筐の女

筐の女

 Aの部屋は五畳一間の年季が入ったものだ。上京して五年、住み慣れた狭さを彼も気に入っていた。
 気に入っていたが、いつも妙な違和感が片隅にあった。なるべく気づかないふりをしていたのは、家賃が安いからだ。
「襖は開けんでな」
 Aは泊めた友人に対し言った。彼の布団は、客用も含めて部屋の隅に置いてあった。雄大な川が広がるような水墨画が描かれている、立派な襖の奥は布団を置くためのものであろう。
 ねずみでも出るのか、と友人は尋ねた。
「そんなんではないけど」
 埃っぽいから、とかなんとか、Aはもごもご口籠り、話題を逸らした。友人には、彼は意識して襖を見ないようにしていると感じられた。
 妙な素振りが、余計に襖を意識させた。その重々しい感じもそうであったが、どこか良い花の香りがする。微かな軋み音が聴こえるたび、襖に気が行くのだったが、
「まあ、古い家だから」
 とAは言ったので、それ以上は尋ねるのをやめた。Aの雰囲気が明らかに重く、沈黙を要求するものだったからだ。
 友人の疑いの目を受けながら、A自身も襖について沈黙を貫いた。彼の家にいる間は、それは暗黙の禁止となっていった。
 数年越しにAと友人は再会した。Aは未だ、あの部屋に住んでいるのだと話の流れで知った。Aは前よりも顔色が青白く、やつれているように思え、友人はついあの襖について言葉をこぼした。
 悪いものでもついているんじゃないか、と。
 その時のAの見開いた、なんとも表現し難い表情が友人の目に焼きついた。はっとしたような、侮蔑、嘲笑、のようなものが混じっている。ようやく気がついたか、と咎めるような。
 Aは口を開きかけて、噤んだ。
「なあ、何かあるんじゃないか。気持ちの問題だとしても話したら楽になる」
 友人の言葉に沈黙していたが、やがてAは言葉を発した。
「居ると思うんだ」
「居る?」
 Aは喉をひーと鳴らし、かすれた声を漏らす。
「女が」
 そんな気はしていたが、改めて口にされると身震いがした。お祓いとかは、と尋ねると、
「悪いもんじゃないと思うから」
 と彼は答えた。
「説得力がない」
 友人は憤り、ぼんやりと幽霊のようにやつれたAを睨む。彼の部屋に泊まり、「居る」のか確かめることを決めた。

 数年ぶりに訪れた彼の部屋は、明らかに異質だった。間取りも家具の置き場も変わっていないのに、どんよりと滞った雰囲気に満ちていて、心なしか暗い。暗い、というより、黒い。友人はすぐ襖に目を向けた。ひたりと閉じられた襖が逆に不自然に感じる。
 Aはジリジリと襖に近寄る友人の姿を目だけで追った。棒立ちのまま、妙な焦りだけが生まれた。
「……麦茶でも」
「いらない」
 友人は振り向かず答えた。襖の前に仁王立ちし、息を整える。また微かに花のような香りがした。
 重い沈黙の中、しばらく時が止まったように、二人はそのまま立ち尽くす。時計の秒針だけが忙しなく進み、二人を置き去りにしていく。
 襖にゆっくりと手を伸ばす。何かが息を潜めている。友人の身体に妙な緊張が走るのは、Aの凝視を背中に感じるからだった。
 立て付けの悪い襖なのか、ぐっと抵抗を感じた。それとも、中にやはり「居る」のか。そう思った一瞬はとうにすぎ、乱暴に引き開けると簡単に開く。
 中身は空だった。友人はほっと息を吐いた、束の間、すぐ違和感に気がついた。
 積まれた薄い布団が、少し沈んで皺が寄っている。まるでついさっきまで、誰かが寝そべっていたかのように。
 おそるおそるシーツの上に手を乗せる。あたたかいもつめたいも、なかった。なのに中に香る匂いは、薄く香っていた花のような香り、に、少し生々しく、人間の——否、何かの生き物の臭いが混じっていた。
 奥を覗いても、そこには暗闇しかない。ずっと見ていると、黒々とひかる目がありそうで、恐ろしい。空想に支配されそうになり、友人はすぐ顔を引き抜いた。
「居ないじゃないか。ほら、何も」
 長い沈黙の後、友人は振り返らず、上擦る声で言った。Aは無言だった。
 沈黙と気まずさを引きずったまま、約束通り彼の部屋に宿泊した。
 友人が湯から戻ると、Aは敷いた布団の上で、ぼんやりと閉じた襖を見ていた。何かを失ったような、寂しい背中だった。
「お前、引っ越せ。古い家なんだしさ」
 わざと明るく声を出し、友人は早々に布団に籠った。Aは「そうだな」とだけ言った。あとはまた、沈黙だった。
 カタン、と物音が大きく響いて、踏切の音がかき消した。
 この家は静かすぎる。
 友人はうんざりした。身体に染みる脂汗を、枕に擦りつけた。

 深夜だった。
 月明かりが眩しく、友人は中々寝付けなかった。
 隣に並び眠る友人は、青白い光に照らされ気絶するように眠っている。こうして見ると死人のようで、揺り起こしたくなった。
 そっと口元に手を伸ばした。微かな呼吸が漏れていて、安堵して布団に戻ろうとした。
 そしてふと、気づいてしまった。
 襖に目をやる。
 凝視したまま、ゆっくりと、ゆっくりと布団に横になる。
 あっ、と喉に、声にならない声がひっかかる。
 雄大な川が、視界の中で縦になる。その揺らめき、強弱、曲線。何故こんなにも気づかなかったのか。
 友人は思った。その水墨画が姿を変える。同じように、Aの横に横たわる——
 女が居る、と。

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