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掌編/片思い病
片思い病
片想い病。わたしたちはヒメのことをそう言っていた。
竹を割ったような性格のヒメは、気になる相手ができると躊躇わず距離を縮めた。友情なのか愛情なのか曖昧で、そのさじ加減が絶妙だったように思う。
まわりがからかうほどに一人の男と距離が近づいても、ヒメは「そういうんじゃないし」と躱し、そんな彼女が相手に「好き」と打ち明けるのは決まって相手に別の女が現れたあとだった。
「失恋しちゃった」
泣き腫らした目を化粧でごまかしたヒメを、わたしたちは飲みに誘って慰めた。最初のうちはヒメのことを不器用な女だと可哀そうに思っていたわたしたちも、同じことが一年に三度も繰り返されると呆れるばかりだった。失恋を求めるように告白する彼女のことをわたしたちは理解できず、それでも「元気出して」と飲みに連れ出す。飲むための口実になっていた。
タチが悪いのは、相手がヒメに好意を抱いたときだった。何度か二人で出かけ、多少のスキンシップもあり、けれどヒメは頑なに「友達」の距離を保った。それはあくまでヒメがそう思っていたというだけで、腕だろうが頬だろうが、肌と肌が触れあえば男たちがそこに特別な感情を見出しても不思議ではない。わたしたちにヒメの気持ちを聞いてくる男もいたが、彼女の片思い病を知っているわたしたちには「まあ」とか「そうねえ」とか適当な言葉を返すくらいしかできなかった。
ヒメはいざ男があからさまな好意を示しはじめると、途端に手のひらを返したように「好きな人ができた」とその相手に恋愛相談をもちかけた。その拒絶を押して言い寄る男もいたけれど、そのすべてが玉砕し、けれどそれは少数で、何もなかったように友人関係をつづける男がほとんどだった。
ひらりひらりと男に近づき、誰とも愛を育むことなく、二十代のあいだヒメは片想いと失恋をネタに女子会を盛り上げていた。三十路を迎え、飲み会の話題が恋バナから夫の愚痴と育児、ママ友の悩み相談に変わり、ヒメはそんな集まりのなかで何人かの独身者とともに「大変そうね」と相づちをうち、ネタを供給する必要がなければ恋愛など意味がないというように、片想い病はぱったりと影を潜めた。
喫茶店の窓際の席で、わたしの向かいに座るヒメはぼんやりと道行く人をながめている。顔も知らぬ待ち人の姿を思い描いているのか、それともまったく関係ないことを考えているのかわたしには分からない。
運ばれてきたアイスコーヒーにヒメはシロップを入れ、カラカラと音をさせてかき混ぜる。小さな吐息が聞こえた。
「Mはさあ、夏でも冬でもアイスコーヒー飲んでたのよね」とぽつりと呟いた。
もう何年も前の話になるが、Mはヒメの片思い病の被害者だった。それまでの相手と比べてもずいぶん気が合っていたようで、わたしたちもMならば片思い病を卒業できるのではないかと噂していた。けれど、ヒメはそれまでの男と同じくMを傷つけた。Mの落ち込みようは相当なもので、わたしたちのうちの一人が溜まりかねてヒメを問い詰めた。
「Mをもてあそぶようなことして、悪いと思わないの?」
ヒメ以外は気づいていたことだが、そう言った彼女はMのことが好きだった。女子会での意外な展開に、ヒメは狼狽していた。
「悪いのは私だってわかってる。でも無理。私じゃ無理なの」
「Mはヒメが好きだって言ってるのに」
ヒメは一年近くMに想いを寄せていた。アピールするのは恥ずかしいといいながらも少しずつ距離を縮め、何度か一緒に出かけ、蛍狩りに行った夜には人目を忍んで抱き合ったと、女子会でわたしたちに報告していた。このまま何の言葉もなくとも恋人同士になれるのだと、ヒメはその恋に身を任せるつもりでいたし、わたしたちもそれにホッと胸をなでおろしていた矢先のことだった。
「私も好きだった。でも駄目だった」
自分でも自分が嫌になった、とヒメは言った。こんなふうに気持ちが百八十度裏返るとは思いもしなかった、と。
ヒメの話によると、十人ほどの飲み会でMは「俺の女」とばかりにヒメをお姫様抱っこしてみせたらしい。まわりの人間たちもずいぶん酔っ払い、Mもそれなりに酔っていたようだった。
「それで、急に嫌になったの。このままなし崩しにMの女になることが、急に。自分でも理由が分からない。私が駄目なんだと思う」
ヒメはMに黙ってこっそりと飲み会を抜け出し、そのとき家まで送ってくれた男がいたらしい。「ヒメはひどい女だ」と言いながら家にあがろうとしたその男を追い返し、Mともその男ともそれきりのようだった。
思い返せば、Mがヒメの片思い病の最後の被害者だったかもしれない。
四十歳を目前にして、婚活をしている知人から誰か紹介してくれないかと頼まれたとき最初に浮かんだのがヒメだった。ここ数年みんなで集まってもヒメはぱったり男の話をしなくなり、このまま独り身でいるつもりなのかとも思っていたが、「会ってみない?」と問うと「この年齢だから子どもは期待しないでほしいし、家事が嫌いな女でいいって言うなら会ってみる」と返ってきた。わたしはそれを知人に伝え、それでもいいという返答をヒメに伝えて二人が会う算段をつけた。
「女の役割を押し付けられるのは嫌だって思ってたけど、やっぱり寂しいのよね」
年とったからかな、とヒメは自嘲の笑みをわたしに向けた。アイスコーヒーをひと口啜り、ストローでカラカラと音をさせる。Mのことを引きずっているのかもしれない。
「今回は片思い病は勘弁してね」とわたしが言うと、ヒメは不安げに眉を寄せ、歪な笑みを浮かべた。
「好きになられるのが怖い。返せないから。
母親のことを思い出すの。父にかいがいしく尽くして、死ぬまで良き妻良き母であろうとしたのに、その母が本当に幸せだったのかっていつも考える。母が病気になっても父は私に任せっきりでほとんど病院にも行かなかった。やつれた母の顔を見ていられないからって。母がいなくなるのが怖いくせに、父は不機嫌にあたりちらすことでそれをごまかしてた。母はそれを仕方ないって許すの。
私には母みたいにできない。そうできない自分が駄目人間に思える」
駄目人間じゃないよと私が言うと、ヒメは「わかってる」と、どこか諦めたような顔をした。
「わかってるけど、自分が信じられない。また唐突に相手のことが嫌になって逃げだすんじゃないかって。
ねえ、子どもは産めないし家事も嫌いな女に会おうと思う男の心理って何?」
「寂しいんだと思うよ。看取ってほしいんじゃない?」と返すとヒメは納得したようにうなずいていた。紹介する相手はヒメよりも十歳年上で、唯一の家族である母親を昨年亡くしている。そのことはすでにヒメにも伝えてあった。
「じゃあ、私は誰に看取ってもらえばいいのかな?」
ヒメはそう言ったが、顔は先ほどまでよりも少しやわらいだように見えた。わたしたちのなかにはすでに夫を亡くした人もいれば、不妊治療を諦めた者もいる。それぞれがそれぞれに未来の孤独を予期しながら、そうならない未来と、必ず訪れる死を遠くに感じて今を積み重ねている。
カランとドアベルが鳴り、入り口のところで男がこちらに向かって手をあげた。「来た」とわたしが言うと、ヒメが緊張した面持ちで両手を膝のうえに揃える。男はわたしたちのテーブルまで来ると、近くにいた店員に声をかけた。
「すいません、ホットで」
ヒメの顔が、すこし緩んだように見えた。
――end
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