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Bad Things/13

【episodeサチ〈1〉一方通行】

 カンッという耳障りな金属音が聞こえ、受話器を手にしたままドアの向こうをのぞき見た。

 耳元からは華やいだ声が聞こえている。娘がピアノのコンクールで賞を獲った祝いなのだと、受話器の向こうの女性は家族四人分の料理を予約した。視覚と聴覚のテンションの落差で、目の前の光景が一層殺伐としたものに映る。

 通路にいたサービススタッフのミナトもその音を耳にしたのだろう。皿を手にしたまま固まっていたけれど、ハッと気付いたようにホールへと歩いていった。

 わずかな空気の流れにのってブールブランソースの濃厚な香りが漂ってくる。

 デシャップ台の奥に見える厨房では料理長の樋引が右手にスプーンを持っていて、その向かいでヒナキが頭を下げていた。彼女は厨房内で唯一の女性スタッフだ。

 どうやら、さっきの金属音は樋引のようだった。ヒナキがミスをしたか何かして、スプーンで作業台でも叩いたのだろう。

 ステンレスとステンレスの合わさる音というのは、どこか人を萎縮させる。ピリピリした空気はヒナキだけでなく他のスタッフにまで伝播しているようだが、それがマイナスに作用しないのが樋引のすごいところだ。

 樋引は男性スタッフのミスにも同じようにカンと音をさせ、そのあとドスの効いた声で一言か二言短い言葉を口にする。そして、手を出す。手を出すといっても叩くわけでも殴るわけでもなく、思い切りお尻を掴むのだ。

 いつかセクハラで訴えられるのではないかと心配になるけれど、叱責による緊張からの弛緩がほどよい塩梅でなされているようで、相当なテクニシャンだと、私は半ば呆れ気味に様子をうかがっている。

 仕事時間外のコミュニケーションはずいぶん緩く、コックコートを脱いだ樋引はヘラヘラした気のいいオッサンへと変貌する。

 なんて、嘘。”オッサン”とか思えたらその方が楽なのに。

 樋引がバイセクシャルだということはスタッフのほとんどが知っていた。いつぞやの飲み会ではキスしまくっていたが、みんなが笑って済ませられるのは樋引のキャラクターのせいだ。

 ターゲットにされたのはケイスケという若い男性スタッフで、思い出すだけでムカッ腹が立ってくる。何かといえばハラスメントが叫ばれるこのご時世、樋引はきっちり冗談で済むような相手を選んでいる。それが癪だ。

 私がその相手になることは決してない。冗談でキスされるような砕けたキャラクターでもなければ、キスをしたくなるようなフェロモンむんむんの女でないことも自覚している。

 率直に言うと私はキス相手に指名してほしいし、性的対象として見て欲しいと本人にアピールし続けている。けれど、彼の慎重さは私に対してだけ酷く強固なものに思えた。

 樋引が私に触れたのは一度だけ。業務上必要であれば物理的接触はするけれど、それにいちいちトキメクほど私は若くない。

 何度家に押しかけても、手を伸ばせば触れられるほどの距離で眠りについても、”あの日”以来、指一本触れてこようとはしない。家に上げてもらえるだけマシと言えばマシなのだが。

 そんな不毛な恋愛を続けているせいかも知れないが、ヒナキに対する樋引の態度は甘すぎて苛々する。

 ――それ客に出すつもりか、お前。

 男相手にはこの台詞で凄むが、ヒナキ相手だと諭すように言う。溜息を添えて。そのどちらが堪えるかと言えば、同じくらいなのかもしれない。

 けれど、私にはヒナキが特別扱いされているように見えて仕方なかった。

 ヒナキは樋引より二十も年下で、娘でもおかしくないくらいの乳臭い子ども。分かってはいても、今まさに女としてはち切れんばかりに咲き誇ろうとする彼女の若さが妬ましい。

 私はとっくの昔に下り坂で、四捨五入したら四十。三十八歳の私と四十六歳の樋引。相手にされなければ、年齢差なんて考えても意味はない。

「では来週の土曜。十八日の七時に四名様ですね。お待ちしております」

 受話器の向こうから聞こえてきた「よろしくお願いします」という声はそれまでと違い、丁寧で落ち着きのあるものだった。予約票をバインダーに挟み、『甲殻類アレルギー』と備考欄に書き足す。

「エビ・カニの生は駄目で、加熱してあればカニは平気、と」

 ペンを置いて、再び厨房に目を向けた。樋引の背中は見えるがヒナキの姿はそこにはなかった。溜息をついたのか、樋引の背中がわずかに上下する。

 この店での樋引の存在は大きい。

『レスプリ・クニヲ』という名のこのフレンチ・レストランに「クニヲ」はもういない。いや、この店の中だけでなく、この世界にもう存在していない。

 如月州生が十五年前に始めたこのレストランに、私は開店当初アルバイトとして採用された。年数を経て正規の従業員となり、サービスのチーフとなったのはソムリエの資格をとった翌年。もう七、八年も前のことだ。その頃はまだ州生も健在だった。

 州生が生きていた頃から『レスプリ・クニヲ』のオーナーは彼の妻の奈穂になっていた。そこらへんの事情は私には分からないし興味もないのだけれど、「妻がいなければ店はできなかった」と州生はことあるごとに口にしていた。

 州生が二十代の頃に自己破産したらしいという噂も耳に入ってはいたが、本人に確かめたことはない。そんな過去なんてどうでも良くなるくらい、州生の料理は魅力的だった。仕事姿は見ていて惚れ惚れした。

 もちろん恋などではない。

 彼の味は地元の人々にも認められ、客数は年々増え、求められる料理もワンランク上のものになり、いつしか地元だけでなく県外からも客が足を運ぶ店になっていた。すべてが順調で、若い私はそれがいつまでも続くと錯覚していた。

 不幸なことが起きるときには二つのパターンがある。バッサリと斧を振り下ろされるか、じわじわと足元から迫る水で溺死するか。州生の場合はどうだっただろう。その両方かもしれない。

 州生が吐血して救急車で運ばれたのはその日最後の客が店を出た直後で、それは彼が厨房に立った最後の日となった。

 正確に言うと、その後一度車椅子で店を訪れているが、包丁を握ったのはあの日が最後だ。すでに全身に回っていた病魔に、宣告された半年という期限は持ちこたえたものの、その一ヶ月後に彼は息を引き取った。

 樋引が『レスプリ・クニヲ』に姿を現したのは州生が倒れてから一ヶ月ほど経った頃のことだ。

 秋から冬へと変わる季節で、もし彼が来ていなかったら年末の繁忙期を乗り切れたかどうか分からない。それまでも予約は一時ストップし、入店する客数も制限していた。スタッフの間には不安が広がりつつあったけれど、店を辞めたりする者はいなかった。

 ほとんどが三年以上勤めているスタッフで、「守らなければ」という使命感もあった。それは私が感じていたことで他の人がどうだったかは知らないけれど、私の中には確実にそれがあった。その使命感に押しつぶされそうになっていたところに、「これが州生の店かあ」とヘラヘラした髭面の男が現れた。

 第一印象は必ずしも良くない。なぜなら彼は煙草を吸っていたから。

 煙草は味覚を狂わせる。かといって料理人で煙草を吸う人間が少ないとは言えないし、ソムリエでも喫煙者はいる。ただ、州生は煙草を吸わなかった。『レスプリ・クニヲ』の店内も禁煙で、私のまわりで煙草を吸う人間は数えるほどだった。だからこそ余計に嫌悪を感じたのかもしれない。

「全国誌に採り上げられるほど有名なオーベルジュで料理長してた奴だから、信頼していいよ」

 見舞いに行った病室で州生は私に言ったけれど、その言葉はどうにも信用しきれなかった。だがそれも樋引の料理を口にするまでの話。

 最初の印象が良くなかったからこそ、私は急速に樋引に惹かれてしまった。一番の古株、そんなプレッシャーで弱っていたのかもしれない。

 とにかく私は樋引に夢中だった。それは今でも変わらない。変わらないとは思うけれど、それが純粋な恋なのか、ただ意地になっているだけなのか。そこら辺は頭が痛くなるから考えないようにしている。

 州生の料理は好きだ。けれどそれは料理に対する姿勢を含めて人間的にという意味合いが大きく、単純に料理だけを比較するならば樋引の料理から受けた衝撃の方が大きかった。

 州生の料理は艶やかでキラリとした印象を残す。一方、樋引の料理はじわじわと心を満たしていく。一口目のインパクトは大きくない。食べた客を驚かそうとか、そういった顕示欲のようなものが一切なく、そこにあるのは素材と素材のマリアージュ。

 煙草を挟んだあの指からその料理が生み出されるなんて信じられなかったけれど、実際そうだったのだからどうしようもない。それに、彼は思ったほど煙草を吸わなかった。彼が煙草を咥えるのは仕事終わりの店裏での一服。私が目にするのはそれだけだ。

 皿と向き合うときの真剣な眼差し、それとは全く反対のヘラヘラしたコミュニケーション。ついでに言えば私は髭フェチであり、コックコートフェチだ。コックコートは白がマスト。

 彼の一挙手一投足が私の目を惹きつけて離さず、時おり見せる淋しげな表情にさらに心をつかまれた。かといって州生が病床に臥せっているときに浮かれた行動を起こす気にもなれず、州生が他界したらしたで、さらにその気も失せてしまった。

 私はスタッフの誰にも自分の気持ちを打ち明けるつもりはなかったし、今でも私の気持ちを知っているのは樋引本人だけだ。

 樋引は私の気持ちを知り、そして後ずさるように距離を広げた。彼の深い所に近づいたと喜んでいたのは、どうやら私だけのようだった。

 あれは、州生の四十九日が明けてすぐのことだ。

 空梅雨だというのにいつまで経っても梅雨明け宣言がされず、州生がいなくなった『レスプリ・クニヲ』は変わらず好調で、樋引は「なんだかなあ」と呟いて夜空に紫煙を吐き出した。

 他のスタッフはすでに帰っていて、私が残っていたのは樋引と二人きりになりたかったから。彼が店を出るのはいつも一番最後で、私は何かと理由をつけては彼と一緒に店を出るようになっていた。

「サチ、明日定休日だし家来るか?」
    
 そう言った樋引の顔はつるりとしていて、月の光が少しこけた頬に影を作る。州生が死んだ日、樋引はずっと生やしていた顎と口元の髭を剃った。それ以来彼の髭を目にしたことはない。

 その夜、樋引は酒を飲みながら涙を流し、私は彼がバイセクシャルだということを知った。過去、州生に気持ちを打ち明けていたということも。

 彼はどんな思いで『レスプリ・クニヲ』に来たのだろう。

「あっという間だったな。人間なんて呆気ない」

 悲しげに呟いた彼を抱きしめたのは酔っていたからじゃない。酔っていなくても私はきっとそうした。それくらい彼は傷だらけに見えて、包み込んで彼の周りを飛び交う刃から守ってあげたかった。

 あとは、ふたりの間の空気があるべき方向へと流れていっただけだ。私は彼の唇に触れ、彼は私の服を脱がせた。それはとても自然な流れで、お互いぬくもりを欲していた。失敗だったのは、意図せず私の口をついて出た言葉。

「好き」

 彼の存在を体内で感じながら、高ぶった体がそう言わせた。樋引は本気にしたのかどうなのか、はぐらかすように口の端を歪めてふっと鼻で笑い、煙草に手を伸ばそうとし、止めた。

「やめとけ。男と浮気したら嫌だろ」

 予防線を張っておくに越したことはない、そんな口ぶりだった。

 彼はその言葉と裏腹に私を抱きしめ、それまで以上に激しく私の体を求めたけれど、彼自身が傷つこうとしているようにも思えた。そんなふうに考えたのは後日のことで、そのときは陶酔した時間をふたり共有しているものと思い込み、彼の言葉よりも絡みつく肉体こそが彼の本心だと勘違いしていた。

 自身の蒙昧さを後悔しても何も変わりはしない。過去に戻ったとしてもきっと同じ道を進む。だから受け入れるしかないのだと、そう割り切ることができる。

 私の生き方は変わらない。その時その場所で次に踏み出す一歩、枝分かれした未来を天秤にかけ、選ぶのは後悔のない道。猪突猛進だと私自身は思っているけれど、傍目には案外そうは見えていないようだ。


 定休日明け、樋引がバイセクシャルだという話がスタッフのあいだに広まっていた。広めたのは樋引本人で、彼がセクハラもどきのコミュニケーションを男性スタッフととるようになったのもこの時からだった。

「樋引さん、私にもキスして下さい」

 ある夜の、やはり二人きりで店を出た帰り道。樋引のマンションの下で彼の服の裾をつかんで、さっさと帰ろうとする彼の足を止めた。振り返った彼は溜息をつき、「他の男にしといた方がいい」と、まったく相手にする素振りはなかった。

「私、一人に慣れてるんです。だから待つのは平気」

 生まれてこの方恋人がいたことはないと伝えると、彼は「マジ?」と面白いくらいに目を丸くした。

 嘘は吐いていない。セックスする相手は何人かいたことがあったけれど、それは恋人ではなかった。何度か会ってそれきりだったり、相手に他の女の人がいたり。

「じゃあ、余計に俺じゃないほうがいい」
  
 頭でも撫でてくれようとしたのか右手を肩のあたりまで上げ、その無意識の動作に気づいた彼はその手を自分の頭に持っていった。

 おやすみ、と逃げようとする彼の背中に「重いですか」と問いかける。

「ちょっとね」

「一杯だけ飲ませてくれたら帰ります」

 傷つけたくないくせに、傷つけることで距離を置こうとする。そんな樋引の言葉が悔しくて、私は強引に部屋に上がった。

 呆れ顔の彼は缶ビールを一本差し出すと、さっさと浴室に消えた。私が素っ裸になって強引に押しかけたらどうするのだろう。意外にリアルな暴挙が頭を掠めるけれど、先刻のやりとりがそれを思いとどまらせる。

「先に出る」と素っ気なく言われて一人シャワーを浴びながら涙を流すなんてまっぴらだ。

 結局、私がとった行動はただの狸寝入り。近づいてきた彼の足音が止まり、小さな溜息のあとふわりと布団を被せられた。

 目を瞑っていても電気が消えたのは分かる。薄く目を開けると彼はスマホを手に部屋から出ていくところで、しばらくして微かに話し声が聞こえてきた。

「……シンイチロウ」

 辛うじて耳に入ってきたのは、親しげな口調で樋引の口からこぼれるその名前。抑えた笑い声がドアの存在などお構いなしに空気を伝ってくる。

 自分がこの部屋の異物のような気がして布団を頭までかぶり、それでも耳だけは出していた。

 どれくらいそうしていたのか、不意に樋引の声が大きく聞こえ、どうやら部屋に戻ってきたようだった。

「――まあ、うまくやってるならいいよ。気が向いたらソウタと飯でも食いに来な」

 通話相手の声が聞こえたけれど、何を言っているのか分からなかった。

 樋引は空気が漏れるような笑い方をして、そこに親しみはあるけれど、恋愛感情はないだろうと、私は希望を込めてそう判断した。

 盲目だとは思わない。それが私の真実。

 ギシと軋む音がし、ベッドに潜り込む気配があった。距離は一メートルも離れていないのに、そこには地の底まで続く深い溝があるようだった。

 その後も何度か部屋に押しかけたけれど関係は変わらず、けれど手を伸ばせばすぐそこに樋引がいた。溝なんて飛び越えてしまえばすぐ抱き合える。

 私は彼の寝息が聞こえはじめた頃にそっと体を起こし、寝顔を見つめた。

 追いかけていたいだけなのかもしれない、そう思うこともある。


次回【episodeサチ〈2〉交差点】

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