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装いの力-異性装の日本史-に行ってきたよ

楽しみにしていた展示に行ってきたのでさらっと感想を。松濤美術館で10/30までです。

1章 日本のいにしえの異性装

まずは古事記から、小碓命の熊襲兄弟討ちの資料の展示。彼を抜きにして日本の異性装は語れませんよね。宿敵の目をも眩ませた女装の男子の美しさと討伐の血生臭さが相まって伝説として語り継がれる人物です。6章にも石井林響の小碓命の絵画が展示されていましたが、そちらも大変美しかった。
とりかえばや物語や巴御前の資料もこのコーナーで、こんなに古い時代の資料が残っていること自体が、日本が古くから異性装に魅力を感じてきた証であるように感じました。

2章 戦う女性ー女武者

神功皇后や巴御前、静御前などの資料のコーナー。江戸に作られたとされる女性用の鎧などもあり、こういうのもっと教科書に載せてくれたらいいのになーと思う。例外が存在することはとても忘れられやすいので。
静御前が義経と共に夜討してきた敵と戦う様子を描いた「堀川夜討絵巻」が好きでした。もともと静御前は好きなんだけど、異性装の遊女の美しさと血生臭さにやっぱり惹かれてしまう(堀川夜討絵巻は女性の格好ですが)。

3章 “美しい”男性ー若衆

広く結婚前の若い男性を指す単語ですが、転じて夜の街で男女問わず相手をしたとされる蔭間も意味します。
当時の振袖などが展示されていて、とても美しかったです。振袖でありながら菖蒲など女性の着物には使われない紋様が施されているのもグッときますね。
滝沢馬琴の兎園小説という、噂を書き留めたものもここで紹介されていて、男装の女性が女性と一緒に暮らしていた話などから、現代で言うFTMの存在がうかがえるそうです。

4章 江戸の異性装ー歌舞伎

歌舞伎の展示はそりゃあるよね、と知ったかしていたけど、出雲阿国の夫が女装して共に舞台に出ていたことは初めて知った…異性装というのは性別によって服装が明確に区分されていないと成り立たないけれど、それを(お笑いではなく)エンタメとしてあえて逆転させる美学も同時に生んだんだなーと改めて思う。

5章 江戸の異性装ー物語の登場人物・祭礼

4章に続き江戸の風俗。里見八犬伝の剣士に女装の男がいて復讐を遂げる話があることや、白縫譚という物語では男装の姫が一族の宿敵をうかがう話(その途中で女性を助けたと思ったら女装した宿敵だったりする)などが展示されており、目白押しだな江戸時代…という感想。

6章 近代化社会における異性装

比較的おおらかな江戸が終わると異性装を囲む環境は大きな転換点を迎えます。西洋の文化を取り入れるべく、明確に異性装を軽犯罪として取り締まる法律が制定。
異性装者の逮捕記事などが展示されており、実際取り締まりが行われていたこともわかります。
ただ比較的辛い時代にもかかわらず、個人の嗜好として異性装を続けている人の話が残っていたり、温泉街で職業として異性装を行う人がいたり、宝塚歌劇団の前身が設立されるなど、しぶとさもうかがえる。
私は橘小夢の「澤村田之助」の絵の美しさにやられました。脱疽という病気で四肢を失う歌舞伎役者という背景込みでより美しく見える罪悪感。

7章 現代の異性装

リボンの騎士、ベルサイユのばら(原画!!)、ストップ!!ひばりくん!などの漫画から、映画「薔薇の葬列」のポスターや予告映像まで、多数のメディアで異性装が取り上げられていることがわかる。個人的には「薔薇の葬列」でデビューされたピーターさんの美しさに驚きました。

8章 現代から未来へ続く異性装

展示の最終章では、見る/見られるの関係性を固定化するルッキズムに対抗した作品がメイン。ドラァグクイーンをモチーフにしたダムタイプの作品や森村泰昌の写真は鮮烈でとても勇気をもらえます。いや本当、作品の背景も意図も大して知らない私なんかがパッと見ただけで力をもらえるってすごいことだ。
以下、ダムタイプのインスタレーション内で無料配布されていた資料から、常識的と思われる範囲で引用させていただきます。

ドラァグクイーンは主にクラブパーティーなどの場で、「やりすぎ」という手段により、ルッキズムを背負い込んだ近代女性のジェンダーそのものを、コスチュームやショーでパロディ化する様式の一つです。(中略)ドラァグクイーンは自らの存在そのものが、近代文化の築き上げたジェンダーという観念を「台無し」にすることに自覚的です。本展の「異性装の日本史」という道程へのアンサーとして、ひとつの“台無し”な結実をご用意させて頂きました。

『CQ!CQ!This is Post Camp』
:シモーヌ深雪&D・K・ウラヂ

全体の感想

日本は歴史上服装において性差を飛び越える試みが豊かであったことがよくわかる展示でした。西洋ほど服装に男女差がなかったこと、宗教的に禁忌でなかったことは背景としてありつつ、時代によっては娯楽のエッセンスとして強く支持されていたことも感じました(じゃなきゃこんな資料残らないよね)
ただそれはそのまま性のバラエティに理解があったことを意味せず、明治の法整備以前でも異性装に対しての行政処分が下されるケースなどもあり、あくまでスパイスにとどまっていたことも感じられました。
その点今流行しているジェンダーレスファッションは規範の逆転ではなく無視をするという点において大きな転換点になるのかなあという気もする。異性装は服装における性差が明確であることが前提なので、どちらの性も感じさせないファッションというのは歴史的にも新たな試みといえそうです。男性でなければ女性、という考えから抜け出している。
一方で、私が異性装に感じるフェティシズムは性差を前提に考えているからこその感覚でもある。ジェンダーレスファッションはどんどん広まってほしいし、男女同デザインの学校水着なんか今すぐ全国で取り入れて欲しいくらいだが、あくまで等しいオプションとして、ジェンダーレスも男性らしさも女性らしさも残っていってほしいなあとも思います。おそらく、ここまで長く歴史上に異性装が残り続けたのは、男らしさ、女らしさを逆転させる試みに、根源的な魅力があることの証左であると思うので。

一箇所だけあった自由撮影のブースが面白かったので最後写真だけ。

このボードをフラッシュ撮影すると…
こうなります

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