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Bad Things/17

恋だけじゃない。でも、恋に振り回されないわけがない。そんな恋愛短編オムニバス

【episodeハルヒ〈3〉成形】


『シェ・アオヤマ』への納品を終えて店に戻ったのは、十時をまわった頃だった。そのまま母屋の二階にある自室に戻り、服を着替えて化粧をなおす。

 聞き慣れた車のエンジン音がかすかに耳に入り、窓を開けてそっと外の様子をうかがった。

 店の前には『豆蔵』のワンボックスカーが停まっていて、ドアベルの音と、ナオ君の声が聞こえた。時計はちょうど十時半、今日の『豆蔵』はそれほど忙しくないようだ。

 会いたい。

 この胸にあるモヤモヤはきっとそういうことだ。いっそ誰でもいいから彼氏でも作って、そうすれば失恋の傷は癒えるだろうか。

 私のイケてない友人は夏のあいだに破局し、そして新しい彼氏ができていた。

「付き合おうって言われたから付き合ってみることにした」そんな風に言った友人の服は以前と違ってオーガニック系になっていた。

「ハッピーファームで彼氏と搾乳体験してきた」と彼女は思い出すように両手の指を順に握り込む。

 きっとイケてないのは私の方だ。

「ハルヒは理想固め過ぎなんだよ」と何度か言われた。

 理想云々というより、視線がナオ君以外に向かない。頭に刻まれた彼の笑顔と、蘇る唇の感触は私を囚えて離さない。

「一人暮らし、しよっかな」

 そうすればナオ君と顔を合わせることもない。『タキタベーカリー』は私がいなくても特に問題があるわけではないのだ。

 けれど、実際に一人で暮らすのは経済的に無理だった。どうしようもなくなったらアルバイトを他のところに変えてみよう、そう考えたら少しだけ気が楽になった。

 出かける前に何かお腹に入れておこうと階下へ降りると、店へのドアがガチャリと開いた。

「あ、階段の音がしたから降りてきたと思った」

 叔父さんはそう言いながら私と並んで台所に向かう。

「お店は?」

「ほぼ売り切れちゃってるし、店番はあいつに任せた。平井さんが戻ってきたらもうひと働きかな」

 昨日のシチュー温めるけどいる、と聞かれ「うん」とうなずいた。叔父さんの代わりに冷蔵庫から鍋を取り出し、火にかける。

「座ってていいよ。私やるから」

 叔父さんは椅子に座り、私の気を引くように「これ」と不器用に声をかけてきた。

 手にしているのは薄茶色の封筒で、その右下には『豆蔵』と見慣れたスタンプが押されている。

「ナオ君が、ハルヒちゃんに渡してって」

 そう、と口にしたきり動けないでいる私に「俺が開けようか?」と叔父さんが笑いかける。

 開ける気もないくせに、私をからかっているのか、なにか感じて気を遣っているのか。私は視線を逸らさないまま、木べらを持った手を動かした。

「たぶん、CDが入ってる。手触りがそんな感じだ」

「……いいよ、開けて」

 叔父さんは真顔になって私を見ると、「了解」と中身を滑らせるように取り出した。とてもあっさりとした動作だった。

 出てきたのはやはりCDで、四つ折りにされた紙切れがテーブルの上に落ちた。

「……おいおい」

 驚きの声をあげたのは叔父さんだ。私はその反応を見てテーブルに近づき、彼の手にしたCDに絶句した。

「ハルヒ、ガス止めて。焦げる」

「はいっ」

 バイトの時と同じ返事をし、コンロのつまみを回して火を止める。その作業で私はすべての肩の荷が下りた気分になり、叔父さんの向かいの椅子にストンと腰をおろした。

『Back To You』

 転がったままの紙片を指先でつまんだ叔父さんは、「ほら」と私に差し出した。部屋で一人のときに開ければよかったと後悔していた。

 叔父さんは立ち上がってガスコンロの火をつけ、木べらで鍋を混ぜる。その距離に叔父さんの気遣いを感じる。

 Back To You――そんなことを言ってもらえる関係は、私とナオ君のあいだにはない。

 そっと紙を広げると、そこにあるのは『豆蔵』の伝票で見たことのあるナオ君の字。

『CDの意味はタキタのおじさんに聞いて。ハルヒに会えないから「レスプリ・クニヲ」に誘えない』

 一番下に携帯電話の番号が書かれていた。

 まだ、信じられなかった。十九の私を、お酒も飲めない私を、ナオ君はフランス料理のお店に誘ってくれている。

 あのときどうしてキスしたのか、私のことを好きでいてくれるのか。今聞いたら、どんな返事をしてくれるだろう。

「CDの意味、叔父さんに聞いてって。でも叔母さんに聞いたよ」

 私の声は少し震えていた。

 立ち上がり、叔父さんと叔母さんと、平田さんの三人分のスープ皿を食器棚から取り出す。小ぶりのスープカップに温まったシチューを入れた。

 叔父さんの隣で立ったまま口をつけると「こら」と怒られる。私は椅子をくるりと回し、コンロの前に立ったままの叔父さんと向き合うように腰をおろした。

「俺が亜紀にやったCDは、元々ナオ君の親父から貰ったもんなんだ」

 え、と目を見開く私に「内緒な」と叔父さんは共犯者の笑みを浮かべる。

「あいつも話したんだろうけど、俺がこの店を先走って決めて、ちょっと喧嘩してたんだ。喧嘩っていうか、もう無理かなって思ってた」

 叔父さんはその頃を思い出しているのか、ひとつ溜息をついた。叔母さんの話していた感じとは少し違っていた。

「私、叔母さんは叔父さんのこと待ってたと思うよ。そんな話し方だった」

「ああ。あいつのほうが一枚も二枚も上なんだ。俺が泣きついてくるって分かってて放っておいたんだろうな。でもあいつが思うより俺はもっと、何ていうか駄目でさ。なかなか」

 叔父さんのこういう自信なさそうなところは嫌いじゃない。

 ダメだダメだと言いながら毎日ちゃんと働いているし、パン作りにはこだわりもある。そのこだわりを商売として成り立たせているのが口から生まれてきた叔母さんだ。

 二人はちゃんと役割分担ができていて、仕事ぶりはお互いを尊重していた。

 叔母さんも「あんな男」なんて言いながら、ときおり見ているこっちが恥ずかしくなるくらい少女のような目で叔父さんを見つめている。

 子どもがいないせいかもしれないけれど、二人のあいだにはまだ若い恋人のような雰囲気があった。

「『豆蔵』のマスターは、叔父さんが叔母さんと別れて泣きついてきたって言ってたよ」

 私がそう言うと、叔父さんは「ははっ」と可笑しそうに笑った。

「俺が泣きついた、かあ。まあそうとも言える。でも泣いてたのは直人も一緒だぞ」

 叔父さんはふと気付いたように「直人ってのはマスター」と言い足した。

「直人の奥さんが死んだんだ。ナオ君の母親」

「……え?」

「ナオ君はまだ幼稚園だったかなあ。交通事故でね。葬式では直人も気丈に振る舞ってたんだけど、どうも心配で店に顔見に行った。そうしたら準備中の札出したまま、カウンターで泣いてるんだよ。奥さんと店始めて一年くらいしか経ってなかったと思う。話しかけづらくて、隣に座ってたら、あいつがリモコン手に持ったまま何度も同じ曲かけてるんだ。それが、これ」

 せっかくだから、とリビングに向かう叔父さんの後をついて、手にスープカップを持ったまま立ち上がる。

 古びたCDラジカセから流れ出した音は、どこか懐かしい響きだった。郷愁と甘美を引き連れて、風のように心のなかを過ぎ去っていく。そんな感じの。

「直人の奥さんが好きだったんだって。たぶん奥さんの字なんだろうけど、日本語訳を書いた紙を見せてくれて、何ていうかな、こいつらにも色々あったんだろうなって思ったんだ。直人はどんな気持ちで聴いてたんだろうな」

 Back to you

 この世にいない相手の元にどうやって戻れるだろう。

 会いたくても会えない。声を聞きたくても聞けない。奥さんが好きだった音楽を聴いて、マスターはどこに戻ろうとしたのだろう。

 戻る必要はなかったのかもしれない。ふたりは同じ時を過ごしていたのだから。

「そんときに、直人が『亜紀さん元気か』って聞いてきたんだ。喧嘩中って言ったら『傷心の男に泣きついてくんな』って追い返された。そのときにCD押し付けられたんだ。戻る場所があるんだから戻れって。歌詞の書いてあった紙はあとで返したけどな」

 ソファに座っていた叔父さんはパンッと膝を叩いて立ち上がった。湿っぽい空気を吹っ切るような満面の笑みで、「だからな」と私の頭をなでる。

「そういうことだと思うぞ。いつのまにそんな関係になってたのか知らんけど、男はバカだから大目に見てやれ。ナオ君のほうが年上だっていっても、精神年齢じゃあどっちが上か分からんからな」

 ナオ君は、私の隣にいたいと思ってくれているのだろうか。

「まだまだ人生これからだし、ぶつかることもあるだろうけど、ぶつかってみないと分からないこともある。ハルヒが嫌なら放っておけばいいし、そうじゃないなら連絡してあげたらいい」

「……ナオ君、マスターからこのCD貰ったのかな」

 叔父さんは「どうかな」と笑った。

「分からないことは本人に聞いたらいいんじゃないか?」

 叔父さんはそう言い残して店に戻っていった。

 じきに三人が母屋にやってきて、昼食のあと午後の作業に入る。いつの間にか日常になったその光景は、私がここにいることを許してくれる。

 けれど、場所を与えられるのを待っているだけでは共に時を過ごすことはできない。

 コートをはおり、リュックを背負って店をのぞくと平田さんが帰ってきたところだった。

「今から大学?」と目を細めるゴマ塩頭の平田さんは、本当のお祖父さんのような気がしてくる。ここにいる間だけの私の家族。叔父さんと叔母さんと平田さん。

 ナオ君に、マスター。そしてナオ君のお母さん。ほんの少し触れた彼らの過去は、リップサービス過剰な豆蔵父子の普段の姿からは想像できなかった。

 私はもっとそこに近づきたい。『豆蔵』は私にとってすでに”戻りたい場所”だった。

「行ってきます!」

 張り切って声をかけると、作業場にいた三人は驚いて手を止めたあとクスクスと笑った。

 いってらっしゃいという三重奏を聞きながら、母屋の玄関を出る。大学方面のバスを待たず、私は白い息を吐きながら歩道を駆けた。

 驚くだろうか。それとも忙しくてそれどころじゃないだろうか。

 不安は胸の内にあり、「会いたい」という気持ちだけが私の足を前へと進める。

 もうすぐ、見えてくる。その景色は夏から秋を通り越して冬になっていた。

「こんにちは!」

「あれ? ハルヒちゃん久しぶり。いらっしゃい」

 マスターの声で振り向いたナオ君の目が、面白いくらい見開かれていた。


次回/【episodeリサ〈1〉コバルトブルー】



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