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Bad Things/5

恋だけじゃない。でも、恋に振り回されないわけがない。そんな恋愛短編オムニバス

【prologueヒナキ(2)】


 翌朝、スミ君からの電話で目が覚めた。

 時計はすでに九時をまわっていて、けれど七時半にセットしたはずのアラームを止めた記憶はなかった。しっかり寝たせいか、少しだけ頭がスッキリしている。

『こっち帰ってきたとこなんだけど、寝不足だから今日の夜は無理かもしれない。とりあえず店のやつには声かけてみるけど、俺はパスしとくよ』

 スミ君の声はどこか投げやりだった。勝手な思い込みなのかもしれないけれど、疑いを消し去ることができない。

「そっか。じゃあ私も行くのやめてスミ君ち行こうかな」

 試すように口にしながら、私は心の準備をしている。自分の言葉で踏み出した先に、彼の姿はないのかもしれない。

『うち? 俺ソッコーで寝るよ』

「……行かない方がいい?」

『いや、いいけど。ヒナキが飲み会行かないと高波が悲しむんじゃないの?』

「なに、それ?」

 思いもよらぬ彼の言葉に混乱し、溜め込んできた鬱憤が口をついて出た。

「スミ君は、いいんだ。悲しんだりしないんだ。別に私がいなくても。ケイスケのとこに行けばいいと思ってるんだ」

『ヒナキ、そういうことじゃ……』

 電話の向こうから溜息が聞こえた。ため息つきたいのはこっちなのに、うまく息を吐くこともできない。

『ごめん。ちょっと疲れててさ』

 ――法事とかって気疲れするからな。オツカレサマでした。

 昨日のケイスケの声が頭を過った。あの言葉をスミ君がかけてくれていたら、私はベッドに一人きりでも孤独ではなかったかもしれない。

 スミ君の素肌に触れたのはいつが最後だっただろう。同じベッドの上で、最初に彼の誘いを断ったのは私の方だった。

 ――ごめん。ちょっと今日疲れてるから。

 スミ君は「そっか、おつかれ」と私の頭をなでて目を閉じた。初めてメイン料理を担当させてもらえた日のことで、それは実力などではなく、そのときの客が私の知人だったというだけなのだけれど、それでも達成感と心地良い疲労感に包まれ、私は彼の隣で微睡む間もなく眠りについた。

 仕事のやりがいは徐々に増して、今思えばそれと反比例するように彼と交わることが減っていた。

「スミ君。誰か、……誰か好きな人、できた?」

『……え?』

 なに言ってんの、という言葉が聞こえてくるまでの間をとても長く感じた。私は「そっか」と、そのまま電話を切り、彼からの電話もかかってこなかった。

 疑念は思い込みに過ぎないのかもしれない。けれど、彼の隣に”誰か”がいてもいなくても、スミ君の心が以前より離れてしまったのは間違いないようだった。

 カーテンの隙間から差し込む光が、小さな諦めをもたらしてくれる。

 彼の心が先に離れたんだろうか。それとも、私だろうか。

 恋というよりもむしろ情に近いこの感情は心地よくもあるけれど、消え去った刺激を私は仕事に求め、彼は別の誰かに求めたのかもしれない。


 戸棚から有田焼の抹茶茶碗を取り出し、お湯を沸かして茶漉しで抹茶をふるった。茶碗にお湯を注ぎ、くるりと回して手鍋にもどす。布巾で水気を拭いた茶碗に抹茶を入れ、手鍋を揺すって湯温を下げ、注ぐ。

 ……シャッ、……シャッ、シャッ、シャッ、シャッ、……シャシャシャ……

 汚い感情が体から抜け落ちていく感覚があった。見よう見まねでもそこにはたしかに温もりがあり、香りがある。

 苦味をおいしいと思うようになったのは、いつ頃からだろう。胸のうちにあるぼんやりとした切なさは苦味に似ている。

 傷ついてからはっきりと意識する彼への恋慕なのか執着なのかも分からない気持ちに、やはり私も刺激を求めていたのだと思い知らされる。

 スミ君の隣で、彼と同じものを見ていたかった。けれど、彼が求めていたのはそういうことではなかったのかもしれない。

 あなたのことを見つめ続けていたら、心はまだここにありましたか。

 心の中で尋ねてみても、意味のないことだった。私は彼ばかりを見てはいられない。彼の隣にいるから、安心して羽ばたけると思っていた。そんな都合の良い解釈をして仕事にのめり込んでいた。切り拓く未来の中で、ずっと彼の隣にいられると思っていた。

「ばかだなぁ」

 最後の一滴まで飲み干すように抹茶茶碗とともに顎をあげる。すべて飲み下したはずの抹茶が、じわじわと茶溜まりに集まるのを見つめていた。

「スミ君、それでも好きだよ……」

 積み重ねた日々が簡単に消えるはずもなかった。それでも、もう心は決まっていた。スマホを取り出してメール画面を開く。

『スミ君のこと好きだけど、しばらく距離を置きたい』

 送信ボタンを押したときは、まだほんの少しだけ期待していた。

 ――ヒナキの勘違いだ。馬鹿なこと言うな。

 そんなメールが来ないかと、心の隅で思っていた。

『分かった。俺もゆっくり考えたいと思ってた』

 大丈夫だと思っていたのに、簡単に涙がこぼれ出す。後悔が広がり、返信して全部なかったことにしたかったけれど、もう何を綴っていいのかも分からない。

「……会いたいよ、スミ君」

 抱きしめて欲しかった。隣にいるから大丈夫だと、耳元で囁いてほしかった。

 もう一度彼にそう願うため、気持ちをリセットしないといけない。

 ティッシュで涙を拭いて窓をあけると、秋風が火照ったまぶたを心地よくなでた。マンションの裏にある運動公園からは、かすかに歓声が聞こえてくる。

 カーンと乾いた打撃音が秋晴れの空に響いた。

 大きく伸びをして深呼吸をする。ひやりとした空気が、胸につかえた苦味を少しだけ拭い去っていった。


次回/【episodeチカ〈1〉未練】


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