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2022.06.09/賽の河原

知人の展示を観に湯河原へ向かった。物心ついてから湯河原へ初めて行ったのは、数年前に兄が仕事で作業中に、高いところから川へ落ちて湯河原の病院へ入院したときだった。お見舞いがてら遊びに行ったことも数回あるが、なぜかうまく遊べず楽しめなかった。それからずっと足が遠のいていた。

そのときの兄は幸い命に別状はなく、両足首の骨の複雑骨折で済んだ。相当痛かっただろうし、打ち所が悪ければ死んでいたし、しばらく歩けなくて大変だったとは思うけど、今日にいたる結果を思えばどうってことなかった。

間が悪いことに、湯河原で兄が運ばれた日、両親は和歌山へ旅行に出かけていた。母は紀三井寺のとてつもなく長い階段を降りていたときに、その知らせを電話で聞いたらしい。私は和歌山にいる母から兄が入院した経緯を聞き、「今から車を飛ばして帰るから病院で落ち合おう。先に向かってて」と言われ、慣れない土地の初めて行く病院にたどりけるか緊張しながら、電車とバスを乗り継いで向かった。

正直に言うと、兄になんと声をかけていいのか分からなかった。当時、ずっとフリーターでいた兄を見かねた叔父は、測量会社の社長と知り合いだったので、その「紹介」で兄は働き始めていた。このころ、母は兄のことを「出勤するとき顔が暗い」と言っていた。紹介とは厄介である。簡単な理由では辞めるに辞められない。

ここからは完全な偏見と想像だけど、たぶん社風がめちゃくちゃ古風で兄には向かなかったと思う。古風な人間の中でも、特に男性は兄のような人種に強く当たる節がある。古風な人間は異性と家族と酒と博打の話が好きで、それらに無縁な若者を下に見る傾向がある。そのどれにもかすりもしない、コミュニケーション能力の乏しい兄が、どうやったらそんなところで生き抜けるんだろうか。

だから兄が川へ落ちて入院したと聞いた時、「仕事が嫌すぎたんだろうな」と漠然と思った。「もしかしてわざとかな?」とも思った。

私と兄の最も似ているところが「他人に嫌なことを嫌と言えず、誰にも漏らさず耐えて、自分を粗末に扱う」という点だからだ。自分の見せたくない部分を他人に見せるくらいなら、迷わず消えることを選ぶ。プライドが高く他人に甘えられない。かといって自分に厳しいこともない。今思えば「そんなもんくだらない」と一蹴できるが、渦中にいるとそのくだらなさを打破するのは難しい。

5月、兄の命が終わる頃、「あの時、すでに高血圧でフラッと来たから川へ落ちたんじゃないか」という話になった。おそらくそうだったんだと思う。高血圧がわかったのも、このとき入院したからだった。きっと警告だったのだ。なんとわかりやすい知らせ方をしてくれていたんだろう。

こうやって、湯河原の川を見ればいつだって思い出してしまうんだろう。

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