星の箱

星の箱

 箱をこじ開けると、悪魔が飛び出た。
 星雲とブラックホールを混ぜ合わせたような靄は響く笑い声とともに渦を巻き、ヒトの形を成していく。掌に乗るほど小さな箱の上に、先の尖った靴が揃えて乗った。重さがまるでない。ホログラムでないのなら、悪魔だ、と青年は思った。
「眩しい!」
 細身ので長身すぎる、真っ黒な服に身を包んだ男は、近すぎる照明に退いた。
「箱を地面に置くかなにかしてくれないか」
「申し訳ない」
 少年と見間違うような、甘い顔立ちの青年は大人しく箱を置いた。金色の巻き毛を撫でる仕草は少女のようだった。
 箱を置くと、真っ黒な悪魔も一緒についていく。良く見ると実態ではなく、ミストのようなものの集合体なのだとわかった。
「ここはどこだ。お前は何者だ」
「ここは宇宙船です。僕は、ただの旅行者」
「宇宙?」
「外は宇宙です」
 なるほど、と悪魔は窓に寄る。影のように身体が変化し、伸ばされた部分は半透明になっていた。
 宇宙はずっと夜だ。青年も一緒に窓に寄った。ビルの夜景は見えないが、夜のバスの中のようで、青年は好きだった。
「通りで懐かしいわけだ」
「悪魔が宇宙を知っているの?」
「当たり前だろう」
 きょとんと首を傾けた。悪魔と呼ばれてもまるで驚かない。彼は、それが真実であると誰もが知っていると思っているのだ。
「俺は星を喰っていたんだ。餌場を知らない奴がいるか」
「星を?」
 青年は少し目を見開いた。銀色の瞳だった。悪魔はその目を嫌悪した。
「あなたの細さで?」
 上から下まで青年は不躾に眺める。悪魔の肌は幽霊のように青白く、瞳は炎のように燃えている。
「じろじろ見るな」
「ごめんなさい。物珍しくて」
 青年は笑った。気弱な笑みだが、物怖じなどはなかった。
「お前は何故、俺を開けた?」
「落ちていたから、誰のだろうと思って」
「落ちていた? なんてことだよ」
 悪魔は額を大きな手で打った。
「そんなに落ちぶれたかね、俺は」
「埃っぽかったですけど。箱は丈夫なままでしたよ」
「そうかい、どうも」
 がっくり肩を落とし、青年を見下ろした。黒い髪が影を作ると、瞳の炎はますます強く美しかった。
「開けちまったら仕方がない。お前の、願いを叶えよう」
 悪魔がそう言うと、瞳の炎が虹色に揺れた。
「願い」
 青年は呟いた。願いといえるものはない。ただこの白昼夢のような悪魔を、永遠と見つめていたかった。
「星を、食べるところを、見せてくれますか」
「構わないが。どの星がいい」
 青年は窓に額をくっつけ、じっとくらい星間を見つめた。
「あの星はどうですか」
 青年は真下の惑星を指差した。
 深い青の海に覆われて、緑の土地が見えている。白い雲が覆うように流れている。ここから見ると、おもちゃのようで可愛らしく、美しい。
「お前の星だろう」
「もう帰らないので」
 触れる窓が冷たい。外はきっと冬よりも、もっともっと、寒い。
 人間はついに地球を捨てた。
 宇宙を彷徨う完璧な惑星を、人工で作り出したのだという。
「僕たちは、あたらしく、ただしく、完璧な命になるのだと」
「相変わらずつまらんことを考えるな」
 悪魔は顎を撫で、唇を大きく開閉した。
「いいんだな。喰っても」
「いいです」
 帰れないのなら、残したくない。
「僕は、あの地球が好きだったから」
「なるほど」
 悪魔の姿は、炎のように揺らめいた。小さな箱が、ちりちりと火花を散らし光る。
「では」
 悪魔は一瞬にして、大きな火となり大口を開ける。そして青年が瞬きをしている間に宇宙船から姿を消した。
 青年が窓に張りつくと、悪魔は火をまとった大鷲になり、星間を通り抜けているのが見えた。
 その、火が、美しかった。
 悪魔の光は、地球に比べればほんのひとかけのものだった。その微かな火が、衛星と手を繋ぐように広がり、地球全体を覆った。星は燃える、赤い火の中に閉じこめられ、雲がその影で染まっていた。
 はやく朝を迎えた。地球に残った生命たちは、どの方角に居住するものもそう思った。眩い朝は、その口を閉じた。
 青年の足元で、ことんと箱が鳴った。
 あわく光を残すその箱を拾い上げると、先ほどよりも少しずっしりとしていて、小さな動物を抱いているようだった。
「喰ったぞ」
 箱が喋った。
「中に、あるんですか」
 地球が、と青年は銀の瞳で覗きこんだ。
 箱の蓋がずれ、光に包まれた地球が、ミニチュアの地球儀のように佇んでいる。
「あたたかい」
 青年は顔を近づけた。微かに、鼓動しているようなその星に、口づけをしたくなった。
「そのうち冷たくなる」
 悪魔は箱に篭ったまま言った。
「そうですね。……そう、でしょう」
 箱を腹に抱え、青年はゆっくりうずくまった。箱に耳を傾けると、なつかしい、風のざわめきが聞こえたような気がした。
 
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