Bad Things/7

恋だけじゃない。でも、恋に振り回されないわけがない。そんな恋愛短編オムニバス

【episodeチカ〈2〉片思い】

 タキ君の車で――正確には伯母さん名義のコンパクトカーで『レスプリ・クニヲ』に向かった。

 乗り慣れない助手席のせいか、それとも敷居の高いフレンチ・レストランに向かっているせいか、見慣れたはずの山並みがいつもと違って見える。

 空はくっきりとした秋晴れで、窓からはひやりと澄んだ空気が吹き込んできた。山のところどころが、くすんだ色に紅葉している。一度雨が降れば、冴えた色に染まるだろう。

 ハンドルを握るタキ君はいつも通りだった。大学生のくせに、大学生だからなのか、それとも彼の性格なのか「楽しみだね」と穏やかな口調で言う。

 つねに上を向いている口角は、彼曰く生まれつきらしい。怒ってても伝わらないんだ、という不満げな言葉も、それほど嘆いているようには思えなかった。

 バイパスに乗る直前、タキ君は田園風景の中にある独特な建物の群れにチラと目を向けた。

「見慣れると、違和感なくなるよね」

「……そうね」

 目に映るのはいくつかのラブホテル。あまり触れたい話題ではなかった。

 頻繁に顔を合わせるようになってから、時おりタキ君の言動から好意のようなものを感じる。ラブホテルを前に下手なことを口走って、何かしら決定的な言葉を聞くことになるのは避けたかった。

 彼を傷つけたくはないし、突き放すこともしたくない。

「タキ君、お腹ちゃんとすかせてきた?」

「いつも通り。昼になれば腹減るし。出されたものなら何でも食える」

「まだ成長期なの?」

「だといいけど。もう身長伸びないんだろうなあ」

 バイパスに乗り、トンネルに入ると自然と会話が途切れた。

 ラジオから流れる洋楽に耳をかたむけていると、くぐもった走行音に重ねてタキ君の鼻歌が聞こえてくる。トンネルを抜けたあと「洋楽聴くの?」と聞いた。

「あれ、もしかして歌ってたのバレてた?」

「うん、バレてた。なんて曲?」

「知らない? 『ラブ・ユアセルフ』。元カノに未練たらたらの曲」

 へえ、という相槌だけで、私は会話を打ち切るようにスマホを取り出した。

 元カノとか、恋人とか、恋愛にまつわる話はしたくなかった。自分が常識に沿ったことを話せるとは思えなかったし、かといって嘘をつくのも嫌だった。

「チカ姉、彼氏作らないの?」

「ええ? どうだろ。あ、タキ君、店の場所分かってるよね」

「知ってる。何回か叔父さんと一緒に納品に行ったから」

「うそ、いつ?」

「チカ姉がこっち来る前。知らない? 叔父さん足ひねって、叔母さんに運転禁止って言われたの。俺夏休みだったからしばらく運転手してたんだ。叔父さんは『大げさだ』って、ずっと文句言ってたけどね」

 まったく知らなかった。タキ君は私がいるから頻繁にうちに来るようになったのかと思っていたけれど、もしかしたら自意識過剰だったのかもしれない。そう考えると恥ずかしくもあり、一方でほっと肩の力が抜けた。

「じゃあ、ヒナキのことも知ってるんだ」

「ヒナキさん? 知ってる。チカ姉、仲いいんだ」

「たまに、ゴハン一緒に行くくらい」

 仲いいよ、と素直に口にできなかった。

 そもそも仲がいいと言うのはどの程度のことを言うのだろう。知り合ってからの長さ、会う頻度、打ち明けた悩みの数、……ボディタッチの回数。

 つい、ため息を漏らしていた。

「チカ姉、フレンチのコースに緊張してるんだろ」

 そうね、と肯定するとタキ君は拍子抜けしたように「あれ」とつぶやいて口元の笑みを深くした。

 タキ君は一緒にいて気を遣わなくていいから楽だ。彼のことを好きになれたらどんなにいいだろう。けれど、気持ちは都合よく変えられない。 


***


「茄子、玉ねぎ、ルッコラ、フェンネル、人参、里芋……。色々悪いね、チカちゃん」

「いえ、こっちこそ。たった二人で個室占領しちゃって、すいません。父からお詫びの品です。あとこれ、何か使えないかって」

 私の指さしたサツマイモを、樋引さんは手にとってながめ回した。それから鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。

「アヤムラサキっていう品種です。甘みはほとんどないですけど、使えそうですか」

「うん、ありがとう。スープ、アンティパスト、……デセール」

 樋引さんの視線は宙をさまよっていて、言葉はすでに私に向けられてはいないようだった。彼の頭には完成図がすでに描かれているのかもしれない。

「また、改めて注文するよ。火曜にはそっちに顔出すつもりだったし。ケイスケ、これしまっといて」

 樋引さんに呼ばれた「ケイスケ」君と一緒に、彼の隣にいたタキ君もこちらを振り返る。私より二つ年下のケイスケ君は、タキ君にとっては年の近いお兄さんのようなものだ。

 ダンボールを抱えたケイスケ君は、タキ君を肘で小突き「まあ、頑張れ」と意味深な笑みを浮かべた。タキ君が慌てた様子で「ケイスケさん」とひそめた声を出す。

 やはり、私の自意識過剰というわけではないのかもしれない。

 裏口を出て正面の入り口のドアを開けると、数組の客が入っていた。窓際のテーブルに女性五人組と、鉢植えのベンジャミンをはさんで五十代くらいの夫婦。衝立で仕切られた奥のスペースからも声が漏れ聞こえてくる。

「あ、チカさん。いらっしゃい。案内しますね」

 笑顔で出迎えてくれたのは、学生アルバイトのミナトちゃんだ。彼女はタキ君に目を向け、「いらっしゃいませ」と頭を下げる。

 彼女の表情がぎこちないのは、私がそうさせているのかもしれなかった。罪悪感とも後悔ともつかない灰色の感情が、じわりと胸に広がる。

 案内されたのは六人掛けのテーブルが置かれた小部屋で、アイボリーの壁にクリムトの『接吻』がかかっていた。窓辺に置かれたサイドテーブルには銅製の花瓶にススキとリンドウ、吾亦紅(ワレモコウ)が活けられている。

 タキ君はスポーツバッグからカメラを取り出し、レンズを取りつけてファインダー越しにその花を見た。そして、「ふうん」と笑みを浮かべる。

「なんか楽しそうね」

 こちらに顔を向けたタキ君は、珍しく興奮しているようだった。

「チカ姉。今さら言うのもアレなんだけど、実はブツ撮りってあんまりしたことないんだよね」

 語感は言い訳めいていたけれど、顔は好奇心を剥き出しにしている。隣に立ち、同じようにススキをながめた。

「で?」

「それ用にレンズ借りてきたし、料理写真の撮り方もレクチャーしてもらった。でも、上手く撮れるかどうか分かんないよ。チカ姉のことなら上手く撮れる自信あるんだけど」

 タキ君は「スキあり」と私にレンズを向ける。写真を確認すると「ブレた」と不満げに口を歪めた。

「料理上手く撮れなかったら、タキ君自腹ね」

「マジ?」

 肩をすくめたタキ君は、やはり楽しそうだった。レンズ買おうかなとひとり言のようにつぶやき、またファインダーをのぞき込む。無邪気な姿に、ふっと笑みがもれた。

 タキ君は部屋に入ってきたミナトちゃんに断って花瓶を中央のテーブルに移動し、白いテーブルクロスを借りた。移動したサイドテーブルにその布を広げる。

「ライト持ってきてたけど、自然光でいけそうな気がする。……多分だけど」

「いい天気だよね。今日」

 レース越しに差し込む陽の光に目を細めた。ふと、車から見かけた、草野球チームらしい一団の姿がよみがえる。

「料理、お持ちしますか?」

 ノックのあと聞こえたミナトちゃんの声で振り返った。

「お願いします」

 彼女の顔をまっすぐ見るのが怖かった。

 これからも『レスプリ・クニヲ』に出入りするのだから上手くやっていかなければいけないのに、つい身構えてしまう。

 ――チカさんって、ヒナキさんのこと好きなんですか?

 誘われた飲み会が終盤に差しかかったころ、ミナトちゃんとメイクルームで二人きりになった。そのとき彼女が言った言葉だ。

 彼女は、驚いて何も言えない私にキスをした。酔った勢いが半分、残りの半分は本気のようだった。

『チカさんの近くにいたい』

 再び重ねられた唇を受け入れたのは、酔った勢いが半分。残りは報われない恋に投げやりになっていたせいだ。ミナトちゃんの手が包み込むように私の胸を掴んだとき、無意識に彼女の体を突き放していた。

 彼女は悲しげな顔をして、「チカさんは、違うんですか?」と、諦めたようにため息をついた。

『……ごめん。よく分からない』

『女同士は、無理?』

 ミナトちゃんの言葉で、私は元同僚の柔らかい肌を思い出した。

 女性とそういうことをしたのはその元同僚が最初で最後だ。嫌悪感を感じないどころか快感を感じてしまった自分に驚いた。

 そのあとどう接していいか分からないまま距離をおき、しばらくしてレズビアンだという噂が社内に流れているのを知った。同僚ではなく私のことだ。

 彼女がその噂を流したのかどうかは分からない。周囲の視線に耐えられなくなり、日々募っていく鬱々とした感情と、彼女との間に作ってしまった距離とで、いつの間にか居場所を見失っていた。

 会社を去る直前、彼女は私に見せつけるように別の同僚に腕を絡めた。思い返せば、あのとき感じたのは嫉妬だった。私はすべて気の迷いだったと自分に言い聞かせ、荷物をまとめた。

 それなのに。

 ヒナキの肌に触れたいと思う。それはあの元同僚の肌を思い出し、あの快感を求めているだけなのかもしれない。男性経験がないわけではないし、それで快感が得られないということもなかった。それ以上のものを女性との間に感じてしまったのは、背徳感というスパイスのせいだろうか。

 いくら考えても明確な答えなど出ない。ただ、ヒナキに触れたいと思うと同時に、彼女の生き方や眼差し、それを近くで見ていたいと思う。彼女との関係を壊したくなかった。

 カシャッと音がして、私は「また?」とタキ君を睨む。その顔にまたシャッターが切られる。彼が手にしているのはスマートフォンだった。

「待ち受けにしてもいい?」

「ダメに決まってるでしょ」

 伏し目がちにスマホ画面をながめるタキ君の前髪が陽光に透け、美しいと思った。ポケットからスマホを取り出しカメラを起動する。それをタキ君に向けると、すでに私の意図に気づいていた彼の手が容赦なくレンズを覆い隠した。

「ダメー」

「タキ君、ずるい。自分ばっかり」

 シャッターボタンを押すと、画面は当然まっ黒だ。タキ君が勝ち誇ったように手を離すその隙に、私は彼の横顔をカメラにおさめた。

「俺の写真、待ち受けにしてくれるの?」

「しないよ」

 だよね、と笑ったあと、タキ君はじっと私の顔を見つめてきた。

「私の顔、何かついてる?」

「ううん。俺がどんな気持ちでチカ姉にカメラ向けてるか、ちょっとは分かってくれたかなって」

 言葉に詰まる間もなく後ろのドアからノックの音が聞こえた。

 スープ皿を窓際のサイドテーブルと中央のテーブルに一つずつ置いたミナトちゃんは、「失礼します」と笑顔で部屋を出ていく。タキ君は何事もなかったかのようにバッグからスケッチブックを取り出し、白紙のページを開いた。

「チカ姉、ここらへんでこれ持ってて」

 タキ君から引き継いでスケッチブックを持ったけれど、彼はカメラを構えて「ううん」と眉をしかめる。

「もうちょい、こうかな」

 角度を修正するのに、タキ君は私の手に触れた。意図的にそうしたのだろうけど、私はツッコむこともできない。余計なことを考えないようスープの匂いに意識を集中し、そして腹の虫が鳴く。

「色気より、食い気」

 タキ君が私を見る。いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざりあい、一番上に浮上してきたのはずいぶん本能的な欲求だった。

「無駄口はいいから。空腹状態で私を放置するとどうなるか知ってるでしょ」

「うん。キレる」

「なら、働く!」

 はい、と殊勝な返事をし、タキ君は皿の角度やカーテンのかかり具合、カメラの何らかの設定を少しずつ変えながら十数枚の写真を撮った。

 テーブルで向かい合ってスープ皿を空にしたころ、秋野菜とキノコのテリーヌが運ばれてくる。同じように撮影し、料理が出されるたびにそれを繰り返した。

 デザートを運んで来たのは樋引さんだ。

 時間をかけて撮影と食事をすませた私たちは、一番最後の客になっていたようだった。樋引さんとしばらく雑談をし、彼はタキ君の撮った写真を見て「うちにもデータもらえない?」と言った。どうやらそれはお世辞ではなく真面目な話だったらしい。

「店のブログにも載せたいし、今日のコースのだけじゃなくて、チカちゃんとか三谷さんの写ってる写真ももらえないかな。前に俺が撮った写真よりタキ君の撮ったやつの方が、みんないい顔してるし、野菜もおいしそうだ」

 タキ君は自分で判断をつけれないらしく「どうする?」と私に聞いた。

「タキ君がいいならいいよ」

「プライバシーとか、肖像権とかは?」

 ふと濡れ髪の写真を思い出す。彼らはどうやらその写真を見ていたようだ。

「変なの渡したら損害賠償請求するから」

「じゃあ、チカ姉に見てもらってオッケーが出たやつだけ渡します。それでいいよね、チカ姉」

 それなら、と了承し、席を立った。

 帰り際、外に出たところでミナトちゃんに呼び止められた。営業スマイルは影をひそめ、その様子を見たタキ君は「先に行ってる」と一人で車に向かう。

 何を言われるのか、取り残された私の笑顔はひきつっていたはずだ。

「チカさん、そんな警戒しないで下さい」

「ごめん、そんなつもりじゃないんだけど」

「違うんです。あの、もし彼とそういう関係ならそれでいいし、もし、……もし以前私が言ったことが合ってるなら、今日みんなで飲みに行くんですけど、一緒にどうかなって。店終わってからだから遅いけど、ヒナキさんも顔出すみたいだし」

 名前を聞けば会いたいと思う。ヒナキはまだ実家だろうか。それともこっちに向かっている頃だろうか。

「ありがと。でも、明日も朝早いからやめとく」

「……ですよね」

「それに、スミ君も来るんでしょ? 二人が仲良いとこは見たくないから」

 うつむいていたミナトちゃんは弾かれたように顔をあげた。私が自分の気持ちを素直に認めるとは思っていなかったのだろう。

「スミ君」はヒナキの彼氏。私の言葉は彼女の推測を肯定したようなものだ。

「ミナトちゃん、声かけてくれてありがとう。うれしかった」

 じゃあね、と手を振って背を向ける。「またお待ちしてます」というミナトちゃんの声に胸が締め付けられた。


 助手席に乗り込むと、タキ君は『ラブ・ユアセルフ』をカーステレオで聴いていた。私はシートベルトを締め、歌声に聴き入る。

「ねえ、タキ君。未練ってなくなると思う?」

「俺に聞くなよ」

 だよね、と息をついて窓の外をながめる。タキ君はゆっくりと車を発進させ、曲が終わったあと口を開いた。

「チカ姉。未練って、片思いってことかな」

「……そうかもね」

「でも、俺のは未練じゃないよね」

「……さあ」

「俺はもう少し片思いでいることにする。まだ、無理っぽいから」

「……そう」

 私はタキ君の鼻歌を聴きながら、ギュッと瞼を閉じて滲んだ涙を瞳になじませた。

次回/【extraミホ】

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