見出し画像

2022.05.24/若葉、曙、産声、大地

葬儀が終わった。やはり母がいちばん泣いていた。父も弔辞を読む時に嗚咽していた。息子の葬式の喪主を務める瞬間とは、どういう絶望なのだろう。息子の冷たくなった顔に触れるときは。息子が乗った霊柩車に同乗するときは。息子の身体が焼かれるのを見送るときは。息子の骨を箸で骨壷に入れるときは。私にはわかることができない。ただ私が抱えるものより遥かに大きく、底が深い穴であることは想像できる。

お通夜の前に、兄の職場の方々がお線香をあげに来てくれた。兄に心配のLINEメッセージを入れてくれていた女性にも直接お礼を言うことができた。彼らも泣いていた。兄の身体を前に泣いてくれる人を見て、少し救われる。

これが病死だからまだマシだと思う。事故や事件など、誰かが原因で死んでいたら、相手を恨んでしまうと思う。

母と「早くに死んだもん勝ちだ」という話になった。本当にその通りだ。よく長生きした老人が「まわりはみんな死んじゃって、自分だけが生き残って、人生がつまらない」と言う。その頃には今よりもっと時代についていけない自分がいるんだろう。視力は落ち、身体も思うように動かなくなっていく。若くして死ねばこうやってみんなに悲しんでもらえる。うらやましさがまったくないと言えば嘘になる。

火葬場で兄の身体が骨になるのを待っている間、今やコロナの影響で精進落としを食べるわけでもなく、親族はみな黙っていて空気が重く、辟易していた。当たり前ではあるが。両親と私らのほうが喋ったり時折笑ったりしていた。ボーッとしているのも飽きた頃に、目の前にいる母からLINEで「ちょっと外の空気を吸いにいかない?」とメッセージが入る。ありがたい誘いに視線を合わせて、親族用待合室から抜け出した。

外は気持ちよく晴れていて、風が強かった。やはり兄にまつわる何かがある日は晴れている。火葬場の玄関先で新緑の空気を噛み締めていると、目線の先の共同墓地に、お地蔵さんがそびえ立っているのが見えたので、母を誘い、お地蔵さんに会いに行きがてら墓地を散歩した。おそらく市の霊園だが、さまざまな宗教のお墓が立っていて興味深い。

お地蔵さんに会うのに四苦八苦しながら辿り着くと、小さいサッカーボールやおもちゃがいくつか供えられていた。そうか、地蔵は子どもを守る存在だからか。おもちゃはみな朽ち始めていて、年数を感じさせた。

帰路の途中、山の方に目を向けると戦争で亡くなった陸軍少尉の供養塔が見えた。行ってみたかったが道は閉ざされていて、どうやって行くのか分からなかった。まさか行けない仕様になっているとは思いたくないが、道は見つけられなかった。

そんなふしぎな散歩を終えて、火葬場を一通り探検してから待合室に帰った。相変わらず空気は重かった。なぜこんなに重く感じるのかと思い返せば、ほぼ同じメンバーで行った祖父母の葬儀とは、全く違う種類の悲しみが充満していたからだ。ああ、若くして死ぬってこういうことか。周りを悲しませないためには、長生きも悪くないかもしれない。自分は取り残されて辛いけど。

収骨室で骨になった兄を見て、そしてもちろん箸で骨も拾ったけど、目の前の頭蓋骨が兄だとはまったく結び付かなかったし、今も理解はできていない。

また老いてから亡くなっている祖父母たちと違い、骨が大きく、太かったため、骨壷に全て収めることができなかった。骨壷を一回り大きくするという手もあるが、そうすると今度は墓に入らなくなるのだという。火葬場の人は、入らない骨を処分(供養)するか、砕いて全て入れるか、どちらがいいかと聞いてきたが、さすがに骨を砕くのはあんまり心情としてよくないので、前者になった。

骨壷の兄は重かった。

当初は納骨を葬儀の一番最後に行う予定だったが、墓の形状の問題で石材屋さんと話し合わなければならず、四十九日に納骨することになった。兄が約一ヶ月ぶりに家に帰ってきた。「帰りたかったのかもよ」という話になった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?