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Bad Things/9

【episodeアイリ〈1〉巣立ち】

 パッヘルベルのカノンが聞こえる。その音は次第に大きくなり、心地よさが苛立ちに変わる前にアラームを止めた。時刻は午前八時。

 ――あと十分。

 枕元にスマホを置いて布団を頭までかぶろうとしたとき、部屋の外からガタリと物音がした。まともに働かない頭で音の正体を考える。ふと思いついてベッドの上に跳ね起きた。

「お兄ちゃん?!」

 慌てて部屋のドアを開けると、以前より少し色白になった兄の顔があった。

 色白とはいっても普通の人よりは黒い。昔の、私が一番好きだった頃の兄が、ちょっと日焼けし過ぎただけだ。

「おはよ、アイリ。久しぶり……ってほどでもないか」

「全然帰ってこないから死んでるよねって、ママが言ってた」

「バーカ。便りのないのはいい便りって言葉、知らないのか」

「言ったのはママ。私はこの前お兄ちゃんのマンション行ったから。ちゃんと生きてるって知ってたよ」

「ならそう言ってやれよ」

 濡れた髪をタオルで拭きながら、兄は穏やかな笑みを浮かべる。その笑顔はなんだかいつもと違っていた。

 あいまいに会話を切り上げて階段を下りようとする兄を追い、私は部屋のドアを閉める。兄は足を止めて待っていた。

 ……トン、……トン、……トン。
 ……ツッ、トン、……ツッ、トン。

 兄の規則的な足音のあとに、私の足音が独特のリズムでつづく。

 左足首の関節が思うように動かないのは小学校にあがる前からのことで、交通事故の後遺症らしいけれど、私自身はその時のことを覚えていない。

「お兄ちゃん海行ってたの? ……っていうか、いつ帰ってきたの」

 兄のマンションは車で一時間半くらいのところにある。その近くの小さなフレンチ・レストランでシェフをしていた。県外からもお客さんがひっきりなしに来るような、ちょっとばかり有名なお店らしい。

 調理師学校に通っていた頃、兄はその店でアルバイトをしていた。兄が家を出て学校に通っている二年間、私はずいぶん寂しい思いをし、就職でこっちに帰ってきたときには涙を流して出迎えた。ブラコンだという自覚はある。

 兄は実家近くのホテルで働いていたのだが、三年ほど前に今の店から声をかけられた。そして再び家を出ていってしまったけれど、見送るとき私が泣かなかったのは、それまでの数年間で私の生活と性格が少し変わったからだ。

 実家からホテルに勤めていた頃、兄は同僚に連れられて朝早く海に行くようになった。ほんの数回だけれど、私も海について行ったことがある。今はどうか分からないけれど、兄は波に乗るのがそこそこ上手かった。

 私は海に入ろうとは思わなかったけれど、波と戯れる人たちをながめるのが好きで、ぼんやりと砂浜に座っていた。

 今はすっかり朝が苦手になってしまい、眺めるのはせいぜい海に沈みゆく夕日くらいだ。それでも波音は私を過去へと誘い、その記憶が今を支えている。

 兄と過ごした朝の海は、灰色だったそれまでの学校生活をライトグレーくらいには引き上げてくれた。私の視界をクリアな空色にしてくれたのは兄ではない。海で出会った、当時高校二年だった私のクラスメイトだ。

 彼の名前はアキラといった。地元でも人気のサーフスポットである東浜の近くに、アキラは住んでいた。今も、変わらずそこに住んでいる。

 もしかしたら、今朝アキラも海に行っただろうか。

「お兄ちゃん、アキラ、いた?」

「ああ、アキラも来てたぞ。アイリ、昨日あいつと会ったんだろ?」

「うん。ご飯食べて別れたの十二時前だったのに、元気だね、あいつ。お兄ちゃんも寝てないでしょ」

「まあね。仕事終わって家着いたの十二時過ぎてた。ちょっと寝て、四時出発」

「無理して溺れ死んだりしないでよ。お兄ちゃんもアキラも、見てるだけの人間がどんな気持ちか分かってないんだから」

「アキラに言えよ。無性に海入りたくなって久々に行ってみたけど、俺はダメダメだった。まぁ、ちょっとはスッキリしたけど」

 やはり兄は少し変だった。何というか、泣いてしまいそうに見えた。

 理由を尋ねていいものかどうか悩んでいると、「あ!」と何か思い出したように兄が短く声を発した。リビングの扉を開けてテーブルに駆け寄り、そっと何かを指先でつまむ。それを私に掲げて見せた。

「これこれ。アイリがうちに落としていったピアス」

「あっ! 良かったぁ。なくしたと思ってマジ落ち込んでたんだ」

 フェイクパールと数種類の天然石をあしらったピアス。私がカルチャースクールで作ったもので、もう五年くらい愛用している。

 短大の時に友人の付き合いでついて行っただけのそのスクールが、今では教える側となり、生活費を稼ぐ糧となっている。

 自作のアクセサリーをネットで販売し、いくつかの雑貨屋さんに置いてもらい、月に数回カルチャースクールで講師をする。それだけで十分な収入を得られるわけではなく、知人の紹介で週四回簡単な事務のアルバイトをしている。

 こんな生活を送ることが出来るのも実家住まいだからだ。もう少し単価の高い商品を売るなりして稼がないと、とは思うものの、それを買ってくれる年齢層を考えると、途端に自信がなくなってしまう。ネットではコーディネイトしやすくて可愛いプチプラアクセと謳っているから、それとの兼ね合いもあった。

「初心忘るべからず、だな」

 手にしたピアスの意味を知っている兄は、そう言って私の手のひらにのせた。

 初心。自分が可愛いと思うもの、自分が身につけたいと思うデザイン。

「ありがと、お兄ちゃん。ちょっと忘れかけてた。日常になっちゃうと大事なことってつい忘れるよね」

 そうだな、と兄が返事をするまでに少し間があった。

「俺、ちょっと昼まで寝るわ」

 兄は飲みかけのアクエリアスを冷蔵庫から取り出し、その扉を閉める直前、もう一度中をのぞき込んだ。兄が取り出したのは、小さな缶。

「こんなの、誰か飲むの?」

「それ、幸子叔母さんのお土産。京都だって。八つ橋はすぐなくなったんだけど、うちじゃ抹茶なんて持て余しちゃうよね。結構いいやつらしいんだけど」

 茶筅とセットになった宇治抹茶は、封も開けられていないのに冷蔵庫に入れられていた。

「お兄ちゃん、彼女が抹茶飲むって言ってなかった? ヒナキさんだっけ。会ってみたいなあ。それ、持って帰ってあげたら喜ぶんじゃない?」

 うん、という返事のあいまいな響きに、女の勘が働いた。

 今まで彼氏が一人もいなかったとはいえ、私ももう二十五歳だ。好きな人がいないわけじゃないし、その人が誰を好きなのか分かるくらいには女の勘が働いてしまう。そんな勘なんて働かないほうが当たって砕けられるのに、と一歩踏み出せない自分に言い訳をしている。

 自分で商売をはじめ、多少なりとも積極性が身についてきたと思うけれど、恋愛に関しては小さい頃と同じく臆病なまま。片思い歴はすでに七年以上にもなっていた。

 その片想い相手の恋愛相談を受けながら、恋人同士でも色々あるのだと知り、彼が独り身になっても現状維持しかできなかった。そんな私が兄の相談にのれるとも思わないけれど、聞かずにはいられない。

「お兄ちゃん、彼女と何かあった?」

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