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短編小説『うたたねと茜空』全文無料


うたたねと茜空

 茜がその日に見たのは、ふつうの青い青い空だった。

 雨など降りそうになく、そのことが少し憂鬱で、すべて放ったらかして飲みに出かけようかと考えたりもしていた。

 開け放った縁側から暑くも寒くもない穏やかな風にのせて、品のない笑い声が裏の家から聞こえてくる。ここらあたりに住む人たちは良くいえば豪快、悪くいえば野蛮という言葉が似つかわしく、喧嘩しているようなやりとりは明日の祭りの打ち合わせのようだった。

 獅子がどうやら猩々がなんちゃらと、盗み聞きするつもりもないのに家一軒飛び越えて耳にとどく。ああ、茜ちゃんがなあ。そう云った濁声は坂の一番下に住む黒田の爺さんのものだ。

 茜ちゃんなあ。さあさあ。この春から戻ってきとるだけど、仕事もしとらんみたいだし。引きこもりっちゅうわけじゃあないみたいだけど、なんだあワシらぁとは顔あわせんようにこっそり出かけたりしとるみたいで。結婚するだか言いよったが、ありゃあどうなったんだかなあ。駄目になったんだろうか。

 ああ面倒だと茜は耳を塞ぐことすらせず、崩れおちるように体を倒してごろりと座布団に頭をあずけた。朝からずっと縁に干されていた座布団は、ふかふかと心地よい太陽の匂いをまとっている。

 庭をはさんで向かいある農機具小屋の、数十センチほど開いたシャッターの下からのそりと一匹のノラ猫が姿を見せた。ちらりと茜を一瞥したそのノラは、一度洗えば少しはきれいになるだろう。煤けた色を気にするでもなく、小屋の脇に投げおかれていた金盥のなかで、そこは己の場所だと言わんばかりに寛いで毛づくろいをはじめた。
 ああ、猫になりたい。

 

 茜がまだ小学校のころ、彼女の家では犬を飼っていた。同級生が仔犬のもらい手を探していたとき、
「散歩もさせるし、エサもちゃんとあげるから」
と定番の口説き文句を口にして、その後あっさりと一匹の仔犬が茜の家に来ることになった。

 散歩はほとんど父親の役割で、エサは母親が担当した。茜はたまに父親について散歩に行き、リードを手にするとやたらめったら引きずり回されるものだから、結局父親にすべてをあずけ、ただ犬と同じように駆け回っていた。

 裏庭にあった犬小屋に、毎朝毎晩エサを運びつづけた母親は、その犬が死んだときエプロンの裾で涙をぬぐった。茜がおぼえている母親の涙というのは、その時と祖父が死んだときくらいだ。

 祖父が死ぬすこしまえから二代目の犬が家にいて、茜は大学生になり一人暮らしをしていた。葬式で帰省すると裏庭からきゃんきゃんと威嚇するような鳴き声が聞こえ、
「お前は部外者だ」
そう言われているように感じた茜は、その二代目をなでることすらできず、そもそも犬が好きだったのかさえよく分からなくなった。そして、自分には何か欠けていると思う。

 病床にあった祖父をほとんど見舞うことなく、勉学とはなんぞやと問いたくなるほどの怠惰で享楽的な学生生活を送っていた彼女は、では祖父の死をきっかけに何かが変わったかといえばそんなことはない。

 それでも人並みに論文を仕上げ、生活していけるだけの報酬を得られる会社に就職した。いつのまにやらその生活から怠惰な時間が消え去り、それとともに心のどこかがすり減っていくのを自覚しつつも、茜は努めてそれを直視しないようにしていた。

 壊れるのは唐突だ。ある日、涙が止まらなくなった。

 朝起きて身支度をととのえ、いざ玄関のドアを開けようとしたところでまず目眩がした。そのあと吐き気がしてトイレに駆け込み、えずいても出てくるのは胃液ばかりで、涙と涎と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、茜は「ははっ」と笑い声をもらした自分に絶望を感じた。

 朝食を摂らなくなったのはずいぶん前だ。昨日の夜は何か口にしただろうかと考え、まっ先に焼酎と竹輪が思い浮かんで情けなくなった。

 キーンという耳鳴りが続いている。便座にもたれかかるようにして体を支え、肩で息をしながら会社に電話をかけた。
 誰も出ない。

 スマホで時刻を確認して同僚の番号にかけなおし、「ゆっくり休んで」と言われて電話を切った途端に吐き気がおさまり、ガンガンと疼いていた頭がすこし楽になった。

 昼まえにはすっかり回復し、けれど翌朝にはまったく同じ症状で会社を休み、三日目にはなんとか家を出たけれど通勤中に目眩で立てなくなり、結局会社に行くことはできなかった。

 そのまま会社をやめた茜に、なぜか彼氏ができた。それは「ゆっくり休んで」と電話口で言っていた同僚で、彼は何かと茜を気遣って連絡をよこし、いつのまにか茜のマンションに出入りするようになっていた。

 お互いの家を行き来して、時間だけはいくらでもある茜が夕飯の準備をし、彼を待った。新婚生活じみたオママゴトは最初の頃こそ楽しかったけれど、すこし気持ちが上向いてきた茜が「仕事探してみようかな」とつぶやいたのが転機だった。

 仕事? 外で働くのは君には向いてないよ。僕がちゃんと稼いでくるから一緒に暮らそう。一日働いて家のドアを開けたら夕飯の匂いがする。そこには君が必要なんだ。今度、両親に会ってもらいたい。君の家族にも紹介してもらえる? うちは田舎だし、僕は長男だからいつかは家に戻ることになる。でも仕事のこともあるし、すぐすぐ同居なんてことにはならないから、生活は今まで通り変わらないよ。僕が働いて、君が家のことをする。とりあえず僕のマンションに一緒に住んで、少しずつ準備していこう。

 言われるがままに自分のマンションを解約して彼と二人の生活をはじめた茜が、その胸のうちにぐるぐると渦巻く違和感に目を向けたのはそう先のことではなかった。

「やっぱり時間をもてあましちゃうし、パートでもしてみようかな」

 彼の顔色をうかがうように口にした茜に穏やかな声とともに鋭い視線が返ってきて、そのとき彼女のなかに芽生えた恐怖は日ごとに大きくなっていった。

 彼の家にあいさつに行って、赤ら顔の義父(になるはずだった人)がもらした言葉に、茜は昔トイレでえずきながら感じた、あの絶望を思い出した。

 孫の顔が早く見たいなぁ。隣の◯◯さんの息子も家を出てたけど、子どもができて最近こっちに帰ってきたんだ。赤ん坊の泣き声がよく聞こえてくる。それがまあ羨ましいような気もして。今すぐ一緒に暮らそうとは言わんけど、茜ちゃんも考えといて。子育ては人手があったほうが楽だろうし。なあ、母さん。

 ゆらゆらと目眩がし、吐き気を我慢しながらガンガンと疼くこめかみをさりげなく指の腹でもみほぐした。

 酒の力を借りて恐怖を心の端に追いやり、へらへらと畳に寝っころがって寛ぐ未来の夫(になる予定だった人)に殺意をおぼえ、茜はそんな自分をやはり欠陥品だと思う。

 踏みつけてやろうかと考えながら、もちろんそんなことをするはずもなく、席を立ってトイレでひそかに嘔吐して戻った茜に、彼は「目が赤いよ。感動して泣いちゃった?」と愉しげに笑いながらその頭をなでた。

 彼とその両親の団欒するさまがあまりにも滑稽で、茜はただひたすら愛想笑いを浮かべていたけれど、彼女が二人で暮らしていたマンションを出て実家に戻ったのはそのすぐ後のことだ。

 

 にゃあお、と猫の鳴き声がきこえた。

 うっすらと目を開けると、羽音をたてて飛び去る二羽の小鳥が目にはいった。雀だろうか。

 茜はゆっくりと身を起こし、うん、と体をそらして伸びをする。開け放した縁側からは薄闇をまといはじめた木々の影と、そのうえには茜に染まった空が見えた。

 あぁ。あぁ。

 茜にはカラスの鳴き声がそんなふうに聞こえる。

 あぁ、あぁ、そろそろ帰らないと。

 ふと金盥に目を向けると、そこは空っぽだった。茜は、あの猫には帰る場所があったのだろうかと考え、きっと立ち止まった場所がそうなのだと、妙に納得した気分になった。

 かさりと軽い音がし、庭の端に植えられた金柑の木の下であの猫がふさりと尻尾をふっていた。身をよじるようにこちらを振り返り、さながら見返り美人のような仕草に見えなくもないけれど、毛はごわごわと硬そうだ。よく見ると白と茶のまだら模様で、片方の耳が歪に欠けていた。茜には、それが勲章のように思えた。

 にゃあ。

 茜がなくとタタッと駆けだし、石垣を飛びおりて姿を消した。鳴き声だけが二度、どこかから聞こえたけれど、それがあのノラのものなのかどうかは茜には分からなかった。

 金柑の木の傍らで、犬小屋の残骸が朽ちていた。

〈了〉

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