見出し画像

Bad Things/3

恋だけじゃない。でも、恋に振り回されないわけがない。そんな恋愛短編オムニバス

【prologueユカリ(3)】


「霜谷、澄田さんに彼女いるって分かってて会ってんの?」

 批判的な高波の口調が、ちょうどよく私を傷つける。

 悪いのは私。先のばしにしてきた私のせいだ。

 何か言い返そうとしたけれど、喉が震えそうでやめた。唇を噛んでも震えは止まらなかった。

 風が吹き抜け、カサカサと落ち葉が擦れる音と、木々のざわめきが沈黙を埋めてくれる。

「霜谷」

「……なに?」

「見なかったことにするから、澄田さんと会うのやめてくれない? 澄田さんが浮気してるなんて知ったら、ヒナキのやつ……」

 高波はハッと口をつぐみ、咳ばらいをした。そのあと、「もう、結婚秒読みなんだよね、澄田さんと彼女」と、どことなく投げやりに言う。

「……ヒナキ、さん? 仲いいんだ高波」

 皮肉のつもりだった。どこにぶつけていいかも分からない澄田さんへの感情は、高波にぶつけるしかない。今さら彼女の名前なんて知りたくなかった。

 高波は「べつに」と小さくこぼし、ギャラリーの貼りつく薄緑色のフェンスへと歩いていった。彼の右手が肩の上にあげられ、フェンスの向こうの男性がそれに応えるように手を振り返す。

「弟よー、来るの遅いんだよ。俺の華麗なプレーにみんな歓喜したっていうのに」

「ああ、ゲッツーとったって?」

「おっ! 見てた?」

「いや、見てない。兄貴じゃなくて、ショートのプレーが良かったんじゃねえの?」

「言ったな? ミホ、ちゃんと撮れてるよな」

 声をかけられた女性はママ友らしい何人かの輪からはずれ、幼子を抱きあげて高波たちに近づく。高波の口元が「ども」というように動いたけれど、私の耳までは届かなかった。

「さっきの? わが夫ながらかっこよかったよー。今度見せてあげるから」

「いいですよ、別に。プロ野球も観ない俺には、兄貴の凄さなんて分からないから」

「やだぁ。プロ野球を観ないからこそ、しょぼい草野球のプレーもスゴく見えるのよ」

「おい、ミホ。その言い方はないだろ」

 幸せの光景は、悲しみに浸ろうとする自分を惨めにさせる。

 私が泣いてもあの人達は笑っていて、澄田さんは彼女に電話をかける。私から連絡がなくても澄田さんは「ヒナキ」と会って、夜は彼女の服を脱がせる。

 高波に声をかけないまま、私は公園を出て国道沿いを歩いた。

 いつも車で通り過ぎる町並み。それほど歩いたわけでもないのに、履きなれないハイヒールに足が痛みを訴えはじめる。

 ――わたしは、何か悪いことをしただろうか。

 考えようとすると瞼がジンと熱くなり、ギュッと目を閉じてリセットする。バス停にたどり着いて時刻表を確認すると、次の便まで三十分以上あった。    

 座る場所もなく標識が立っているだけのその場所で、私はすべてが面倒になり、ただぼんやりと立ち尽くした。

「霜谷、大丈夫か?」

 振り返ると、高波がいた。

 自転車にまたがったまま、怪訝な顔を私に向ける。彼は背負っていたリュックをあさり、ポケットティッシュを差し出した。

「……悪かったよ。俺も言い方きつかった。とりあえず涙ふけよ」

 彼に言われて手のひらで頬をぬぐう。

「あ、泣いてたんだ。私……」

 言葉を漏らした瞬間、それを待っていたように涙が次から次へとあふれ出してきた。手の甲でそれを何度も何度も拭きながら、私は高波に背を向けて歩道を歩きだした。

 優しさなんてほしくない。

「おい、霜谷!」

 放っておいて。

「なあ、悪かったって」

 うるさい。

「霜谷!」

「うるさい!」

 チェーンのカラカラという音が後ろからついてくる。

 私が足を止めるとその音もやみ、歩きだすとまた聞こえてくる。そんなふうにして、ふたり黙り込んだまま歩道を歩きつづけた。

 正面から子どもが三人駆けて来て、私が立ち止まってやり過ごしているとグイと腕が引かれた。

 高波は困惑しているようにもみえたし、怒っているのかもしれなかった。

「霜谷、後ろ乗れよ。駅までなら通り道だし」

「違反」

「そうだけど。……澄田さんは?」

「帰ったんじゃない? 彼女のとこに」

「お前、ほったらかして?」

「高波、そうして欲しかったんでしょ。ちょうど良かったじゃん。もう会わない」

「……別れたのか?」

 ”別れたのか?”

 その言葉で吹っ切れた気がした。情けなさが飽和状態になって、笑いたくなった。

「なんとなく気づいてたんだけどね。私、彼女じゃなかったんだ」

「霜谷。澄田さんに彼女いるって知らなかったのかよ?」

 知らなかったほうがよかったのだろうか。

 もし知らないまま会いつづけていたら……その先を考え、ストンと肩の力が抜けた。

 知ってしまった以上、もう”その先”なんて意味がない。彼の笑みを素直に受けとめることはもうできそうになかった。

「私、二番目の女だったんだ。今日はじめて知った」

「本当に、もう会わないのか?」

「会わない」

「澄田さんは何て?」

 ――ユカリちゃん、これからも会うとか、無理?

 あの言葉への返事は変わらない。誰かから奪ってまで、彼の隣にいようとは思わなかった。誰かがいるのに私と深い関係になった彼を、もう信用できないのだと思った。

「会わないって」

 そっか、と安堵のため息をついた高波の視線が、何かをとらえたようにピタリと止まった。

 高波の視線の先にあったもの、それはたぶん、虫に刺されただけの小さな斑。ちょっとのあいだ痒いかもしれないけれど、きっとすぐに消えてなくなる。

「あの人の店、行きたくないから。同級で集まるなら高波の店……も嫌だし、どっか別の店にして」

 ”ヒナキ”

 その人は今なにをしているのだろう。恋人に何の疑いも持たず笑顔で迎えるのか、わずかなりとも猜疑心を抱えて彼を観察しているのか。罪悪感がチクリと胸を刺した。 

 高波は「どっかいい店あったかな」と独りごとのように言う。

 二つ目のバス停が見え、コンビニ前の標識の横に、杖をついたおばあさんと女子高校が二人立っていた。バスが着く頃なのかもしれない。

「高波、遅刻するんじゃないの?」

「ギリ。とばしたら間にあう」

「高波、ヒナキって人が好きなの?」

 自転車が止まり、彼の顔は浮かべるべき表情を決めかねて強張っていた。

「高波は、バカだね」

 パシンと彼の腕を叩き、私は「じゃあね」とコンビニへ向かった。後ろから、ファーンというバスの音が聞こえた。

「霜谷! バス!」

「いい。あと10分くらいで家に着くから歩く」

 手を振って店に入り、トイレを借りて店内に戻ると、雑誌コーナーに高波が立っていた。

「高波は、バカだね」

 開いていた漫画雑誌を棚にもどし、高波は口の端にゆがんだ笑みを浮かべる。

「霜谷も、バカだね」

「仕事は?」

「30分遅刻って電話した」

「ゆるい職場だね」

「知らねーからそんな風に言えるんだよ。マジ、気が重い」

「行けばいいのに」

「行くよ」

「じゃあね」

「おう」

 チェーンのカラカラという音が隣で鳴り続けている。秋晴れの空を鳥影が通り過ぎていった。


次回/prologueヒナキ(1)

ここから先は

0字
短編連作。収録話により無料で読むことができるものもあります。

恋愛オムニバス。 全編で文庫本一冊くらい。「恋だけじゃない、でも恋に振り回されないわけがない」そんな恋愛短編オムニバス.

よろしければサポートお願いいたします。書き続ける力になります!🐧