【雑記】バカ高え歴史ある布は文化ある街でしか着れないんよ(偏見)

こんな中なんだけど、東京に行きました。用事があったのでホテルに一泊した。
用事はインディージョーンズのシネマコンサート。もう去年から予定していたしチケットも取ってもらっていたのでね。行くしかないと。
シネマコンサートというのは、映画を上映しながらその挿入曲はオーケストラの生演奏を楽しむというやつで、誘ってもらうまで知らない文化だったんですよ。なんて優雅なんだと。

そしてプロってすごいんですよね、「ミスをしない」ことが前提なんだもの……本当に違和感がなかった。「映画に没頭ができる」というのは本当にプロ。プロとしか言えねえ。すごすぎました。あとそういえばインディ・ジョーンズってインテリなんだった。スーツ着てるアグレッシブ人間、ときめくからやめてほしい。
文化的な催しがいくらでも行われている東京。今は実家の田舎に戻ってしまったので、日常的に触れられるのはやっぱり羨ましいと思ったし、もう少し残ればよかったなと惜しい気もした。

東京国際フォーラムの近くに泊まり、その帰りにその場所を通りかかると、骨董市がやっていた。
私自身、歴史やら民俗学やら詳しいわけではないし、浅学すらないのだけど、骨董品のような古いもの、歴史あるものを見るのは好きだ。蚤の市、フリーマーケットのように開かれている露店もワクワクする。もう暫くは、東京へは来ないだろうと思うと、「せっかくだから」という気持ちになり見ていくことにした。

陶器、装飾品、嗜好品、ポスター、書籍、玩具、着物、古着……など、いろんなものが多くの露店に並んでいた。興味深げにしげしげと眺めて、品定めをする人、どうしてこの値段なのか、この品は何かと質問をして見聞を広めている人、また私のように物見遊山で来たであろう人たちで賑わっていた。
骨董市というものは、美術館や博物館よりも開けた場所で見られる「価値あるもの」の展覧会、販売会であり、より気軽な距離で眺められるからこそ、見る人によっては「価値のないもの」ともなってしまう。
並べられる骨董品について、詳しく聞いてみたい気持ちはあったのだが、なにぶん一片の知識すらないため、何をどう尋ねればいいのかがわからなかった。なのでうっすら聞こえてくる店主と客の問答を盗み聞きをするなどして眺めていた。
楽しげな賑わいは、もしや自分は場違いなのでは、と気づいた瞬間にとんでもないところに来てしまったという、ひどく所在ない気持ちになってしまう。

それに、おのぼりの自分にとっては骨董品は気軽に買える値段ではない。価値のわからぬものに買われても、それは品にとっても幸せではない。物分かりのいい酸っぱい葡萄だ。
一通り見回って帰ろうとすると、服を売っている露店があった。着物とは違い、洋服っぽい。

近くで見ると、なんとも個性的なワンピースが売っていた。一見ジーンズのような紺色のワンピースの中に白いタートルネックのセーターが組み合わさっている。
見た瞬間、そのシルエットに心惹かれた。

えっめっちゃかわい〜〜〜〜!!!!!

思わず触った。素材は柔らかかった。藍染?わからない、でも多分、骨董市なのだから「いいもの」なのだ。
その隣にあったワンピースはさらに個性的だった。写真はなく、記憶だよりなのだが、すごく昔の粉袋(?)をリメイクして作ったワンピースだ。麻っぽかった。時の中でついたであろう汚れ、風化した文字、日に焼け、色褪せた生地。その全てが歴史を語っていて、強烈に美しかった。

し、値段も強烈に輝いていた。

バカ高え〜〜〜〜〜〜んだ、これが。

粉袋のワンピースは20,000円近くしたし、青のワンピースの方は30,000円近くした。
なんてことだよ。一目惚れとはいえ新幹線で帰れなくなっちゃうよ。しかも今、無職だよ。

仕事というものは、好きか嫌いか、向いているか向いていないかなどに構っていられず、こういう強烈な出会いに躊躇しないために必要な合法的収入源である。そんな気持ちになった。いますぐ闇金に駆け込みたかった。

冷静に考えることにした。めちゃくちゃ欲しいが、強烈に欲しいが、果たして買ったところで「着るか?」と。
私の実家は東北の田舎である。田舎というものは、風土の歴史はあれど、みんなが風土風俗民俗に詳しいというわけではない。研究者など観測者がいて初めて、その歴史の重要さを理解することの方が多いと思う。偏見だろうか? 生まれ育ちの歴史は学ぶことはあっても、それ以上の興味を持つ人間は、ごくわずかではないか。

私が強烈に美しいと感じた「風化」した雰囲気は、廃墟マニアやサブカル好きにはウケると思う、しかし文化の知識土壌ありきではないか。「サブカル」や「趣味」のカオスなサラダボウルが必要になる。田舎にはサラダボウルはない。(偏見)
あるのかもしれない、私が観測していないだけかもしれない。あったとしても、都会に摘まれて混ぜられている。田舎では小さな小さな小鉢なのだ。

仮に田舎で粉袋の服を普段着として着ていると、絶対に「ボロい服」だとしか思われない。(偏見)
田舎ではブランドを着てもボロ服を着ても目立つのだ。みんなしまむらを着ているから(これはもっと偏見)ちなみに私はしまむらが大好きなので、それはそれでいいのだ。

あー、芸工大時代にもっとサブカルな服着ておけばよかった。はっちゃけ服を着まくり、価値をバグらせて興味を高めまくっていればよかったなー。骨董品とかもっと、歴史に詳しくなれてらあ趣味も豊かだったかなー。いうて、読書も浅学だよー……

今までの酸っぱい葡萄を思い返す。そろそろいいワインになっていそうである。
東京は、文化の集合地である。というと誇張だろうと思うが、一番アクセスがよく、金があり、人がいるのだから自然と文化の坩堝にはなるだろう。流れるプールの中心点である。
そこにはたくさんの人がいるし、たくさん知恵も集まるし、だから受け入れられるのだし。

私の好きはこれなんだ、と田舎で主張すると、まあ別に、知らない人間ならば放っておいてくれるが、親戚や近所ではすぐ噂になってしまう。噂になるだけで、知識が集まらないのだ。そして周りも、話題の情報として擦るだけだ。
その囃し立てが私は殆嫌いでならない。

きっとこれは、私が抱える酸っぱい葡萄が発酵して、飲まず嫌いをしているワインなのだと思う。根強い、根深い偏見なのだ。

東京に行けば変わるわけではない。ただ、文化の情報の多さが桁違いだ。自分が知りたいこと、知らなかったこと、知らなくてもよかったこと、全く視界に入らなかったこと。それがすぐ近くにある。

田舎の文化は、保守的だ。東京の文化がオスの孔雀なら、田舎はメスの孔雀だ。価値を秘める。だから目立たないのかもしれない。私は見つけられていないのかもしれない。
母の若い頃の服、小学校の校舎。地元の郷土資料館。小さな小さな美術館。実家の襖。もう犬のいない廃屋。

骨董の価値もわからない人間の発酵しくさったワインは、早く捨てるべきなんだろう。

いつか友人たちと骨董市へ行き、バカ高い古ぼけたブローチとボロ布で着飾り、田舎の中で写真を撮りたい。

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