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Bad Things/8

恋だけじゃない。でも、恋に振り回されないわけがない。そんな恋愛短編オムニバス

【extraミホ】


 夜中、物音で目が覚めた。

 三歳の娘と、その向こうでは夫が気持ち良さそうにイビキをかいている。私は豆電球の明かりを頼りに、サイドテーブルのハンドタオルを手にとった。汗で湿った娘の額を拭うと、「ううん」とぐずるように顔をしかめたけれど、すぐまた穏やかな寝息を立て始める。夫の枕をわずかに引くと、「ンがっ」と変な声を立ててイビキがおさまった。

 三十半ばを過ぎた夫には、草野球がずいぶん堪えたようだ。私は応援しかしていないにも関わらず、ベッドに入るとすぐ意識を失っていた。同い年の夫をとやかく言える立場にはない。

 ベッドを抜け出して廊下に出ると、一階の電気がついていた。かすかにシャワーの音が聞こえる。義母がこんな時間に入浴するはずもないから、どうやら義弟が帰ってきたのだろう。

 トイレを出て台所で水を飲んでいると、風呂上がりの義弟が顔を出した。

「あ、義姉(ねえ)さん。起こしちゃった?」

「おかえり、ケイ君。トイレ行きたくなっただけだから、気にしないで。ダイ君はイビキかいてるし、ユウもまったく起きる気配ない」

 ならよかった、とケイ君はビールを取り出し、さらに冷蔵庫の奥をのぞき込んでつまみを探しているようだった。

「ケイ君、今日飲み会って言ってなかったっけ。もしかして夕飯食べてない?」

「あー、飲み会行くつもりだったんですけど、ちょっと気が乗らなくて。コンビニで適当に買ってきたから大丈夫です」

 ケイ君は人懐こい性格のわりに、未だに他人行儀な言葉を使う。彼と暮らし始めたのは今年の春からで、それまでは親子三人マンションを借りて暮らしていた。

 夫であるダイ君の実家で同居すると決めたのは、昨年末に義父が仕事中の事故で亡くなったからだ。ケイ君は飲食店に勤めていて帰宅するのは深夜になるし、夜一人で家にいる義母を心配したダイ君が、同居は無理だろうかと遠慮がちに訊いてきた。

 ひと回りも年下の義弟と、七十近い義母。不安の種は数えれば切りがなかったけれど、すっかり消沈してしまっている義母の姿を見ると、私の不安など取るに足りない問題のように思えた。

 少しずつ義母の顔に生気が戻っているのは、私やダイ君の功績ではなく、まだ幼いユウのおかげだ。義母の膝であどけなく笑う娘を見ながら、半ば諦めていた仕事復帰を考えたりもしている。

 義弟に関する心配といえば、最初に頭に思い浮かんだのは昼ドラ的展開だった。

 今思えば馬鹿な妄想をしたものだと恥ずかしくなるが、友人から冗談交じりにけしかけられることもある。

 万が一こっちがその気になったとして、ケイ君にすれば私などずいぶんオバサンだ。男のひと回り年上と、女のひと回り年上ではずいぶん意味合いが違う気がするし、もしケイ君が私に欲情することがあるとすれば、それは「熟女好き」というカテゴリーに入るのだろう。それもちょっと癪だった。

 それ以前に、ケイ君と顔を合わせる機会がほとんどない。

 ケイ君は朝九時前後に起き出して、一人遅い朝食をとる。それが唯一顔を合わせる時間帯で、彼はバタバタと身支度をして仕事に出かけてしまう。帰ってくるのはみんなが寝静まったあと。たまの休日も彼は若者らしくどこへ出かけ、帰ってくるのはやはり深夜だった。

「若者らしく」というのは都合のいい解釈かもしれない。

 私達が同居するようになって、ケイ君が少なからず居心地の悪さを感じているのは明らかだった。

 私たちが同居する前、仕事が休みの日にはケイ君が夕食を作っていたらしい。けれど、私はケイ君の料理を彼の店以外で口にしたことがない。もっとも、店で出された料理についても、どれをケイ君が作っていたのか分からないのだけど。

 ピーと電子レンジの音が鳴り、ケイ君はコンビニで買ったらしいおでんの容器を取りだした。首にかけていたタオルをミトン代わりにするその様子に、そういう横着なところは兄弟そっくりだと思う。

 ダシの匂いが鼻をくすぐり、不意に空腹を感じた。

「私もなんか食べよっかな」

 そう言って冷蔵庫を開けると、ケイ君は「こんな時間に?」と驚いた顔をする。

「ねえ、たまには二人で晩酌しようよ。ビール半分ちょうだい」

 ケイ君は困惑しているようだったけれど、もう一度「ねえ」と言うと、戸棚からグラスを二つ取り出してビールを半分ずつ注いでくれた。

 私は何を食べるか迷い、半分残っていた竹輪を出して、袋を手に持ったままかぶりついた。

「姉さんのそういう大雑把なところ、兄と似てますよね」

 ケイ君は「乾杯」とグラスをぶつけ、美味しそうにビールを飲んだ。

「飲み会、気乗りがしないって、何かケイ君っぽくないね。集まるの好きそうなのに」

「あー、うん。今日はちょっと、色々あって」

 悩める青少年といった様子に、つい詮索したくなる。

「愚痴くらい聞くよ。誰にも言わないから話してみたら。ダイ君にも話さない」

「そんな大した話しじゃないです。……ちょっと、尊敬してた人の残念なところを見たというか、失望したというか」

「仕事の話?」

「あ……、えっと。仕事は尊敬してるんです。それは今も同じで」

 ケイ君はグイッとグラスをあおり、冷蔵庫から二本目のビールを取り出す。立ったままプルタブを開けると缶を直接口につけた。

「義姉さん、兄貴が浮気してるって知ったらどうします?」

「浮気?」

「例えばの話です。兄貴はそんな器用じゃないから」

 ケイ君はいつもより緩んだ笑みを浮かべた。アルコールのせいなのか、それとも私との壁を少し薄くしてくれたのか。

「ダイ君が浮気、かあ」

 ぱっと思い描くことができず、段階を追って想像してみることにした。

 ダイ君の帰りが不自然に遅かった日。そういう日がないこともない。飲み会と言って早朝に帰ってきたこともある。

 まだこの家で同居をはじめる前、ユウを連れて実家に帰ったとき、ダイ君が一人でいたとは限らない。

 誰か、私の知らない女の人と会っていたとして、その誰かがダイ君の腕に絡みついて――。

「ムリー。想像したくない、っていうか、できないよー」

「あ、ごめんなさい。いいです、もう。すいません」

 ケイ君の差し出したティッシュを三枚立てつづけに引き出し、鼻をかんだ。ケイ君は口を湿らせるようにビールを飲む。

「その尊敬してた人が、浮気してたみたいで。俺、その人の恋人も知ってるし、浮気相手も知り合いだったんです。二人とも傷ついてほしくないし、でも浮気相手だったコは、その人に彼女がいるって知らなかったらしくて」

「ケイ君、相談されたの?」

「いえ。たまたま一緒にいるところを見たんです。見なかったことにするつもりだったんだけど、結局俺が余計なこと言って、その浮気相手だったコ、泣かせちゃった。バス停の真ん前で。もうその人とは会わないって言ってたけど」

「……そっか。可哀想だね」

「それは、どっちがですか」

 問われた質問に、一瞬戸惑った。

「恋人、それとも浮気相手?」

 ケイ君は私の顔をじっと見つめた。私は「ううん」と唸ることしかできない。返事がないと悟ると、彼はうつむいて溜息をついた。
 
「優しいね、ケイ君は」

 当たり障りのない私の言葉に、彼はゆらゆらと頭を振って否定する。

「違うんです。俺、……いや、何て言っていいか分からないや。とりあえず、優しいとかそういうんじゃない」

 なんとなく、ケイ君は二人の女性のうち、どちらかが好きなのだろうという気がした。けれど、それはアラサーぎりぎりオバサンの昼ドラ的妄想のようにも思える。

 悩める青少年の横顔は若かりし日の切ない恋愛を思い出させてくれる。それに懐かしさを感じ、そして微笑ましく思った。

 もちろん彼は真剣なのだろうし、それをバカにするつもりはない。ただちょっと、羨ましい。

「また話したくなったら聞くよ。言いたくないことは言わなくていいから」

 私がそう言うと、ケイ君は素直に「はい」とうなずき、少しだけスッキリした笑顔をこちらに向けた。

「あ、そうだ。私ずっとお願いしたいことがあったんだ。なかなか言えなかったんだけど」

「なんですか?」

「おいしいハンバーグの作り方、教えて。ケイ君の都合がいいときでいいから一緒に作ろう」

 ケイ君はきょとんとしていたけれど、しばらくしてクスクスと笑いはじめた。

「いいですよ。俺もまだペーペーだから、あまりアテにはしないで下さい。火曜、定休日だから、その日にしましょうか」

「本当? じゃあ、もうひとつお願い」

「なんですか」

「ダイ君はチーズ入りハンバーグが好きなんだ」

「ああ、そうですね。じゃあ、そうしましょう」

 顔を見合わせて、共犯者のようにニヤリと笑う。

 いつか環境が変わって、ケイ君がいなくなったり、もしくはずっと居たり。ユウはどんどん大きくなるし、もしかしたら家族がまだ増えるかもしれない。

 考えれば考えるほど未来への不安の種は増えていくばかりで、最終的に今一緒にいる相手と笑いあっていられればいいかという結論に、今、至った。

 ――ケイ君が、笑っていられますように。

 そう心のなかで願ってグラスの底に残っていたビールを飲み干し、「おやすみ」と声をかけて台所を出た。

 後ろから小さなため息が聞こえたけれど、それは先ほどよりも軽く、どこか吹っ切れたような雰囲気すら感じさせた。

 もちろんそれは、私の都合のいい解釈なのだけど。


次回【episodeアイリ〈1〉巣立ち】

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