Bad Things/15

恋だけじゃない。でも、恋に振り回されないわけがない。そんな恋愛短編オムニバス

【episodeハルヒ〈1〉ベンチタイム】

 ――ピピピピッ、ピピピピッ、……

「ハルヒちゃん、悪い! 山食出して」

「はいっ」

 叔父さんの声で条件反射のように体が動く。ミトンをはめながらタイマーを止め、オーブンを開けた。内部の熱気が顔を包み込んで思わず目を細める。

 食パンの型を引き出し、二つまとめて掴んで台の上にストンと落とした。そのまま型を寝かせてするりと抜くと、焼きたての食パンがパチパチと音を立てる。

 その香りに酔っていたいけど、急がないと他のパンがひしゃげてしまう。

 ひたすら落として抜くを繰り返し、十二本の山食が目の前にならんだ。

「叔父さん、これ売り場に出したらいい?」

 ミキサーの前にしゃがみこんだ叔父さんが、顔を上げてチラリと私を見た。その視線はすぐミキサーのパン生地に戻る。

「六本は『豆蔵《まめくら》』の注文分だから、残りが店売り。ハルヒちゃん、それ出したら終わっていいよ。そろそろアイツも来るだろうから」

 叔父さんが「アイツ」と呼ぶのは叔母さんのことだ。私がアルバイトに入っているときは裏の母屋で家事をしていることが多い。私もその母屋で寝起きしている。

 大学入学時に引っ越してきて八ヶ月が経ち、ここでの暮らしも、パン屋の店員ぶりも板についてきた。と、自分では思っている。

「大学は午後からだからもう少し大丈夫だよ。叔母さんが来たら『シェ・アオヤマ』にバゲット配達してくるね。八本で良かったっけ?」

「うん、八本。注文書確認しといて。悪いね、助かる」

 ミキサーの機械音がやみ、叔父さんがパン生地を作業台に移していると、「遅くなってごめんねぇ」と、のんびりした声が倉庫の方から聞こえてきた。

 母屋へとつづく倉庫脇のドアから顔を出した叔母さんは、ニットキャップをかぶりながら「お客さんは?」と私を見る。その視線がさらに移動し、壁のアナログ時計の上でとまった。

 時刻は午前九時四十分。通勤通学途中のお客さんはとっくに途切れていて、これから来るのは近所の常連さんくらいだ。

「もう落ち着いたから、私『シェ・アオヤマ』配達行ってくるね。『豆蔵』の分はまだ冷めてないけど、他の店のは棚に置いてるから」

「了解」

 叔母さんは二坪ほどの小さな売り場を見まわし、手袋をはめた手で食パンを一つとってスライサーの前に立つ。私は母屋に戻り、コートをはおって店にもどった。すると、カランと音がしてお客さんが入ってくる。

「おはようございます」

 顔を出したのは、私が向かおうとしていた『シェ・アオヤマ』のシェフだった。優しげな笑顔が大人の余裕を感じさせるその人の名は、澄田さんという。

 私より十歳年上の、憧れのお兄さんだ。密かにファン第一号を自負している。彼にはヒナキさんという彼女がいて、以前はよく朝の早い時間に二人で来店していたけれど、そいうえば澄田さんが来店するのも久しぶりだった。ヒナキさんの顔もずいぶん長いあいだ見ていない。

「澄田さん、なんか久しぶりですね。今日は朝ごはん、……じゃないですよね。もう仕事中ですか?」

「うん。ちょっと買い出しに出るところなんだけど」

 澄田さんはそう言いながら手に持っていた紙袋を私に差し出した。中をのぞくと小さな丸いココットが五つ入っていて、その表面は緑色。たぶん抹茶だろう。

「昨日休みだったから家で作ったんだ。抹茶のティラミス、よかったら食べて」

 スライスした食パンを袋詰めしていた叔母さんは、グイと私を押しのけて袋の中をのぞき込んだ。

「ええ? 悪いわよこんな。お店の方には?」

「そっちにも人数分おいてきました。たいしたものじゃないんで、迷惑じゃなかったら」

 迷惑なんて、と言いながら叔母の顔は嬉しそうにニヤけている。こういうときは私の出番だ。

「すごーい。超うれしいです。ね、いただこうよ。澄田さんのティラミス食べたい。しかも抹茶だよ」

「そうねえ。ハルヒもこんなだし。ありがたくいただいていいかしら」

 儀礼的な押し問答は、叔父さんの「すまんね」という一言であっさり終了した。

『シェ・アオヤマ』は地元だけでなく県外からもお客さんが訪れる有名なフレンチ・レストランで、そう簡単に敷居をまたげる場所ではない。そんな店が叔父さんの経営する小さなパン屋から仕入れている。姪として、それはとても鼻が高い。

 住宅地の奥まった場所にあるここ『タキタベーカリー』は、叔父叔母の他にもう一人パン職人さんがいる。ゴマ塩頭の平井さん。

 今年還暦の平井さんは、朝の分のパンを焼き上げたあと卸先への配達に出かける。彼が届けるのは距離のある取引先だけで、ひと筋違いの通りにある『シェ・アオヤマ』には手が空いた誰かが納品に行っていた。

 うちの店は『シェ・アオヤマ』や『豆蔵』のような飲食店、それと地元の青果市や小売店への卸がほとんどで、店を開けているのは昼過ぎ頃までだ。

『豆蔵』は一キロほど離れた場所にあり、納品しなくても店まで取りに来てくれる。そんな店は少なくない。

 小規模店との取引が多いから注文数が二、三本なんていうこともあり、お互い人手不足なのを承知しているから持ちつ持たれつ。余裕があればついでに届けたりもするし、無理を言って取りに来てもらうこともある。

「ハルヒちゃん、悪いけどアオヤマの注文分届けてもらっていいかな。俺は店に戻れるのもう少し後になりそうだから」

 申し訳なさそうに眉をハの字にする澄田さんは、なんだか色っぽい。

 次の恋は澄田さんみたいな大人の男性とできればいいのに、なんて思いつつ夏の失恋のしこりはまだ胸に残っている。

『豆蔵』に勤めるアノ人の顔を思い出しそうになって、考えるのを止めた。

『豆蔵』の彼がパンを取りに来るのは十時半から十一時のあいだくらいだ。鉢合わせないように母屋に行ったり作業場に引っ込んだりすることもあるけれど、今日はその心配はなかった。その時間には大学に向かっているのだから。

 今から『シェ・アオヤマ』に行って戻っても、バッタリとはならないだろう。

 たとえ会ったとしても、いつも通り”私”を演じるだけ。でも、それはそれなりにしんどい。だから顔を合わせないのが一番なのだ。

「ハルヒ、よろこんでパンお届けいたします!」

 演技過剰に敬礼をすると、澄田さんは妹でも見るような目つきで微笑んだ。「調子いいんだから」と、叔母さんが呆れ顔で言う。

「叔母さんの姪だからね。それに、開店前の『シェ・アオヤマ』って好きなんだ。これから何かはじまるって緊張感。ドキドキするの。いい匂いもするし」

「ここもいい匂いだよ。ね、亜紀さん」

 澄田さんはそう言って叔母さんに同意を求める。

「この匂いはもう日常になってるからよく分からないけど、たまに友達に会うと『香ばしい匂い』って言われるわ」

 私もバイトしてから学校に向かった日は「ハルヒの近くはお腹すく」と、匂いを嗅がれることがある。もちろん女友達に。

 そういえばナオ君も……。

 自分の意思に反して彼の方へと思考が流れていこうとする。失恋の傷なんてかまっていても仕方ないし、目の前のステキなお兄さんから幸せのおすそ分けをもらってテンション上げた方がよっぽどいい。

「澄田さん、最近ヒナキさん元気ですか? 顔見ないけど、やっぱり年末近くなると二人とも忙しいですよね」

 笑顔で話を振ってみたものの、一瞬で失敗したと分かった。「ああ」と言い淀んだ顔が曇っている。

「なあに? 倦怠期?」

 さすが叔母さん、と心の中で感心した。

 このずけずけとした物言いはなかなか真似できない。心配を装っているけれど、彼女のゴシップ好きは周囲の人間みなが知るところだ。

「えっと、倦怠期というか、ちょっとした喧嘩かな。向こうは愛想つかしちゃったのかもしれないけど、その抹茶のティラミス、実はヒナキにと思って作ったんです。何もなしで連絡するのも心もとなくて」

「そうなの? ちゃんとヒナキちゃんの分は置いてあるのよね。もう連絡した? 善は急げっていうでしょ。思ったらすぐ動かないと」

「ヒナキの分は家にあります。連絡はまだしてないんですけど、今日あいつのほうは定休日だから、また後で」

 押しまくりの叔母さんに、澄田さんは若干引いているようにも見える。でも、こうやって話してくるということは、澄田さんも聞いてもらいたいのかもしれない。懺悔みたいなものだろうか。

 ヒナキさんは、澄田さんとは別のフレンチ・レストランで働いている。二人はいつも連れ立ってうちの店を訪れ、仲良くパンを選んでいた。その姿を眺めながら「いつか二人で店開くのかな」なんて妄想していたのだけれど、ちょっと雲行きが怪しい。

「澄田君。ちゃんとヒナキちゃんのこと繋ぎとめておかないと、彼女モテるのよ。男だけじゃなくて、ここに買いに来てくれてるお店のなかにも『ヒナキちゃんにうちの店に来てほしい』って言ってる人いるんだから。いつか一緒にするんでしょ? 二人のお店」

 叔母さんの発言はまさに私の心を代弁しているのだけれど、地雷を踏みはしないかヒヤヒヤした。

「そんな話しましたっけ」

 首をかしげる澄田さんに、叔母さんは「勘」と言い放つ。大人の余裕が消え去った澄田さんの口元から、覇気のない溜息が漏れた。

「澄田君! シャンとしなさい!」

 叔母さんはバシンと澄田さんの腕を叩く。思いのほか大きな声に私も澄田さんも言葉を失い、作業場では叔父さんが苦笑していた。

「澄田君なら大丈夫。見てみなさい。あんな男でもこうやって店やってるの。あなたに出来ないわけないでしょう。それにほら、あんな男にもこんないい女が嫁に来てるのよ。澄田君みたいないい男がもったいない。シャキッとしないと宝の持ち腐れ。誠意を持って気持ちを伝えればヒナキちゃんだってイチコロよ!」

 よくそんな無責任な発言を堂々と口にできるものだ。

 とはいえ叔母さんの言葉は一種の魔法のようで、いや、暗示とか洗脳に近いものかもしれないのだけれど、何となく大丈夫な気がしてくる。

 私が大学受験でこっちに来たときも同じように適当な理由を並べて「大丈夫!」と自信満々に言い切った。そのおかげかどうかは分からないが、私はこうしてここにいる。

 叔母さんが「あんな男」と呼ぶ相手はスケッパーで黙々と生地を切り、秤に載せながら、やはり口元には苦笑いを浮かべていた。「アイツには敵わん」が叔父さんの口癖だ。

 澄田さんは笑顔を浮かべているが、魔女の洗脳が効いたようには見えなかった。

「がんばらないとなあ」と煮え切らない言葉をこぼす澄田さんを見て、叔母さんは何か使命感を感じたようだ。うーん、と眉を寄せて数秒後、「あ!」と手を叩く。

「ご利益があるかもしれない」

 そんなことを言いながら、棚をごそごそとあさって小さな籠を取り出す。そこには二十枚ほどのCDがぴっしりと収まっていた。そのほとんどが著作権フリーの店舗用BGMだが、営業時間外に作業しながら聴くために、叔父さんは数枚だけアーティストのCDを置いている。

 U2にMR.BIG、レッド・ツェッペリン――名前は聞いたことがあるという程度で、私は営業時間外に店にいることがないから、今でも彼らがどんな曲を歌っているのか知らない。聴いてみたら「あ、知ってる」なんてこともあるかもしれない。

 叔母さんが「これこれ」と手に取ったのは、籠の一番端にある茶色の封筒だった。

「あ、お前!」

 突然後ろから聞こえてきたのは叔父さんの狼狽した声だった。

 今にも封筒を奪いそうな勢いだったけれど、成形途中のパン生地を放り出すわけにもいかず、叔父さんは「変なこと言うなよ」とだけ言って、逃げるように私達から視線を外す。

 叔母さんは魔女らしい笑みを浮かべ、封筒から一枚のCDと、四つ折りのされた紙を取り出した。

「『Back To You』っていう曲。よかったら聴いてみて。こっちの紙に日本語訳が書いてあるから」

 CDジャケットをながめる澄田さんに、叔母さんは少しだけ顔を近づけ内緒話をする。

「あの人がね、私にくれたの。恋人だったとき一度別れたことがあって。店を始めるなんて重要なことをあの人が一人で勝手に決めちゃったから、私も腹が立ったのよね。結婚するものだと思ってたから。で、勝手にすればって連絡しなくなったんだけど、一ヶ月くらいしたらこれ持って頭下げに来た。『一緒に店をしてくれ』って。それがプロポーズの言葉」

 ご利益ありそうでしょ、と叔母さんは満足げな顔だ。

 澄田さんは紙を広げてざっと日本語訳に目を通し、「まさに俺のことですね」と自嘲じみた笑みを浮かべる。

「澄田君、本当に一回聴いてみて。もう、これがあるべき形なんだって思えるくらい、自然に前向きになれるから。そんな素敵なメロディーだから」

 澄田さんはネットで検索しますとか、ダウンロードしますとか言って、なかなか受け取ろうとしなかった。

 それはそうだろう。叔母さんの話を聞いてしまったら、簡単に借りて帰るなんてできない。そのCDは、いわば『タキタベーカリー』の原点だ。けれど、叔母さんは頑として譲らなかった。

「お願いだから持って帰って。それで、返しに来るときはヒナキちゃんと一緒よ」

 澄田さんは渋々受け取ったものの、あまり自信はなさそうだった。

 これでヒナキさんと別れたりしたら一体どんな顔をしてこのCDを返しに来るのだろう。『Back to You』あなたの元に戻る。

 ――ナオ君にもそのCD渡してくれたら良かったのに。

 ふと浮かんだ自分の言葉に我ながら呆れ果てた。ほぼ吹っ切れているつもりなのに、やはりどこかで引っかかっている。

「Back to You」どころか、私とナオ君のあいだに関係らしい関係などなかったし、浮かれていたのは私ひとり。

 水平線の上に残った夕陽がゆっくりと海の向こうへ沈んでしまうまでのあいだ、私とナオ君は夏の終わりの匂いを感じながら唇を重ねた。彼とのキスはあれが最初で最後。彼と二人で出かけたのも、あのとき一回だけ。

 ――やっぱりハルヒのところに帰るよ。

 ナオ君はそんな言葉を私に囁いたりはしない。

 五歳も年上の彼は、私みたいにお酒も飲めない子どものところに戻ってきてはくれない。あのキスはきっと私の妄想で、あれは幻の時間だった。

 雰囲気に流されただけのキスだと認めてしまったら、私はナオ君を嫌いになる。それはどうしてもできなくて、だから夏の終わりのあの数分間、私は夢の中にいたのだ。


次回/【episodeハルヒ〈2〉一次発酵】


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