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掌編『波音とエンジン音』


2017年夏に初めて書いた掌編を発掘してきました。

波音とエンジン音


「……しょっぱっ」
 そう言って口元を拭う僕を、彼女はクスクスと笑いながらチラリと見て、そのあとザブンと漆黒の海の中へと一瞬の躊躇もなく潜る。ゆらゆらと揺れる海面は、雲間から覗く満月の光で優しく照らされていた。
 あまりにも長いあいだ潜り続ける彼女に、出会った頃は溺れてしまったのではないかとずいぶん狼狽した。あのとき、兄貴と二人で、服が濡れるのも構わず夜の海へと飛び込んだ。
 途方にくれて呆然と立ち尽くす僕と兄のちょうど真ん中に、突然ザブっと顔を出して、二人の顔を交互に見る彼女の顔は、僕らの心配なんかまったく気づいてないようだった。
 そしてまた今夜も、海の中で呼吸しているのかと思うくらい静かに僕の足元をスルリと泳いで、少し離れたところで半身を海の上に出した。砂浜の向こうを走る国道を見つめる彼女は、僕には一瞥もくれず波打ち際へと歩いて行く。
「今日は、兄貴は来ないよ」
 その言葉に、彼女はひどく悲しそうな目で僕を見返し、うつむいた彼女の瞳からポタリと雫がこぼれ落ちる。雫は小さな真珠のような玉になって、ぽとんと海に落ちた――ように見えた。
 真っ白のはずのワンピースは彼女の体にぴったりとはりついて、下着すらつけていないその美しいラインをくっきりと闇夜に映し出している。僕は彼女の次の行動を予想して先に海からあがり、岩場にかけたバスタオルで体を拭いて服を着た。
 いつもどおりなら、僕の背中の向こうで彼女はワンピースを脱ぎ、それをギュッと絞ってもう一度袖を通す。僕は彼女の見つめていた国道に目をやり、今ごろこの美しい彼女ではなく別の女性を抱いている兄のことを思った。
 ツン、と肘を突かれて振り向くと、絞ってシワシワになったワンピースを纏った彼女がそこに立っている。
「花火もってきたんだけど、する?」
 僕の言葉に彼女はキラキラと目を輝かせて、急かすように僕の手を引いた。
 両手に花火を持って、くるくると回る彼女の姿は、海に捧げる祈りのように見えた。彼女の願いが叶えばいいと思う。
「ねえ」
 そう声をかけると、両手を広げたそのままの姿で彼女はピタリと動きを止めて、問いかけるように首をかしげる。
「いつも、兄貴を待ってるの?」
 その質問の意味が分からないのか、少し考えるように彼女は眉をしかめて、それからフルフルと首を横に振った。そのあと、消えかかった花火の片方を僕のほうに向けて、それからもう一方を車の走る国道へと向ける。そして、ニッコリと無邪気な笑顔で僕を見た。
「なんだ。僕のこと待っててくれてるの?」
 彼女はこくこくと首を上下させて、いつのまにか消えてしまった自分の手の中の花火に気付くと、急に泣きそうなほど淋しげな顔をする。それからタタタッと僕の近くに駆け寄って、おねだりをするように僕の顔を見上げて服の裾を引っぱった。
 間近で見る彼女の濡れた髪は月光に照らされて妖艶な輝きを放ち、あどけない仕草とは裏腹にその瞳は全てを見通すような深遠な光をたたえていた。
 手の中のライターがぽとりと砂浜に落ちて、僕は彼女の頬を包み込むように首元に両手をそえる。ひんやりとした髪の感触と、温かく脈動する肌のぬくもり。彼女は不思議そうに少し首をかしげて、僕はその瞳に吸い込まれるように、少しだけ開いた彼女の唇に僕の唇を重ねた。
 そっと顔を離すと、彼女はやはりまだ不思議そうに僕を見つめていて、それからくすっと笑う。くすくすと笑いながら、花火も持たないまま泳ぐように滑らかに踊り出した彼女の体から、何かキラキラとしたものが夜の浜辺に飛び交い、その美しい何かは月の光に導かれるように空へと舞い上がっていく。
 ヒラヒラと舞い上がるその一片を、ホタルをつかまえるように優しく両手で包み込み、そっとのぞきこんだ。それは、虹色に光る透明な鱗のように見えた。その光を確かめるように両手を広げると、全てが幻だったかのように、もうそこには何も存在していなかった。
 僕は少しだけ目を離した隙に、鱗とおなじように彼女も消えているような気がして慌てて顔をあげると、あいかわらず彼女はそこに立って僕のことをじっと見つめている。ほっとした僕に彼女はニコリと笑いかけると、一つずつ発音を確かめるように口を形作り、三文字の僕の名前を口にした。
 初めて聞く彼女の声は、少しかすれていたけれど、人魚の歌のように美しく心地よかった。それから彼女は思い立ったように波打ち際へと駆けていき、そのまま海へと身を沈める。五つも数えないうちにザバッと水しぶきを上げて顔を出すと、驚いたような顔で苦しげに息をし、いつもと違う彼女を心配して服のまま海に入った僕の顔を見て突然ケラケラと笑い始めた。
 よく分からないまま彼女のそばまで近づくと、目尻を拭った彼女はこれ以上ないくらいの親しみを込めた笑顔で僕の胸に抱きついて、ひとこと
「しょっぱい」
そう言ってからまた「ふふっ」と可笑しそうに笑う。
 彼女の笑顔の前では全ての疑問が些細なことのように感じて、僕はギュッと彼女を抱きしめ、その唇にもう一度キスをした。
 国道を走る車のエンジン音と絶え間なく響き続ける波の音が、二つの世界をつなぐように僕らの周りを覆いつくした。

〈了〉

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