちょっと変なんだ。なんて言うか、他人がムツコのフリしてるみたいな』

 タムラの脳裏をカツ爺さんの言葉が過る。

 ――わしはずうっと昔から気づいとった。イイヅカ君はおかしかった。あれはイイヅカ君じゃなくイイヅカ君のフリをした何か・・さ――。

 ムツコさんの家を出ると、タムラの視線は隣家の庭に向いた。荷台に幌の付いた軽トラック。縁側のカツ爺さんと、沓脱ぎ石に腰掛ける老齢の男。翳りが一切消え去ったカツ爺さんの満面の笑みを見て、タムラは背筋が寒くなった。

 あれは、カツ爺さんのフリをした何かだ。もう一人はイイヅカ老人に違いない。

 二人に見つからないうちにタムラは背を向け、遠回りして川沿いに停めた車へと走る。路地を歩く鹿がタムラを見つめ、木の上から猿がタムラを見下ろし、畑の中からも動物たちがタムラを目で追った。辿り着いた土手からは河原の釣り人が数人と、傍でヤマメが串刺しにして焼かれているのが見える。

 動物の死骸が打ち上げられたこの河原を住民は忌避していたはずなのに、この光景はいつからあった?

 その疑問の答えが出る前に、タムラは釣り人たちの感情のない視線に恐怖を覚えて車に飛び乗った。震える手でエンジンをかけ、アクセルを踏む。そして考える。

 カツ爺さんとムツコさんは、イイヅカ老人と同じように本人のフリをした別人になった?

 ムツコさんはヤマメのエラから出てきた黒いものが手につき、それが消えた昨夜から別人になった?

 ヤマメの黒いヌメヌメが熊のものと同じだとすると、大雨で流されて死んだ動物から川魚にそれ・・が乗り移った?

 では、猟友会の男や子どもたちは狐憑きになったのに、なぜムツコさんやカツ爺さん、イイヅカ老人は人間らしい言動ができるのか。

 今のところわかっている違いは、ムツコさんの手についた黒いもの。それがあったときはまだ憑かれていなかったのだ。きっとカツ爺さんにもシミに紛れて黒いものがついていたのだろう。

 ――シミは観察していたのではないか? カツ爺さんを。ムツコさんを。これから取り憑こうとする本体を。

 無我夢中で車を走らせていたタムラは、ドンと鈍い衝撃のあと慌ててブレーキを踏んだ。車を道路脇に止め、恐る恐るドアを開けると道の真ん中に狸が血を流して倒れている。端に避けるべきかと一歩踏み出したが、黒いヌメヌメが脳裏を過って躊躇したその時、一羽の鴉が死骸の上に舞い降りた。

 タムラは後に、この光景をカメラで撮影しなかったことを後悔している。鴉の足元で狸の毛が黒黒と色を変え、その黒いものは鴉の足を伝って羽の中に潜り込んだ。

 見間違いかもしれない。見間違いならいい。タムラは祈りながら鴉の視線を振り切って車に乗り込んだ。そして猛スピードで車を走らせた。以来、蒲谷地区には行っていない。携帯電話の番号も変えた。

 取材を続ける気もすっかり失せたが、キリヤマにだけは話しておこうと飲みに誘った席でのことだ。

『タムラ、本気で取材に行ったのか。野生動物が川に流されたくらいじゃオカルト記事にもならないだろう。熊? 熊から黒いヌメヌメしたものが出た? お前が轢いた狸からも? おいおい、本気でそんなこと記事にする気かよ』

 タムラの顔が強張ったのは馬鹿にされたからではなく、キリヤマの採石場に対する嫌悪や恐怖心がすっかり消え失せていたからだ。まるで、あの日のカツ爺さんやムツコさんのように。

 キリヤマの目が、ビールジョッキを手に硬直したタムラをジロジロと観察している。

『ああそうだ、タムラ。この前、ヤマメ送ってくれてありがとな。生きた魚が届いて驚いたよ。あの時は新しい電話番号を知らなくて礼も言えなかったんだ』

 この夜、キリヤマのフリをしたそれ・・と別れて自宅に戻ったタムラは、荷物をまとめて夜逃げするように車でM県を出た。一羽の鴉がその車を追っていることに彼は気づいていなかった。


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