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Trace.9 ―完全なる蛇足としての終章のようなもの

完全なる蛇足としての終章のようなもの〈1〉

 窓の外には雪がちらついていた。

 結露で曇った窓の内側で、手で拭ったわずかな隙間から夜の街をながめる。

 五時を過ぎれば真っ暗になるこの時期は、「サザエさん症候群」には似つかわしくない。なんとなくだが、サザエさんには黄昏どきが合っている。

「慎一郎、今日は食べてくよね」

 振り向くと爽太が目の前にいて、注文を受けるついでにパソコンを覗き込もうとしていた。俺は慌ててそれを閉じる。

「あ、変なサイトでも見てた?」

 濡れ衣を晴らそうと口を開きかけたとき、カランという音とともに「おいーっす」と脳天気な声が聞こえる。

 まだ八時でもないのに、どうやら全員集合になりそうだ。

「いらっしゃい、剛。あ、美香ちゃんも来たんだ」

 俺の安息地はここ数ヶ月で踏み荒らされ、日曜夕方の野の花珈琲は同期生のたまり場になりつつあった。

「マスター、2月号あたりに街ウォークどうっすか。雪積もったら客足も鈍るでしょ。たまには宣伝しましょうよ」

 剛の営業トークはすでに挨拶と化している。

 マスターは「気が向いたらな」と気のない返事をし、クラブハウスサンドイッチを二人分作りはじめた。

 長尾の前にはチョコレートケーキとモカブレンドが置かれる。

 クラブハウスサンドを食べ尽くした俺は、長尾と剛を席に残して食後の一服を愉しむため外に出た。

 雪はヒラヒラと舞い降りてくるが、それほどの降りではない。歩く人たちは傘をさすことなく手に持っている。店の横に置かれたベンチにはうっすらと雪が積もり、俺は灰皿の横に立ったまま煙草に火をつけた。

 吐き出す煙と白色の呼気が混じり合い、煙だけがしばらく消えずにそこにあった。

 店内に残る二人に気を遣い、俺は煙草をもう一本取り出す。

 爽太が『野の花珈琲』で働きはじめた頃から、単なる同期生だった俺たちの関係は少しずつ変化していた。

 爽太がここで働いていることを剛に喋ったのは俺ではない。

 エプロン姿の爽太が真剣な眼差しで珈琲を淹れてくれるという極上の安息地を一人楽しむつもりでいたのに、それをぶち壊した犯人は長尾である。

 爽太が初めて俺の家に来た日の翌日。俺は『街ウォーク』の取材に加えてそのデザインも担当することになった。

 その日は午前中に『居酒屋甚兵衛』の写真の撮り直しに向かい、修正した記事の確認がてら剛と二人で飲みに行った。

 その一杯目のビールに口をつける前、上司である剛が「お前、次の号からデザイン頼むわ」と軽い口調で命令を下したのだった。

 元々あったフォーマットを適当にいじるだけだろうと安請け合いしたら、剛は「全面リニューアルしろ」と酔っぱらった勢いなのか、顔が真っ赤になった頃に言い足した。

 デザインを担当していた同僚は剛が市の観光課及び地元のバス会社、旅行会社とともに進めるている企画の方が佳境に差し掛かり、およそ『街ウォーク』まで手が回りそうになかった。

 当面その状況が続きそうだということで俺に白羽の矢が立ったわけだが、そのおかげで爽太と距離を詰める絶好の機会を逃すことになった。

 爽太が野の花珈琲に勤め始めるまでの一週間。俺は毎日残業続きで、何とか目処が立った時には爽太の仕事は始まっていた。

 俺がそんな風に涙をのんだというのに、剛は妙に浮かれていた。

「観光課の担当が長尾さんになった」

 世の中は狭いとよく聞くが、実際にそうなのだ。

 爽太が野の花珈琲にいることを剛に話したのは、どうやら長尾の親切心らしかった。

 俺と爽太は恋人同士になったわけではなかったし、同じベッドで目覚めた朝、俺は「長尾に言うのか?」という曖昧な言葉で爽太を牽制した。

 爽太としても何をどう話していいのか分からなかったのだろう。

 爽太に俺が差し出したのは唇だけで、俺は何の言葉も伝えていない。一緒に寝るなんて友達でもあり得ることだし、爽太も「言わない」と小さく頭を振った。

 長尾は俺が野の花珈琲の常連だなんて知らなかったから、剛に俺を連れて来させようと画策したようだ。

 その後、剛と長尾は俺が日曜の夕方に店に居ると知り、時間を合わせて訪れるようになった。

 正確に言うと、その時間に合わせて来ようとするのは剛だけで、長尾は長々居座ろうとする剛を外に連れ出すことに使命感を燃やしている。自分で撒いた種を自主回収するつもりらしい。

 一生懸命俺と爽太をくっつけようとしてくれている長尾のことをお節介だと思いつつ、申し訳なさが日々募っていく。

 俺が本心を口にすれば長尾もこんなに苦労せず、家でのんびりサザエさんを鑑賞することもできるのだ。それをこんなゴリラ男のために時間を浪費させてしまっている。

 そんな風に思っていたのだが、最近少々趣が違う。

 毎週毎週その腕を引っ張って夜の街に誘う長尾に、剛は以前から好感を抱いていた。傷心中の長尾に最初その気はなかったのだろうが、たとえゴリラでも何度か一緒に過ごせば情が移るようだ。

 二人連れ立って店を出ていく後ろ姿が、最近ではなかなか恋人のように見えなくもない。からかうつもりでそんなことを剛に言ったら、木に登らんばかりに鼻息を荒くしていた。


 そんなこんなで、安息地を荒らされた俺の執筆活動はなかなか進まずにいた。



完全なる蛇足としての終章のようなもの〈2〉

『爽太(仮)』を消し、『街ウォーク』がリニューアルデザインで発行された頃、俺は新たに長編を書いてみようかという気になったのだが、それはもしかしたら元カノのおかげなのかもしれない。

 彼女からの電話は唐突だった。

「久しぶり。あのデザインしたの慎ちゃんでしょ」

 スマホを耳に当てたまま、俺は彼女がどんな意図でその電話をかけてきたのか考えていた。彼女は「ふふ」と笑う。

「他意はないわよ。ちょっと安心したら電話したくなったの。慎ちゃん、プライドは変に高いくせに自己評価は低いから、私だと良さを引き出してあげられなかったのよね。
 今、慎ちゃんが一緒にやってるあのゴリラっぽい彼。友達でしょ。大切にしてね。自信持っていいと思うよ。慎ちゃんセンスあるから。デザインも、言葉の選び方も」

 今度一緒に仕事しましょ、と彼女は言いたいことだけ言って、俺には何も言わせず電話を切った。

 俺はどうやら彼女のことを誤解していたようだ。

 彼女は才能と意欲で空に羽ばたきながら、空から地面を見下ろしていた。地の上に転がる、俺みたいな底辺の人間に目を向けていた。

 彼女の期待に応えたい、そんな風に思えたのはこの時が初めてだった。


 そんなわけで、俺は「センスがある」という元カノの言葉を妄信して長編に挑むことにした。

 読者諸賢はもうお気付きだろうか。俺がこの長編で何を書いてきたのか。

 俺はこの長編を爽太に見せる気はないし、爽太どころか親しい人々の誰に見せるつもりもない。

 どこで何をしているのかも分からない、ネットの向こうの人間にだけ開示するのだ。

 しかし、その危険性を俺は知っている。知らないはずの人間が、実はすぐ近くにいるかもしれないという事実を。

 もしそうであるならば、それは運命として受け入れようと思う。

 爽太がこの小説を読んでしまったとしても、俺は彼に対して恥じることなど何もない。むしろ読んでもらった方がいいのではないかと思うくらいだ。


 霧雨に濡れたあの秋の夜から本格的な冬を迎え、そのあいだに俺と爽太の距離がどれほど縮まったのか。それは読者各人の想像におまかせする。

 世の中には知らないほうが幸せなこともあるし、多少の秘密はだらだらと流れていく日常のスパイスだ。好きに想像してもらったらいい。健康的な欲望をもつ読者なら、それなりに満足のいくストーリーを描けるだろう。

 とは言うものの、正直なところ剛だけにはこの小説を読んで欲しくないと思っている。どんな卑劣な手を使ってもそれを阻止するつもりだ。

 ということで、やつには浮かれた恋にうつつを抜かしておいてもらうのが一番なのだ。


 そんなこんなで、俺はいま寒空の下一人で煙草をふかしているわけである。友達思いのいい男だと、誰か褒めてくれないだろうか。

 紫煙とともにため息をついて、俺は短くなった煙草を灰皿に放り入れた。雪がまた少し強くなってきたようだ。

「慎一郎」

 声のした方を振り返ると、爽太が店の入り口に立っていた。

 鳴り続ける俺のスマホを掲げ、「電話だよ」と駆け寄ってくる。俺の前で立ち止まり、渡すのを躊躇うように少し体を引いた。けれど、俺が手を出すと素直にそこに置く。

「……樋引さんから」

 爽太は少し離れた場所で俺の様子をうかがっていた。

 白シャツに黒エプロン。その上に薄手のカーディガンを羽織っているが、寒そうに身を縮めて腕を擦っている。さっさと通話を終えて爽太と一緒に中に入ろう。

 電話を取ると、望は「どうだ。したか」と最近お決まりの台詞を口にした。俺が返したのは「は」という不機嫌な一文字だけだ。

『まだしてないのか? 慎一郎、俺もいい加減面倒みきれないぞ』

 面倒を見てほしいなどと頼んだ覚えはないのだが、「爽太がうちに来る」なんて電話で言ってしまったものだから、たまに思い出したように冷やかしの電話を寄越してくる。

 この時間の電話はまだマシな方だ。深夜の電話は、ここで内容を明らかにすると何かの法律に抵触してしまうのではないかというくらい酷い。

 聞いてもいないのにヤツは色々伝授しようとする。そして俺の反応を楽しんで笑うのだ。

『おい、慎一郎。そこに爽太いるか』

 これは初めてのパターンだった。

 望は「代われ」と俺に要求する。ここで要求をのむのは危険だと本能が告げていたが、世の中ハイリスク・ハイリターン。俺もそろそろリターンが欲しくなっていたのだ。

 チラリと爽太に目を向けると、「何?」と可愛らしく小首を傾げた。今は何となく理解している。これを可愛らしいと思うのは、俺がこいつを好きだからだ。

「望が代われって」

 爽太は訝しげな顔をしながらもスマホを受け取り、「もしもし」と口にした。



完全なる蛇足としての終章のようなもの〈3〉

 様子をうかがっていると爽太の目が見開かれ、そのあと俺から顔をそらすように背を向ける。

 のぞき込むと、爽太の頬と耳が真っ赤に染まっていた。想像したくはないが、爽太には刺激的な内容だったのだろう。

 彼が口にするのは相槌ばかりで、最後に「分かりました」と消え入るような声が聞こえた。

 一体何が分かったというのだ。
 望は何を分からせたのだ。
 爽太には悪いが、俺は不安とともに期待を感じていた。

 けれど、望と爽太に任せっきりで、俺は何もせず受け身でいるというのもどうかと思う。そろそろ覚悟を決めるべきなのだろう。

 スマホを返してきた爽太の指は、ずいぶん冷たかった。頬と耳が赤いのも寒さのせいなのかもしれない。

 爽太の頬を両手で包み込むと、俺の手のほうが冷たくて爽太は肩を縮めた。

「ごめん」と一瞬だけ抱きしめる。人目のあるこんな場所で『野の花珈琲』の店員と猥褻な行為をするわけにもいかない。

「戻るか」

 先に立って歩き始めると、爽太が俺の手を掴んだ。

「ねえ、慎一郎は女の子としたくなること、ある?」

 唐突なその質問の答えはイエス。けれど口にするわけにはいかない。

「お前のライバルは全人類だって、樋引さんに言われた。俺は男を好きな男としか結ばれないのに、慎一郎には他にも選択肢があるんだよね」

 爽太は俺の目を見て少し笑い、うつむいた。俺はまた泣かせてしまうのだろうか。

 爽太の腕を掴み、通りから死角になる店の裏まで引っ張っていく。

「何?」

 戸惑う爽太にキスをすると、その唇は指先と違って温かかった。

 二度目だ。

 あれ以来、同じベッドで寝ることはあっても距離をはかりかねて何も出来ずにいた。

 触れたいと思いながら、忙しさを理由にして”仲のいい友達”のライン上をウロウロしていた。抱きしめてもそれは親愛のハグ、その先の恋人同士の行為へとは移行しない。

 あの時と同じように爽太は固く緊張していたけれど、それは寒さのせいだということにして、俺はゆっくり彼の強ばりがほぐれるのを待った。

 舌先が触れ合ったとき「爽太」とマスターの声が聞こえる。

 目の前の爽太の顔は真っ赤で、驚きと戸惑いを瞳に映したまま「戻るね」と駆け出した。その背に声をかける。

「今夜、来るだろ」

 爽太は振り返らないまま頷いた。

 時刻は夜の十一時。

 俺はパソコンの前で小説投稿サイトを開き、こうして文字を綴っている。けれど、読者と戯れる時間はそろそろ終わりにしようと思う。

 俺はこの小説を書き始める前、一つの願掛けをしていた。

『書き上げることができたら、彼にちゃんと言葉で伝えよう』

 別に書き上げたからといって、これからの彼との日々が順調に進展していくわけではない。何か幸せの保証が得られることもない。

 俺はただ自分の気持ちの奥深くを見つめ直したかったのだ。

 俺がいつから彼を好きでいたのか。
 彼の何を見てきたのか。
 何に惹かれたのか。

 正直なところ、それは書き上げた今でも判然としない。

 俺がいま言えるのは「彼が好きだ」その一言に尽きる。それで十分なのではないかと思えるのは、小説を書いたおかげなのかもしれない。

 彼が来る前にそろそろパソコンを閉じよう。

 やはり彼の目にこの小説が触れるのは恥ずかしい。彼への気持ちは俺の口から少しずつ伝えていけばいい。すべてを晒す必要はないのだ。


『はじめに』でも述べた通り、ここには俺の秘密も描かれている。

 バイセクシャルであると自覚した今、俺は社会のマイノリティーであり、それを明かすことについては慎重になるべきだろう。

 偏見と無理解が蔓延しているこの世界で、秘密は身を守るために必要なものだ。


 秘密で人生に緊張感と張りが生まれる――そう先に述べた。

 秘密のない人間なんていない。

 隠したいこともあれば、知りたくないこともある。それが白日のもとに晒されたとき、心は砕け散る。

 そして、俺は今から壊しに行くのだ。

 俺の周りを囲うように積み上げ、常識とプライドで築いた殻を。地の上でそれをゴミとともに拾い集め、俺のセンスで再構築する。彼と、仲間とともに。


 彼の本当の名前を明かす気はない。

 俺の名前ももちろん仮名だ。多少の秘密があったほうが、世界は煌めいて見える。彼の名は俺だけの秘密であり、読者もそれについては興味もないだろう。

『爽太』が『爽太』である必要はなかったし、『太郎』もしくは『A』でも問題なかった。だがそれでは俺のセンスが疑われてしまう。


 俺が現実の世界で彼の名を口にするとき、この胸に広がる感情がある。それはきっと読者と共有できるものだ。

 あなたの愛する人の顔を思い浮かべてほしい。

 そして名を呼ぶ。

 俺が感じているのはそういうことだ。分かっていただけただろうか。


 メールが届いた。そろそろ彼がこの部屋に来る。

 ようやく俺は彼に伝えることができる。その寝顔に何度も何度も囁いてきたその言葉を。彼はどんな顔をするだろうか。

 もちろんそれは、俺だけの秘密だ。



――end

最期までお読みいただきありがとうございました。慎一郎が書いたものとして挨拶代わりのような ”はじめに”
を読み返していただけると「なるほど」となるかもしれません。
樋引のその後は『Bad Things』episodeサチでどうぞ。

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