Bad Things/2

恋だけじゃない。でも、恋に振り回されないわけがない。そんな恋愛短編オムニバス

【prologueユカリ(2)】


 指と指のあいだに絡めた太くて節ばった指はガサガサに荒れていて、ところどころパクリと割れたあかぎれが痛々しかった。

 指先でそっと傷をなでると彼は私の手を引きよせ、フロントガラスの向こうに目をやったまま、白とベビーピンクのネイルに唇をつけた。

「ムース・オ・フレーズ。またはカマボコ」

 くすくすと笑いながら彼は指を解いてウインカーを出す。その左手はハンドルに添えられたまま戻ってこなかった。

 午前九時まえ。

 赤信号を見つめながら、私はひとりぼっちになった右手の行き先を探して髪をかきあげた。

 道路の向こうに見える、直売所と書かれた建物の奥には果樹園が広がっていた。ぼんやりと軽トラの後ろ姿を目で追っていると、クイッと体が揺れた。

 青信号を左へ曲がり、さっきまで自分がいた場所を助手席の窓越しに見る。

 果樹園と道をはさんで向かいに広がるラブホテルの群れ。陽にさらされたその姿は、何かの間違いのようにひどく嘘くさくて現実感がなかった。

 まわりに広がるのどかな田園風景。数羽の鳥影がばさばさとあぜ道に降り立ち、地面をついばんだ。

 日曜日の朝のバイパスは、市街へ向かう車も、山間部へ抜ける車もどちらもまばらだった。太陽の光がギリギリの角度で車内に射し込み、その光から逃れるように隣に座る彼を見た。

「澄田さん、今日の仕事眠くならないですか?」

 トンネルに入り、くぐもった走行音が私たちの距離を少しだけ近づける。彼の匂いがしたけれど、自分のからだに染みついたものかもしれない。

「眠いけど、仕事はじめたら目が覚めるから平気。ユカリちゃんは今日休みだろ?」

「夜友達と会うから、澄田さんの店に食べに行こうかな」

 彼の返事は、すぐには返ってこなかった。何か思案するように口元がギュッと閉じられている。

 朝の光が徐々にトンネルに侵入し、開けた視界に広がるのはさほど高いビルもない平坦な市街地。見慣れた景色を居心地わるく感じた。

「ごめんね、今日は予約が多いから。うちはまた今度にしたら?」

 車はバイパスをおりて赤信号で停まった。「コンビニ寄って下さい」そう言ったのは、少しでも長く彼と一緒にいたかったからだ。

 ”今日こそはっきりさせよう”

 会う前にはいつもそう思うのに、どうしても切り出せないでいることがある。

 ホテルに着いたら、シャワーを浴びたら、触れる前に、そのあとに、ホテルを出る前に、車に乗ったら、……コンビニに着く前に。

 今日もまた口にできないまま、車はコンビニの駐車場へと乗り入れた。

 彼は建物のすぐ横に車を停め、「行こうか」と先に車を降りた。その背にむかって、心のなかで問いかける。

 ”私はあなたの彼女ですか?”

 声にならないまま何度も問いかけて、想像のなかの彼の答えはいつも「NO」だった。

 部屋に入れてもらえたのは一度だけ。会うのはいつも夜ばかりで、それは彼との休みが合わないから。そう分かっているのに、逢瀬を重ねるその別れぎわ、少しずつ不安が降り積もっていく。

 助手席のドアを閉め、駆け寄ろうとした私に「待って」と彼が片手をかざした。ガラス越しに店内をうかがいながら、彼は小さく舌打ちしたようだった。

「ちょっとマズイやつがいるから、ユカリちゃん時間差で入ってくれる? 俺のことは知らないふりして」

 そう言うと彼は足を踏み出し、自動ドアが開き、入店音が鳴り終わるまえに彼の姿は見えなくなった。

 店内から死角になる場所で立ち尽くし、私は彼の言葉の意味を考えていた。

 ――私は、一緒にいるところを見られたらマズイ女?

 スマホを取り出しSNSをいくつか開き、画面をスクロールするけれど、私の意識は澄田さんと「マズイやつ」に向けられている。

 スマホを鞄にしまい、ゆっくりとコンビニの正面に向かった。雑誌コーナーに彼の後ろ姿が見えたけれど、顔を向けないようホットドリンクのコーナーに行く。

「あ! もしかして霜谷じゃない?」

 不意に背後から声をかけられ、それはもちろん彼の声ではなかったけれど、明らかに彼のいる方向から聞こえた。

 無視するにはあまりにも大きな声で、そろりと声のしたほうを振り返る。満面の笑みで片手を挙げる男の人は、彼のすぐ向かいに立っている、おそらく”マズイやつ”だった。

 澄田さんの目は見開かれ、口元は微かにひきつっていた。ふたりとも私に顔を向けていて、澄田さんの表情にその人は気づいていない。

 ”マズいやつ”は、私にとっては懐かしい、屈託ない笑みを浮かべていた。

「やっぱり、霜谷じゃん。すげー久しぶり。就職こっちでしたの?」

 その男の無駄に大きな声は相変わらずだ。

「久しぶり、高波。高校卒業以来?」

「うわー、同窓会で会ったの忘れた? ひどいやつ」

「高波、同窓会来てたっけ」

「まあ、二次会の途中から」

 昔と変わらぬ軽口を叩きながら、視界の端で澄田さんの表情を伺った。どちらでもいいから、何か切りだしてくれないとどうしていいか分からない。

「あ、澄田さん。これ、高校んときのクラスメイトです」

 高波のおざなりな紹介に、彼は「へえ」と笑みを浮かべる。いかにも「はじめまして」という表情だ。

「霜谷、この人、えーっと何て紹介したらいいですか? 師匠?」

「別に俺は師匠じゃないだろ。店違うんだし」

「でも勉強させてもらってますよ。だから、えーっと、人生の師匠?」

 バーカ、と澄田さんは高波の頭を小突く。やめてくださいよ、と無邪気な笑顔を浮かべる高波は、飼い主にじゃれつく仔犬のようだった。過去と今とが強引に対面したような光景にめまいがする。

「霜谷。俺レストランで働いてるんだけど、そこの同僚がこの人の彼女なんだ。で、店は違うけど先輩料理人であるこの澄田さんに俺も色々教わってんの」

 ふうん、と相槌をうった私の顔は強張っていなかっただろうか。

 高波は澄田さんの料理を色々と褒めちぎっていたけれど、私は相槌をうつのが精一杯だった。涙が出ないように少し視線をズラして、陳列棚に並んだ商品を端から順番にながめる。

 コンビニで洗濯用洗剤なんて買ったことないな。あ、あのシュシュかわいいかも。お泊り用スキンケアセットは……。

「あ、そうだ。今度一緒に澄田さんの店に食いに行こうぜ。高校のときのメンバーに声かけてさ。霜谷、番号変わってない?」

「え? あ、うん。前と同じ」

「じゃあ、連絡する」

 高波は私に「また」と言い、澄田さんには「失礼します」と会釈をして帰っていった。

 コーヒーを買ってコンビニを出たあと、周囲に高波がいないことを確認し、車へ向かう。澄田さんは「先に乗ってて」とロックを解除すると、店の前にある灰皿の脇でライターに火を灯した。

 その姿を少しのあいだ見つめ、大人しく助手席に乗りこんだ。コーヒーで体が温まると、思いのほか大きなため息がもれる。

 塀の向こうにある民家の二階の窓から、ミッキーマウスの後ろ姿がのぞいていた。半分ほど開いたカーテンは黄緑色で、住人の頭がかすかに見え、すぐ奥に引っ込んだ。

 コンコンと窓を叩く音に振り向くと、澄田さんがガラスの向こうからのぞきこんでいた。

 間をおかずドアが開き、彼は私をシートに押しつけ強引にキスをする。彼の唇がとらえたのは私の首筋だった。

 それは一瞬で、何事もなかったかのように彼はさっと身をひるがえし、運転席に乗り込んだ。

 黄緑色のカーテンがゆらりと動き、その陰に男性らしい人影が見えたけれど、すぐに消える。車は方向転換して国道に出た。

「ユカリちゃん、これからも会いたいとか、無理?」

「……彼女、いたんですね」

「うん。まあ、古女房みたいなもん」

 黙りこんだ私の脚に彼の左手が伸び、甘えるようにするりとなぞった。その手から逃れ、私は窓際に体を寄せる。

「あの、車停めて下さい」

「ユカリちゃん……」

「停めてもらって、いいですか」

 澄田さんは諦めたように息をついて、運動公園の駐車場に入った。そこには意外にもたくさんの車が停まっていて、どこかから歓声が聞こえた。

「やっぱり、会うのは無理かな?」

「……私は、二番目ってことですか?」

「いや、順番とかじゃなくて……」

「セフレ?」

「ユカリちゃん」

「彼女と会うんでしょ、今夜」

 視線を外した彼の横顔は拗ねているようで、その大人げない表情に少しだけ気持ちが冷め、悲しみなのか怒りなのかも分からない胸のどんよりした重苦しさもほんのわずか軽くなった。

「もう、会うのやめましょう。そのほうがいいから。私、バスで帰ります」

 無理やり笑顔をつくりドアを開けた。

 聞こえていた歓声に混じってカーンと乾いた音が響き、歓声は一層大きくなった。

「ユカリちゃん!」

 ドアを閉める間際に「ごめん」とつぶやく声が聞こえた。駆けだしたいけれど足元は10センチのピンヒール。コケたりしたら、そのまま泣いてしまいそうだった。

 逃げるように駐車場に停められた車のあいだを抜け、芝生の広がる公園に足を踏み入れたとき、背後をエンジン音が通り過ぎた。その音に私は未練がましく振りかえり、運転席の彼がスマホを耳元から離すのが見えた。


次回/prologueユカリ(3)

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