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だいじなだいじな受援力

今朝のモーニングショーで「受援力」という言葉を知った。「助けて」と言える力のことだそうだ。これは心の健康のためにすごくだいじだと思う。僕はこの受援力にはかなり自信がある笑

昔から受援力があったとは思わない。多くの子どもがそうだと思うけど、「人に迷惑をかけてはいけない」と、教育、刷り込みされるから、僕も素直にそう思っていた。自分でも、人に助けを求めるなんてカッコ悪いとも思っていた。

高校に入って、腹を割って悩みを相談しあえる友達と出会えて、少しずつ自分の性質が変わっていったと思う。

精神的に追い詰められるような修羅場も何度かあって、祖母を頼ったり、叔父を頼ったり、大叔父を頼ったり、進路室の先生を頼ったり、保健室の先生を頼ったり、一周まわって両親を頼ったりしながら、18歳になって東京へ出た。僕はこの人たちへの感謝を忘れない。

察してもらったとかは無くて、いつも自分から打ち明けに行った。引かれるかもしれない深刻な悩みを勇気を持って打ち明けた。その度に一生懸命受け止めてもらえて、僕は人に「助けて」と言えるようになったと思う。

大学生になってしばらくして、僕はルームシェアを始めた。男7人暮らし。このルームメイトのひとりにも、たくさん話を聞いてもらった。最初は「こんなに時間をとらせて申し訳ない」「楽しい話だけしていたいだろうに申し訳ない」などという気持ちもありながらだったけど、相手も頼られて満更でもない感じを少し悟ってからは、なんというか、あんまり遠慮せずに頼るようになった笑 この男とは今でもふと連絡を取るし、一生友達だと思う。

社会人になるときは意図的に、かなり自分を奮い立たせた。「いよいよ社会人だ。社会的にも経済的にも精神的にも自立する。責任もあるが自由もある。楽しみだ」みたいな感じで。今考えるとこれをやりすぎたのは良くなかったなと思う。

人生で一番つらかったかもしれない、強迫性障害が発症していく日々を、誰にも頼ることができずに何年も過ごした。同じく社会人なりたてで忙しい旧友にも時間取らせられないと思っていたし、会社には弱いところ見せられないと思っていた。更に悪いことに、会社員になると、「会社員は人に迷惑をかけるべきではない」という周りの規範意識も、大学時代のそれよりずっとずっと強いと感じ、なおさら追い詰められていった。

転機はやっぱり人に頼ったことだった。自分の部屋でひとり、本当に限界を迎えた僕は、高校時代の友達にアポ無しで電話した。友達は僕の弱り切った声に驚いていた。忙しく働いていて、結婚もしている友達だったけど、親身に話を聞いてもらえて本当に救われた。彼には先日0歳のお子さんを抱かせてもらった。本当に大きな、しみじみとした幸せを感じた。

切実に助けを求めて、助けてくれた人との間には、いつもかけがえのない関係性が築かれる。ひとつ、僭越ながら思うのは、この関係性は、助けられた僕にとってだけでなく、助けてくれた人にとってもかけがえのないものなんじゃないかな。極端な話、人助けだと思って人を頼ってもいいんじゃないでしょうか笑

自分が助けを求めるのを許せない人は、大概、他人が助けを求めるのも許せないから、厳しく当たってしまう。自己責任論だとか、あいつの努力が足りないだとか、思ってしまう。ってことは、自分が助けを求めるのを許すことは、まわりまわって人助けになるんじゃないかと思うんです。

人に迷惑をかけるのって、そんなに悪いことでしょうか。お互いに迷惑をかけあって、許し合って、助け合う。そんな世界観の方が、人類は幸せになれるんじゃないでしょうか。

僕に受援力がなかったら、そして頼れる人がいなかったら、とっくに潰れていたと思う。自殺してたか、廃人になってたか、死刑を狙って殺人事件を起こしていたかは分からないけど、そうならないためにも、受援力は本当に大事だ。

「人様のお世話になるなんて」と生活保護を拒む人がいる。でも経済学的には、生活保護を受けてまともな生活、消費をした方が、経済効果はあって他の人も豊かになるんです。精神的な支援についても、似たようなことが言えるんじゃないかな。

もっと人を頼って、いいと思います^ ^

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