【小説】ghost

ghost

 バケツをひっくり返したような雨とは、このような天気をいうのだ。打たれれば細い棒で叩かれたような軽い痛みがある、質量のある雨の槍が、スクランブル交差点に降り注いでいる。雨の飛沫がもやのように立ち上がり、路面を白く染めている。
 局所的な雨のようで、SNSに流れてくる遠巻きから見たこの区域は、柱が立ったような雨の影が見える。なるほど、これはバケツだと彼は思った。今自分は、そのバケツの下にいる。蟻の巣穴に幼児が、無邪気に水を注ぐ光景を思い出した。蟻はこんな気分だっただろうか。
 彼は若い青年だった。張りついた前髪をかき分け、冷えた肌に浮いた皮膚の細かな粟立ちをさする。カウンター席に腰を下ろしたため、窓の冷気も伝わってくる。コーヒーショップの冷房で、濡れた体ではあまりに堪える。傘もタオルもハンカチもない。今日は暑かったため、上着もなかった。
 突然の雨だった。青いキャンバスに高く高く描かれるような入道雲がそびえ立っていたため、雷雨の予想は出来たのだが、こうも早く天気が崩れるとは思わなかったのだ。
 身震いし、連続的なくしゃみをする。ホットコーヒーの表面が波打ち、照明の輪を歪ませた。
 コーヒーの熱があるだけありがたいが、これでは風邪をひいて当然だと思う。
 彼は目を窓の向こうに向けた。相変わらずバケツはひっくり返されたままで、彼と同じように傘のない人間はずぶ濡れで逃げ惑い、傘のある人間も、ほとんど意味をなさないでいた。
 彼はぐっしょりと濡れて蒸れる靴とジーンズに意識を向け、ため息をついた。居心地が悪い。服の状態もあるが、何よりも今のこの状況が、理解できていないのだ。
「待たせたね」
 彼に後ろから声をかけ、スーツの男が隣に腰を下ろした。男はカフェラテが入ったカップをテーブルに置き、眼鏡のレンズを覆い尽くす水滴をティッシュで拭き取った。静脈が透けるほど白い手は、指が長くて骨ばっている。三十代、少なくとも彼よりは年上で、怪訝そうに目を向ける彼に対する苦笑には、人の良さが滲んでいる。
「君も使いなさい」
 男は鞄から新品のタオルを差し出した。彼は遠慮がちに受け取り、首だけで頷いた。ビニールで密閉されたタオルを取り出し、冷えた腕や、服を叩く。新品のタオルには糊がまだついている。
 男は自分のハンカチを取り出し、肩や顔を拭いていた。その横顔を見ながら、青年は今まで会った親戚の顔や、学生時代の先輩を思い返していた。
「あの……」
 彼は言い澱み、ぎこちなく笑みを作る。スーツの男は、親しい従兄弟のように笑いかける。
「俺たち……どっかで、会いましたっけ」
 人違いじゃないか。
 コーヒーを奢ってもらいながら、彼はその事が言い出せずに、新品のタオルまで貰ってしまった。
 ぽつり、と一滴落ちた——その瞬間、次々と雨は降り注ぎ、アスファルトを水没させた。呆然と大雨の中で立ち尽くしていた時、急に自分の上だけ雨が止んだ。傘を差し出されたと気付いて振り向くと、スーツの男が、神妙な、生真面目な顔をして、肩を濡らして立っていた。
「来なさい」
 傘の下で、男の声だけがはっきりと聞こえた。男に見覚えはなかった。随分と深刻な声で言うものだから、彼も思わず、逆らわずについていったのだ。
 もしかしたら、生き別れの兄だとか。
 そんな妄想をしてみたものの、自分が一人っ子だという事実は変わらないのだが。
 スーツの男は目を軽く見開き、また困ったように、人のいい笑みを浮かべる。
「いや……」
 そう言って首を振り、顎を支えて姿勢を崩した。
「ただ君、あんまりにも動かないから、心配になったんだ」
 男は彼の目を見つめる。今度は彼が目を見開く番だった。
 彼は雨に目を奪われていた。突き刺すように鋭い雨が、体に触れて、生ぬるく溶けて地面に落ちる。水だけで、周りの音をかき消す轟音。不快や憤りを超えて、圧倒されていたのだ。信号が青になっても、彼は空を見上げたまま、男に声をかけられるまで立ち尽くしていた。
「それは……どうも」
 すみません、と口ごもらせ、彼は頭を下げた。
「僕は山岸と言います」
 男は名乗った。彼の名乗るべきか迷っていると、山岸は「いいよ。僕は怪しいだろう」と笑いながら制した。
 彼は少しだけ頷き、ぎこちなく笑い、少し肩の力を抜いた。
「怪しいっす」
「だろうね」
 山岸は笑い、崩れた髪を撫で付けた。
「何か、考え事でもしていたの」
「いや……別に、大した事じゃないんで」
 彼はコーヒーに口をつけ、苦い雫を舐めた。
「ほんとに、普通のことしか考えてなかったですよ。あんなヤベー雨に巻きこまれたの久々でテンション上がっちゃって」
 窓の外を見ると、まだ雨脚は強いが、勢いは弱まっていた。
「集中豪雨らしいですよ」
 彼はスマートフォンの画面を見せた。SNSにあげられた、外から見た写真の列をスライドさせる。山岸は灰色に切り取られたような雨の区域を見て、へえ、と声を漏らした。
「パルテノン神殿の柱みたい」
 そう言って顔を綻ばせる。彼は怪訝そうに、目の前のスーツの男を見た。
「……そう言っていたやつがいたんだ」
 山岸ははっとして取り繕うようにまつ毛を伏せて笑った。
「君みたいに、雨が好きなやつでね。雨の日になると、傘もささないで外に立っていた」
 頬杖をついて山岸は言った。黄昏るように向けた目線を追うが、窓の外は雨に煙る景色があるだけだった。
 雨粒が窓を伝って流れる。ぼんやりと映る虚像の向こうで、雷の唸り声が聞こえた。
「友達ですか?」
 彼は尋ねた。
 山岸は浅く首を振って、自嘲気味に頰を吊り上げた。
「友達に、なりたかった」
 そう言ってカフェラテに口をつける。
「ごめんね、君にする話じゃあない」
「そんなことないっすよ、聞きますよ、全然」
 彼はからからと笑う。
「それにホラ、一期一会じゃないすか。俺、割と話聞くの得意ですよ」
 バイトでクレームをもらうことも多い。彼にとっては、苦情でさえなければ人の話を聞き役に徹するのは嫌なことではなかった。
 山岸はぽかんとして、小さく噴き出した。
「……ありがとう」
 はにかんだ山岸は、口を閉じて整理するようにか細く唸る。
「彼は……そう、何というか、変わり者でね。クラスでも一人で過ごしていることが多かった。かと思えば、みんなに混じって遊ぶこともしていたし……僕より友達が多かったよ」
 山岸の声に雨音がうっすらと重なる。山岸の語る「彼」の名前は、時任と言った。
 時任と友達ではなかった。言葉を交わしたことはあったものの、親しいと言えるような付き合いがあったわけでなく、ただクラスメイトであり、席が斜め同士で近かったため、掃除の班が一緒だったことが唯一の接点だった。
「変わり者って言うのは?」
 彼は少し冷めて酸味を持ったコーヒーをすすって言った。
「自由気ままで、人の話の途中で興味を別のところに移したり、ものの例えが独特で、あんまり人が言わなそうなことを言うものだから。彼は絵を描いていたからかもしれない」
「絵?」
「美術部だったんだ」
 山岸は窓に長い指を伸ばし、指の腹を押しつけた。囲うように白く結露が出来て、軽く擦ってそれを消した。
「だから見ているものが、みんなと違っていたのかもしれない」
「パルテノン、とか」
「そう」
 山岸は笑った。
「そんなことを言うやつは、少なくとも僕の友達にはいなかった」
 雨が窓を叩きつけた。光の梯子が遠くに見え、振り絞るような雨が降っている。灰色の壁に閉ざされていた一帯に光が差しこみ、金色の筋が、ビルの壁を照らした。
「どうして友達じゃないって思うんです?」
 彼は唇を尖らせ、指を組んで顎を乗せた。
「そりゃあ……」
 山岸はぎこちない笑みを浮かべたまま固まった。瞳を下げ、口をつぐむ。思い耽るように、その眼はここではないどこかを見ていた。
「僕は、彼の世界には入れなかったから」
 彼は瞬きをして、山岸の横顔を見た。黒く長い睫毛が、うっすらと差し込む鈍い光に照らされている。
「パルテノン神殿なんて僕には見えないし、時任は僕なんか眼中になかった」
 山岸は眼鏡を押し上げ、少し頭を抱えた。
「でももっと……話しておけばよかったって、今になって思うよ」
「会いに行けばいいのに。今からでも遅くないでしょ」
 彼が息巻いて身を乗り出すと、山岸は曖昧に眉を下げた。
「三年の六月に、肺炎で死んだよ。今日みたいな雨の日に、ずっと雨を見ていたんだ」
 一拍間を空けて、小さく呟いた。
「雨を描きたいから、って……」
 雨の音が止みはじめ、窓にパラパラと、指で払ったようにつく。外にいる人たちは、徐々に急ぐ足を緩め、やや早歩きで、鈍色の光に照らされる路面を歩いて行った。
「あの時、僕が傘を差し出していたら、時任は死ぬことはなかっただろう」
 そう言っておきながら、困ったような顔をした。
 この男は、後悔の幻影を、自分に重ねているのだ。
 彼は指先を握りしめた。かける言葉が見つからない。目の前の男が、自分に過去の幽霊を見ていると言うのなら、何も、言わない方がいいのかもしれない。そう彼は無意識に感じ取っていた。そのせいか、言葉は喉元にひっかかっていた。
「君も、もしかしたら、時任と同じ世界が見えているのかも……なんてね、思ってしまったんだ」
 山岸はカフェラテを飲み干し、立ち上がった。濡れた椅子をハンカチで拭き、なんてね、と、呆然とする青年を見下ろして笑んだ。
「君も体調には気をつけなさい。若いは言い訳にならないんだから」
 じゃあね、と山岸は、踵を返し、扉に向かって行った。
「友達だったよ」
 店内に通った声が、自分のものだと彼が気づいたのは、山岸が驚いて振り返ったからだった。
「友達だったと、思います。時任さんは」
 声が震えた。こんなに緊張することなど、青年はこれまでなかったはずだった。
 山岸は弱く笑う。青年は言葉を続けた。
「山岸さん、俺たち、友達になりましょうよ」
 咄嗟に口から出て、青年は笑うしかなかった。勢いに任せて、ぽかんとする山岸に近づく。もう服は乾きはじめていた。
「ていうか、友達、でしょ? こんなに話しちゃったら」
 多分、と彼は言葉を探した。
「友達になるって、別に資格なんていらないっすよ。見てる世界とか、わかんなくて当然だし、でも。時任さんは、山岸さんにパルテノン神殿の柱を見せたかったから言ったんだ」
 そう口にした瞬間、頰に雫が伝った。
 何故自分が泣いているのか、わからなかった。けれど同じように、山岸の見開かれた瞳に、涙が溜まっていた。
 ありがとう、とかすかに、山岸の唇が動いた。震える唇が、笑みを浮かべようとした。けれど閉じられた唇の端は、堪えるように下に歪む。
 ありがとう、と言葉を繰り返し、ごめん、と眼鏡をずらし、溢れ続ける涙を拭った。
 店員や客の視線が気になり、青年は困った笑みを浮かべながら、背広を押して店の外に出る。
 雨は止んでいた。まだ重い曇天から、光の梯子が降り注ぐ。雨上がりは空気が澄んでいて、息を吸い込むと心地よい。
「……僕は、こっちの方がそれっぽいと思うんだ」
 山岸も空を見上げていた。瞳の涙と鼻水が光っていた。
「……何が?」
 ぽつりと青年は、笑みを浮かべて尋ねた。
「……パルテノン神殿」
 山岸は答え、彼の顔を見て、目尻を下げる。
 二人の笑い声は緩く絡み合い、澄んだ空気に消えていく。
 山岸の緩んだ頰に涙が流れて、雫は路面の光の中に、溶けるように姿を消した。

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