Bad Things/4

恋だけじゃない。でも、恋に振り回されないわけがない。そんな恋愛短編オムニバス

【prologueヒナキ(1)】


 手にした黒文字をピタリと止めて、母は思い出したように口を開いた。

「塩谷さんちの結衣ちゃん、このまえ結婚したのよ。ヒナキより下だったわよねぇ」

「うそ、結衣ちゃんが? 中学のころ以来会ってない。私が中三のときに中一だったから、二歳下かな」

「今どきの子にしては早いわねえ」

 母は感心したようにため息をついて、紅葉を模した和菓子を切り分け一口ほおばる。

 高校卒業後、私は隣県の調理師専門学校に二年通い、そのままそっちで就職を決めた。結衣ちゃんは実家の近所に住んでいた女の子だ。彼女に限らず、たまに帰省しても誰が誰だか分からない。

 和菓子の甘みのせいか、一日着ていた喪服から解放されたおかげか、母は抹茶を口にふくんで「あぁ」と安堵の吐息をもらした。

 お茶といっても作法も何もあったものではなく、リビングにポットと茶筅、抹茶茶碗を持ってきて、好き勝手に飲んでいる。立ちのぼるふくよかな香りと湯気に、それだけで心がほどけていく。

「ヒナキもそろそろ結婚してもいい頃よ。私は二十六で結婚したんだから」

「お母さん、今の私の年で結婚したんだね」

 抹茶茶碗のぬくもりを両手に感じながら、隣県にいる恋人に想いを馳せた。お土産のつもりで買った和菓子はすでにお腹のなかで、口に残った苦味がザラリとした記憶を思い出させる。

『ヒナキは楽観的過ぎだよ。澄田さん、絶対怪しい』

 カレシの部屋で女物のピアスを見つけた、と友人のチカに話したら、そんな風に言われた。彼はピアスをしていない。

『でも、妹が来てたって』

『それを信じちゃうの? ちょろい女って思われてるんじゃない?』

 彼には私より一つ年下の妹がいる。彼は私の三つ上だ。

 妹が来ていたなら紹介してくれてもよさそうなものなのに、いつ来ていつ帰ったのかも私は知らないし、彼は「ちょっと前」とあいまいに濁した。

 チカに喋ったこと意外にも気になることがある。

 彼の部屋の灰皿に、吸い殻が二本だけ残っていたことがあった。私は彼の部屋の灰皿がそんなにスッキリしたところを見たことがない。それまでは、私が捨てなければ吸い殻はいつまでも積み上がっていくのではないかと思うような、そんな灰皿だった。

『スミ君、めずらしい。自分で捨てたんだね』

『ヒナキが旅行のあいだに火事になったりしたら嫌だろ』

『そうなったら私のマンションに来たらいいよ。ねえ、いっそ一緒に……』

 彼は「あ、そうだ。オーナーに言わなきゃいけないことがあった」と独り言をこぼしながら部屋から出て行った。

 ……いっそ一緒に暮らそうよ。

 私が言いたいことは分かっているはずなのに、彼はのらりくらりとかわしてしまう。

 店は違っていても同じように飲食店で働いて、生活時間帯はほぼ同じ。けれど、会える時間はそれほど多くなかった。

 定休日が違うから休みは重ならないし、勤務形態もランチとディナーのあいだに二時間半の休憩が入るから、出勤から退勤までの時間が長い。お互いの家を別宅のように行き来するくらいなら一緒に住んだほうがいい、そう考えるのは私だけなのだろうか。

「ヒナキ、明日も仕事休みなんでしょ? 今日泊っていくわよね」

 母はショッピングモールのチラシをながめていて、どうやら運転手を確保しようとしているようだった。

 親戚の法事を理由にとった週末二連休。サービス業に従事して、土日に休みをとるのは初めてのことだ。時刻はすでに夜の八時近く。私と母は叔父たちと飲んだくれる父を放って、先に家に帰ってきていた。

「泊まるつもりだったけど帰ろうかな。気疲れしちゃったから明日は一日ゴロゴロしたい」

「せっかく来たのに?」

「日曜のお昼って車混むし、帰るなら夜のほうが運転ラクだから。お母さん、明日はお父さんとデートしたら?」

 ごめんねと言いながら、私はすでにスミ君のことで頭が一杯だった。

 チカのせいだ。

「楽観的すぎ」チカがあんな風に言わなければ、私はこれまでと同じようにスミ君の言葉を鵜呑みにしていられたはずなのに。そうすれば、私は傷つかないでいられたのに。

 ほんの小さな不安がこんなにも膨れ上がるなんて思いもしなかった。気にも留めなかった彼の何気ない仕草に、自分でも呆れるほど疑いの目を向けてしまう。

 一緒に暮らそうよ。

 その言葉から彼が逃げるのは、私以外に誰かいるからかもしれない。いつからか、頭の中に顔も名前も知らない”誰か”が住みついて、こうして彼と離れているあいだにも、その”誰か”は……。


 ***


 午後十一時。

 曇天の空に星はなく、単調な景色の高速道路で猜疑心と戦っていた。ラジオから聞こえる下ネタトークに、ふっと強張りが溶ける。

 ふと、同僚のケイスケのことが頭に浮かんだ。

 二歳年下のケイスケは、普段からバカ話で職場を賑わしている。料理長に怒られることもあるけれど、調理場で一番下っ端の彼はみんなから可愛がられていた。

 そんな彼のキャラクターは店の中だけではおさまらない。スミ君の働くレストランに訪れて以来、ケイスケはスミ君を先輩だの師匠だのと言ってじゃれついている。スミ君はまんざらでもなさそうで、仕事終わりに三人で飲みに行ったこともあった。

 トンネルを抜けて海沿いの国道に出ると、見慣れた景色にほっと肩の力が抜けた。すでに日付は変わっている。

 私は海岸沿いのコンビニに寄り、スミ君の好きなスモークチーズと缶ビール、それとホットの紅茶を買った。彼の家までなら、ここから十分ほどで着く。

『予定より早く帰ってきちゃった。今日、そっち行っていい?』

 仕事は終わっているはずなのに、送ったメールにスミ君からの返信はなかなか来ない。

 自宅に戻ってしまえば「無理して来なくていいよ」と言われるような気がして、なかなか車を出すことができなかった。

 シャワーでも浴びているのだろうか。頭に浮かんだ彼の隣には顔も知らない誰かが裸で立っている。口に運んだペットボトルの紅茶はもう半分も残っていなかった。

『……の曲で、”シンフォニー”。あなたは今、だれと聴いてますか?』

 DJの言葉のあと流れ出した音に、するりと涙が頬を伝った。

 自分に浸りたいだけだと分かっているのに、車内に響く歌声が自分の叫びのように聞こえる。曲の終わりとともにメールの着信音が鳴り、メールを確認して思わずため息がもれた。

『おつかれー。忙しくて今まかない食い終わった。明日の仕事終わりに新しく出来た居酒屋行こうって話してるんだけど、ヒナキは明日何時に帰ってくる?』

 年上へのメールとも思えない言葉遣いに、運転席でひとり苦笑した。メールの差出人であるケイスケは、こうやってするりと懐に入り込んでくる。それが、少し怖い。

『おつかれ。お昼には帰るけど、疲れてるからパスするかも。行けたら行く』

『もし来るなら澄田さんにも声かけてみて。帰り、気をつけて運転しろよ』

 ケイスケが会いたいのはスミ君かと思うと、不意に笑いが込み上げてきた。

「なにやってんだろうなぁ、私」

 ほんの数ヶ月前。あのピアスを見つけるまでは自分がこんなに弱いなんて思いもしなかった。

 つき合いはじめて三年近く。尊敬と憧れの対象だった澄田さんが恋人のスミ君になった当初は緊張ばかりしていたけれど、それは共通の話題である料理が埋めてくれた。お互いの存在が日常になったころ、私はようやく今の仕事にも慣れ、余計に料理にのめり込んだ。

 スミ君に追いついて、同じ目線で料理の話をしたかった。それなのに、最近料理をしていても気づけばうわの空だ。

 スミ君は今仕込み中かな。
 あっちの店、忙しいかな。
 今、休憩かな。

 同じようなことを、出会った当初も思っていた。その頃は持てあますような恋心しかなく、「彼女はいるのかな」なんて考えながらも、浮き立つ気持ちが心の大半を占めていた。

 誰か一緒にいるの?

 私の心は今そればかり考えている。浮き立ちもせず、これも恋なのだろうけれど、こんなに真逆の気持ちを「恋」という一つの言葉で括ってしまえるのが不思議なくらいだった。

 紅茶を飲み干してコンビニのゴミ箱に捨てた。雲間からいくつか星が瞬いているのが見える。車に戻ると、車内ではスマホのランプが点滅していた。

「もしもし」

『ヒナキ? ごめん連絡遅くなって。今日ちょっと用事があって実家の方に向かってるんだ。だから、悪いけど』

「ううん。急にごめんね。あ、そうだ。うちの店の人達が、明日新しい居酒屋に行くから一緒に行かないかって。スミ君行く? そっちの店の人も誘ったらいいと思うけど」

『……どうせ高波から連絡あったんだろ』

「うん。今日忙しかったって愚痴メール。スミ君、無理しなくてもいいと思うよ。実家行くならあまり寝れないでしょ?」

『うん。……でも顔くらい出すよ。ヒナキ行くんだろ?』

「スミ君が行くなら行くことにする。連絡しとくね」

「よろしく」という声のあと、電話はあっさり切れた。助手席の缶ビールはすっかりぬるくなり、結露でレジ袋が貼りついている。私はケイスケの番号を呼び出した。

『はいはーい。ワタクシ、タカナミケイスケでございます』

 妙に浮かれた声だった。けれど、それはケイスケの声ではない。酔っ払ったバージョンの料理長の声だ。

 店から歩いて五分のところに住んでいる料理長は、時々まかないをつまみに晩酌を始める。

「樋引さん、ケイスケはそんな親父臭いダミ声じゃありません」

『ひどいなあ、ヒナキちゃん。ケイスケのうんこが長いから俺が代わりに出てやったのに』

「樋引さんも明日行くんですか? 飲み会」

『飲み会? 市場調査って言ってくれよ。結構評判いいらしいんだ、値段のわりに』

「行くんですね。私も行きます。あと澄田さんも行くって」

『あ、ほんと。旦那の店のやつも何人か来るって?』

 樋引さんは私と話をするとき、スミ君のことを”旦那”と呼ぶ。以前はそれが気恥ずかしくも嬉しく感じていたのだけれど、最近妙な居心地の悪さを覚えるようになった。

「まだ分かりません。いつもみたいに適当に合流すればいいですよね?」

「だな」

 ケイスケの「あー」という声がした。樋引さんは笑いながら電話を代わり、スマホからは「ヒナキー?」とケイスケの能天気な声が聞こえてくる。

「なによ、酔っぱらい」

『酔ってないって。そっちこそ、親戚のオヤジとかに飲まされてんじゃないの?』

「車だから飲んでないよ。もう寝るところ」

『そっかぁ。法事とかって気疲れするからな。オツカレサマでした』

 おつかれ、と返して電話を切った。切ったあと、自分の電話の切り方がさっきのスミ君と同じくらいあっさりしていたことに気付いた。

 スミ君の私に対する気持ちは、私のケイスケへの気持ちと同じくらいあっさりしたものなのだろうか。以前はどうだっただろうと思い返してみるけれど、昔もそれほど変わらなかったように思う。

 つき合いはじめた頃も、馴れ合いはじめた頃も、そして今も、スミ君の電話はあっさりとしている。

 杞憂だったらいい。スミ君の気持ちは何も変わらず、私が勝手な思い込みで不安になっているだけ。

 車窓をながれる日常の風景が、安堵と孤独をつれてくる。スミ君は今、この街にいない。それが嘘ではないと信じたかった。


次回/prologueヒナキ(2)

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