【小説】山羊と悪魔

山羊と悪魔

 夕方前だというのに、閉めたカーテンの向こう側からは光がなく、菜穂の部屋は薄暗かった。雨音に混じり遠雷が聞こえる。
 菜穂はスマートフォンに映画を映し、ベッドの上で仰向けになっていた。腕が疲れて、右腕を下にし、横を向く。悪魔祓いのスプラッタは、雨の日には丁度いい。
 今日は水曜日だった。菜穂にはズル休みだというような罪悪感はなく、ひたすら魂が抜けたような状態で、学校に足を運ぶ気にはなれなかった。
 これはボイコットだ。
 菜穂は思う。学校に行く理由なんかない。勉強も友達とのつながりも、スマートフォンやインターネットがあればできてしまう。休み始めた火曜日の夜から彼女はその考えが強まっていた。何より、菜穂にはもう、学校に行く一番の楽しみがなくなってしまった。
 加谷先生はもういない。
 映画の中で女性が叫ぶ。恐怖に慄く表情は、大袈裟すぎて冷めてしまう。叫ぶって楽だよな、と菜穂は思う。ふと部活のことを思った。
 担任はどうなったのだろう。公演の準備はどうなるのだろう。昨日からオーディションだったはずだ。加谷先生の代わりは、誰になるのだろう。
 気になることはあるが、学校に出向く気はなかった。雷は雲の中で長く、重く唸る。理由がなくともこの天気では、外出する気は失せる。やけにじめじめとするし、空気も重い。菜穂は強すぎる画面の光に目を細め、神父や悪魔に取り憑かれた少女の苦痛の顔を見比べた。
 加谷先生、と、不意に言葉が出る。
 まだ全然若くて、重い黒髪と、白い肌と、うっすらあるそばかすが大学生みたいで、はにかみがぎこちない男のひと。細身で猫背で、パッとしない。けれど映画が好きで、芝居が好きで、優しかった。頼りないけれど、彼の大きな手はちゃんと、男の人のものだった。
 無意識に唇に触れる。かさついて荒れていた。菜穂は緊迫するシーンを、ただ無味に眺めていた。最初に見たときは随分怖くて、勧めてくれた加谷を恨んだ。けれど、むくれている自分に対し、彼の一番楽しそうな笑顔が向けられた。それで許してしまった。
「菜穂」
 部屋のドアがノックされる。今朝不機嫌だった母親の声は柔らかいので、来客がいるのだとわかった。
「お友達が来てくれたわよ」
 返事をしてもしなくても、どうせ開けられてしまう。菜穂はベッドに寝転んだまま、ドアが開くのを待った。予想通りドアが開き、同じ高校の制服が見え、会釈で長い髪が揺れる。
 新野春は微笑んだ。はっきりとした瞳、小さな唇、細い顎。きゅっと脇を締めて鞄を持ち、おずおずと部屋に入ってくる。全体的に収まりが良い、陶器細工のような少女は、耳に長い髪をかけて、しばらく戸惑うように、ベッドに腰掛けた菜穂と見つめあった。
 母親は微笑むが、菜穂にやった視線は呆れたような、困惑したような、とにかく不満の滲むものだった。
 居心地が悪い。菜穂は頬よりは少し長い、はねる毛先をいじって唇を尖らせる。
「座ったら」
 菜穂が声をかけると、新野はパッと表情を明るくして、菜穂の足元にいそいそと正座をした。姿勢も良く、「ちゃんとしている」という佇まいだった。
「外、雨そんなにひどくないの。でも雷がすごくって、いつ落ちてくるのかわかんなくって、ドキドキしちゃった」
 彼女の透き通る声はわざとらしいくらい明るかった。部屋の暗さに一言もいわず、菜穂に笑いながら小首を傾げる。菜穂はふうん、とも、うんともつかない返事で流す。会話が終わった。沈黙に、新野は少し戸惑い、またぎこちなく話題を振る。
「具合は、どう?」
「まあまあ」
「二日も休んじゃうから、心配しちゃった」
 返事をもらえたことに安堵したのか、新野の笑みは解ける。透き通る真っ白な肌。薄暗い中でも、少し光っているように思える。彼女はどこにいても絵になる。
 彼女の姿を見下ろしながら、それでもこの女にはなりたくないな、と菜穂は思った。自分の容姿が、彼女と違って地味で、目つきも悪くて、毛先が飛び跳ねていても。
「これ、昨日と今日の授業のプリント」
 新野はファイルの一式を差し出した。
「どうも」
 受け取って枕の上に置く。菜穂はぼんやり窓に目を向けていた。雷の音が近くなっているような気がする。
「担任は古典の原山先生になったの。抜き打ちの持ち物検査が厳しいから嫌だって、みんないってる」
 新野はうつむきがちに肩をすくめた。あまりにも沈黙が続くので、視線のぶつからない菜穂の方を見るのをやめていた。
「……何、観てたの?」
 菜穂の背後に光るスマートフォンから、流しっぱなしの映像や音が聞こえる。新野はそろりと視線を向けた。菜穂は視線だけ同じ方向を見て、「カルト映画」と答えた。
「ニュースになってたね」
 雷の音に紛れるかと思ったが、思いのほか通る、低い呟きが出た。新野はピクリと肩を動かして俯く。
「二十代男性教師の援交、だっけ?」
 喉が辛くなった。
「加谷先生、元気? 私、学校以外で会ったことないからわかんなくって」
 菜穂はベッドの際に腰掛け直し、顔を上げない新野を覗きこむように身体を折り曲げた。随分と芝居がかった声になる。実際、演じているだけかもしれない。忍び寄る怒りの感情の時、こんな声が出るのだと、脳の奥は冷静だった。
「わ、わからない。……」
 新野は小さな声で呟いた。
「どうして隠すの? みんな知ってるよ。匿名にしたってどうせ、ネットですぐばれちゃうのに」
 菜穂の声は優しく、楽しげになる。こういう芝居は菜穂の十八番だった。公演でもいじめっ子役ばかりだ。似合いすぎて、嫌気がさす。それでも、青ざめる彼女の顔を見るのは楽しかった。
「……あ、あれから、会ってない。ただ先生は、その……私を、心配して、家に来てくれただけで」
 新野は唇を震わせて、か細い声を上げた。
「じゃあなんでそう、言わないわけ」
 菜穂の声は良く通る。張ると、怒っているイントネーションだとよく先輩や加谷に指導された。ますます俯く新野を見て、本当だな、と思う。菜穂は自嘲的に笑んだ。
 だからこの子がむかつくのだ。
 しおらしい態度も、非を責めようとするといち早く被害者の顔になる。自分と同じように、演じているのじゃないかという気になる。
 まるでエチュードだ。馬鹿馬鹿しいくらいの茶番だ。そう思わなければ、この苛立ちは報われない。
「もういいよ、帰れば」
 どうでもよくなった。菜穂はため息をつき、新野の顔と鉢合わせるように、ベッドに寝転んだ。不意に顔を上げた新野は、すこし身をすくめた。このまま睨み合っていても彼女は動こうとしないだろう。
「……明日、学校、くる?」
「行かない」
「勉強、遅れちゃうよ。受験とか、先のこともあるし」
 眉を下げ、曖昧に視線を彷徨わせる彼女を、菜穂はせせら笑った。
「つまんな。お母さんみたいなこというね」
 瞬きもせず目を見開く。
 観客を、相手を圧倒したいのなら、瞬きを我慢しなさい。
 加谷先生はそういっていた。その通り、新野は息を飲んでいた。観客としては最高の人間なんだけどな、と菜穂は瞼を歪める。
「神様にお願いでもしてみる? 不登校のクラスメイトが学校に来ますようにって」
 新野は目を見開き、一瞬大きく口を開いた。それから小刻みに身体を震わせて、小さな唇を噛んで俯いた。目の淵に涙が溜まっている。こう罪悪感を誘う顔が、本当に、うまい。菜穂は胸の高揚とは裏腹に、やはり脳は冷めていた。
「これから大変になるだろうね。なんだっけ。どんなモットーだったっけ。清廉潔白な御子であらん、みたいなこと、あなたのお母さんいってたよね」
 宗教なんて正直どうでもいい。新野にはかなり、効いたからかいらしいが。
 夏の日。
 よくある宗教勧誘で、同級生と鉢合わせるとは思わなかった。玄関先で母親たちが応対するそれぞれの後ろで、菜穂と新野は棒立ちしていた。菜穂は上目で、新野の母親の顔を見ていた。妙に若々しく、どこか人間離れをした表情が見え隠れした。信じて疑わない顔はこんなにも気持ちが悪く、居心地が悪いのだと思った。
 信仰って、しすぎると、神様も悪魔みたいに乗り移るのだろうか。菜穂はぼんやりそう考えながら、腿の裏を流れる汗の雫を感じた。
 新野は、俯いて曖昧に唇を引いていた。
 あの夏の彼女だけは、好きになれそうだった。
 今の彼女の顔は、夏の日のあの子だった。
 菜穂は柔らかく目を細めた。
「……私ね、先生がいなくなったこともショックだったけど、もっとショックなことがあったの」
「え?」
 新野は顔を上げる。泣きじゃくった子供のような、弱々しい表情だった。
「リップクリームがなくなったの」
「……リップ?」
「ペンケースにいつも入れてたんだ。普通の薬用だけど」
 菜穂は勉強机に視線を促す。高くもなんでもない、ただの市販のリップクリームが、ペンケースに入っていた。
 新野は、視線を同じように向けつつも、ちらりと菜穂に視線をよこした。伺うような顔が、少し不安に染まっている。
「あれね……加谷先生がくれたんだよ」
「そう、なの」
「唯一貰ったプレゼントだったの。空になっても、絶対大事にしようって、思ってたんだ」
 雷が低く、長く続いた。もう部屋も青暗い。菜穂は身体を起こして窓をみる。スマートフォンから流れる映画では、悪魔が姿を表して、窓から飛び出して行っていた。
 新野が俯いて、膝の上で拳を握っている。菜穂は無意識に彼女のつむじを見下ろす。
「いつのまにか、なくなってたんだよね。あったのは、おんなじだけど、全く違うリップ」
 新野が顔を上げた。目は充血して、血の気のない顔は愕然としていた。
 ついに雷が落ちた。光ってすぐ、轟音がした。きっと近いのだろう。
 長い沈黙が続いた。その間を埋めるように、映画の声が聞こえる。悪魔よ、去れ、悪魔よ、去れ、悪魔よ、去れ。……
 部屋の暗闇は、かろうじてお互いの輪郭がわかる。
「……なんで盗ったの?」
 菜穂は尋ねた。
 返事は無かった。
「先生がくれたって、知ってたんでしょ。やっぱり、あなたも先生が好きだったんだ」
 返事はない。代わりに、激しく被りを振る、衣擦れの音が聞こえる。すすり泣きの声が混じり、暗闇は言い知れない何かが沈殿していた。
 菜穂は彼女がわからなかった。
 新野が盗んだのは知っていた。
 教室にペンケースを忘れ、取りに帰った時。たった一人教室にいた彼女を見て、菜穂は、気まずさに教室に入れずにいた。みんなといる時は流石に普通に接するが、宗教勧誘で会った同級生と、二人きりになるのは彼女も嫌だろうと思った。
 新野は、菜穂の机の前に立っていた。佇まいがあまりにも絵になるから、声もかけられなかった。だから。
 ペンケースの隙間に、細い指を押し入れて、菜穂のリップクリームをそっと手に取る彼女がいた。
 あの時の、脳がかっとして、一瞬で冷えるような、鈍器で殴られたような、星が生まれるような、そんな感覚がないまぜになったのは、初めてだった。
 菜穂はじっと彼女を見つめた。
 悪魔は美しくか弱いものに取り憑く。きっとそうなのだろう。私は彼女の中の悪魔を嫌っている。それだけ。大嫌い。
「あげるよ、そのリップ」
 菜穂の言葉に、新野の目には少し光が宿った。柔らかい月夜のような青白い光。実際はスマートフォンの画面が、激しく点滅している。悪魔をついに浄化したのだ。
「でももう二度と、私のこと友達だと思わないでね」
 じゃあ。
 そういって菜穂は立ち上がり、へたりこむ新野の隣をすり抜け、部屋のドアを開けた。切り分けたチーズのような濃い光が、部屋に入りこむ。
「じゃあ」
 もう一度菜穂はいう。新野は、のろりとした動作で、幽霊のように立ち上がる。
 部屋を出る直前に、彼女は立ち止まった。じっと、菜穂の顔を見る。潤んだ瞳が、こちらを責めるような、純粋な眼差しに思えた。
「何」
 思わず棘のある声が出た。菜穂は少し視線をそらす。
「加谷先生のこと、信じてあげて。本当になにも、ないから」
 瞬きもしない大きな瞳が、菜穂を見ている。
 菜穂は答えず、少し歯噛みした。
「ごめんね」
 新野は曖昧に表情を緩めた。
「いままで神様なんて、いないと思ってたけど、ちゃんと見てるんだね」
 そういって、彼女は息を溢す。泣いてしまいそうな時の、震えだった。
 返事に窮していると、ふと、唇に柔らかな感触があった。視線をあげると、彼女の指が触れていた。手を取り払う前に、新野は口を開く。
「菜穂ちゃんが加谷先生を好きなの、知ってた」
 やっぱり、と菜穂は思う。だから彼女は、私のリップを盗ったのだ。
「だからずっといえない、いえないから、代わりに、あなたのものが欲しかったの。……ばれないくらい小さなもの」
 菜穂の唇から指が離れた。
「悪いことは良くないね」
 新野は少し俯いて自嘲気味に笑った。
「ずっと大好き。いちばん、すき」
 じゃあね、と彼女は、明かりのある廊下へ出る。
 
 映画はまだ続いていた。悪魔祓いが済んだ少女は生きているが、代わりに神父は死んだ。神父には散々な悪評が立ち、真相を知るのは悪魔だけになった。
 真っ暗な部屋で、菜穂は膝を抱えて、座り続けた。音楽を聴くでもなく、何かを考えていたわけでもない。ただ時間が過ぎていた。
 母親の足音が聞こえる。菜穂はただ聞いていた。
「菜穂、お友達帰っちゃったけど」
 廊下の光が、母親の影に塞がれる。
「いいよ。友達じゃないし」
「あの子、あれよねえ、新野さん家の」
 母親は頬に手を当てて考えこんだ。
「大変ねえ、ああいうお母さん持つと。とってもいい子ね」
 いい子、ね。菜穂膝に顔を埋め、苦く笑んだ。
「でも、よかったわね」
「何が?」
「あの子、引っ越すそうよ。離婚が決まって、お父さんについて行くんだって」
「いつ」
 呆然と訪ねた。さあねえ、と母親は呑気に答える。
「でももうすぐなんじゃない」
 ——多分、もう、会えないので。
 彼女は笑って、そういったらしい。
 知らない。
 菜穂は立ち上がり、部屋の入り口まで顔を出す。もういるはずはない。追いかける気もない。追いかけたところで、許すとか許さないとか、言わない。嫌い。大嫌い。
「ちょっと、どうしたの」
 母親が菜穂の背中をさする。
 菜穂は泣いていた。一筋涙が溢れて、荒れた唇を少し濡らした。
 

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