シェイプシフター

 ただ踏むだけの地面を大理石にする理由がわからない。汚したくないのなら、汚れてもいいのなら、高級な床などなければいい。
 草壁智くさかべともはヘラを握りながら、ロビーの大理石の床に目を落としていた。ぼけた薄青の作業着に身を包み、光を宿さない目をした青年は、人が行き交うのに何故、自分が掃除をしているのかを考えた。
 高層ビルの中に存在するオフィスに行くために、スーツ姿や、オフィスカジュアルの人間が次々ゲートに吸いこまれていく。一斉に会話を交わしているかのような言葉の海。雑踏が鼓膜にねじこまれる。こびりついた汚れを取ったばかりの場所を、必ず誰かが、我先にと踏み抜いていく。やつらは一度だって、黒ずんだガムがへばりついた大理石を磨いた事などない。
「草壁――」
 声に反応して振り向く。眼鏡をかけ、帽子の隙間から見える鬢に白髪が混じる初老の男性が、彼を怪訝そうに見ている。草壁と同じ作業着を身につけているが、より年季が入っている。
「手ぇ止めんな。邪魔になってるぞ」
 雑に手を振り、草壁に周りを見るよう促した。
 目線だけをぐるりと巡らすと、侮蔑の視線が瞬間的に向けられているのを、態度で察する。まるで小さな棘が肌に突き刺さるようだった。草壁は帽子を目深に被り直し、のろのろと端に避けた。
 注意した清掃員は、草壁の猫背を睨むように、また奇妙なものを見るような目で見た。痩せ型で色白く、到底力仕事には向かない肢体の青年だった。跳ねたままの野暮ったい黒髪を帽子に押しこんで視線を下げ、ちらりとも笑顔を見せない。愛想が全くないのだ。彼のような態度は業務の士気に関わる――そう思いながら、中年の清掃員は清掃カートを押して、ゲートの警備員にはにかみ会釈をしながら、奥へと姿を消した。

 草壁は、花瓶の置台にクリーナーをスプレーで噴きかけ、乾いた雑巾で拭き取った。花瓶もさることながらこの置台も無駄に高額そうな気配がする。草壁は屈み、懸命に拭いているいるように見せかける。隈で窪む目を上げ、花火の一瞬を閉じこめたような、扇上に広がる生け花を見た。一つ、大きな赤い花が見えた。黄色花芯を草壁に向け、じっと、こちらを見ている。花にすら見下されているような気がして、目を逸らした。置台の背の方に回り、クリーナーを噴きかける。周りから見れば、彼の上半身は視界から消えている。
 早く終われ。彼の願いはそれだけだった。何が楽しくて、お高く留まった、気に障る連中のために掃除をしているんだ。やつらの使うトイレの掃除をしていれば向けてくる、異物を見る視線。こっちだって好きで女子トイレを掃除している訳じゃない。文句があるなら自分で掃除をしたらいい。洗面台に飛び散った水しぶきすら、拭き取ろうとしない癖に――。
 歯ぎしりをして、草壁は置台に唾を吐いた。その上から雑巾で拭い、何事もなかったように花瓶の裏から出た。ポリバケツに雑巾を放って、清掃カートに積みこむ。
 カートを押して歩く際、すれ違った女性の鞄についたストラップが目についた。星が三つ連なる、小さな、シンプルなデザインに、その女性の誕生石だろうペリドットが添えられている。草壁は一瞥して、反射的に唇を歪めた。

 清掃員に与えられた事務室は簡素で、両脇にロッカーが並び、真ん中に縦長の、折り畳み式のテーブルが置かれている。壁際にパイプ椅子が折り畳まれて重なっている。窓はあるが、いつも薄暗い。草壁の勤める清掃業の本社は別にあるため、待機や荷物置き程度の存在だ。
 草壁が事務室に戻ると、数人の男性がそれぞれにくつろいでいた。先程の中年の男が、奥にこぢんまりと座り、草壁をじろりと見やるが、一瞬だった。パイプ椅子にもたれる四十代ぐらいの男性は贅肉のついた腹を撫でながらスマートフォンを横にして、何やらテレビを見ているようだった。その後ろから画面を覗きこむ金髪が色落ちしたような、斑な髪の色をした青年が草壁の姿を認め、小さく頭を下げた。彼は、草壁よりも若い、まだ十九歳だった。どの人間も苗字しか覚えていない。白髪のある初老に近い中年が多田。恰幅のいい中年が石島。斑な髪の男が小塚。だが、覚えていても、どうせ業務連絡しか話すことはない。草壁にはどうでもいいことだった。
 スマートフォンから流れる音声で、石島が見ているのは昼のバラエティだとわかった。彼が昼休み、本社のテレビでも見ているものだ。ドラマや映画、舞台の告知がある俳優や、CDの発売を知らせるミュージシャンなど、バラエティに出るのは珍しい芸能人をゲストに呼びつける。
「あ、こいつ、こいつです。三星吉真みつぼしよしま
 小塚が踵を浮かせ、画面を指さした。石島は迷惑そうに眉を顰めたが、すぐ視線をスマートフォンに戻した。
 三星吉真――嫌でも顔は思い出せる。一昨年新人賞を取り、若手俳優の中でも勢いのある売れっ子だ。ドラマや映画もひっきりなしで、女性誌や男性誌、雑誌のグラビアや表紙を飾れるほど、人の目を引く見た目をしている。中性的にも見える甘い顔立ちで、すらりとしたスタイルだが、つくべき筋肉がついている。黄金比率だなんだ、特集のアオリではもてはやされている。
 草壁は狭い幅をすり抜けながら、ちらりと画面を覗いた。白にも近い、明るい髪色が目についた。プラチナブロンド。昔は同じ黒髪だったはずだ。
「姉貴とお袋が好きなんですよね。俺も買わされちゃって。いらねえってのに」
 小塚は鍵を取りだし、ぶら下がったストラップを石島に見せた。真鍮で作られた三つの星が連なり、小さな誕生石がついたデザイン。三星のオフィシャルファンクラブで販売されているものだ。
「わかりやすいっスよね。実はアホなんじゃないっすかね、三星って。クイズ番組とか全然ダメじゃないッスか」
 石島は唸るような生返事をするだけだが、小塚は話し続ける。
「今、何歳かわかります?」
 小塚が問いかけた直後、画面でも年齢の話が出た。何故だか小塚は得意げに周りを見渡したが、誰も反応を見せない。
 草壁はロッカーを開け、着替えを掘り出した。作業着を脱ぎながら視線だけを無意識に向けていた。
「二十六歳だって。若いっすね」
「お前の方が若いんだよ」
 ようやく石島が反応し、呆れたように笑った。
「あ、もしかして草壁さん、同い年じゃないですか?」
 小塚のはしゃいだ声が、しんとした部屋に反響した。草壁は向けられた小塚の笑みを一瞥し、作業着をロッカーに押しこみ、着替え終わったワイシャツの襟を直し、モッズコートを羽織った。
 ロッカーを閉じて、紺のナップザックを背負い、そのままドアに向かった。
「帰るんですか?」
 小塚が慌てて声を上げる。草壁は頬にかかる黒髪をよけ、少しだけ首を向けた。
「半休」
 草壁は不機嫌に声を低めそう言った。そのまま雑に「お疲れ様です」と決められた台詞を吐いて、出ていった。乱雑に閉めたドアの音が、事務室に沈殿したように漂う。
「そして、明日は有給」
 石島は狼狽える小塚に、皮肉めいてつけ足した。

 雑踏の間を縫い歩く。首を落としたように、猫背のまま草壁は、歩く。窪んだ暗い瞳が、長い前髪の隙間から覗く。外回りの人間、休日の人間。ぐるりと、ぎょろついた目を回すがすぐに視線を下げた。目があえば怪訝な顔をする。そうに決まっている。忙しなく顔を触り、小さく歯ぎしりをする。草壁の頭を占めているのは、妙な焦燥感と苛立ちだ。
 みみっちいなあ、と口の中で、草壁は呟いた。彼はみみっちい、という言葉を気に入っていた。呟いていると、少しだけ焦燥が和らぐ。慰めでしかないものの、全てどうでもよくなってくる。そうだ、みみっちいのだ。全て、何もかも。大勢いる。皆誰かを見下している。それだけのことだ。だから俺も、見下していい。
 薄い雲を割って、光線が降り注ぐ。草壁はモッズコートのポケットに手をつっこむと、中に入れていたスマートフォンに振動があった。取り出して画面を見ると、メッセージが大量に届いていた。草壁の薄暗い目が弧を描いた。ナイトモードに切り替え、再びしまった。
 胸やけのように渦巻いていた焦燥感が、すっと消えてなくなった。具合のよさに顔を上げると、街頭テレビから声が降って来る。高いビルに備えつけられたテレビに目を向けると、逆光に一瞬目が眩む。緑色の閃光が解けていくと、見たくもない――声の主の姿が、テレビに映る。
 眩い、星のような光。プラチナブロンドの髪をかき分け、微笑する。長い睫毛の下にある流し目が、草壁を捉えた――気がした。
 眩暈がした。寒気に似た何かが背筋に走り、反して胃には、むかつきが起きた。
 高校時代からずっと、あの男は巨大な恒星だ。
 木枯らしの吹く季節なのに、日差しはやけに強い。草壁はまた、顔を伏せた。雑踏が彼を圧迫する。眩暈と焦燥感がむら立ち、スマートフォンを握りしめた。
 三星吉真は、同級生だった。
 当時から、スナップ写真を撮られたり、芸能界入りも秒読みだと噂になっていた。実際に在学中すぐスカウトを受け、今や俳優の地位についた。大学も国立を出たうえ、音楽の才もあった。三星は芸能界への道は均されたように開かれていた。そうなるべくしてなったと言える男だ。
 誰からも羨望される三星だが、草壁が最も、苦々しく思っていた部分はそこではない。これで悪い噂の一つでもあれば、あれも人間なのだと諦めもついた。ところが、悪い噂どころか、三星に悪評を立てる人間は皆無だった。誰にでもわけ隔てなく、お人好しだと言われてしまうほど、物事を断ることの出来ない優男だった。委員会でも、部活でも、成人式でも、全く変わらなかった。草壁はそれを遠目で見ていることばかりで、関わったことは殆どない。たまに目があうと、彼は微笑を見せた。席が近かった頃、話題を振るようなこともした。なぜ、まるで関わりのないクラスの端にいる存在の人間にまでそんな振る舞いが出来るのか。それが益々薄気味悪かった。
 草壁は鬱々とした気持ちでアルミ板の階段を上がり、荒っぽくドアを開け部屋に入った。暗がりの部屋に、カーテンの隙間から差しこむ白い日光だけが、ごちゃごちゃと着替えや敷きっぱなしの布団や、借りたDVDの積み上がった床を明らかにしている。埃を被った哲学書が積み上がった隅にナップザックを投げた。パソコンに繋がったままのコードを足で避け、クッションを腰の下に置き、パソコンの前に胡坐をかいた。
 開いたノートパソコンの電源を入れ、いつも通りに掲示板を開きながら、待っている間に、スマートフォンのロックを解除する。SNSのアイコンに、赤い通知マークがついている。「+99」と記されたアイコンをタップし、アカウントを見る。低俗な煽りの見出しで書かれた記事のリンクを貼った投稿、短い動画を載せた投稿――それぞれに多くの反応が見られ、拡散されている。反応の数字は秒ごとに増え、一つの投稿は一万人分の拡散が固いだろうと思われた。どれも草壁が書いたものだ。アフィリエイトサイトの記事や、芸能人のスキャンダルのまとめ、炎上した一般人の顔を晒した記事。迷惑行為をして炎上した大学生のアカウントのIDを羅列したスクリーンショットのまとめ。炎上し、すでに本人が削除した動画のログの再投稿。名前も、アイコンもない、IDも初期設定の、意味のない英字の羅列のアイコンからの投稿。――草壁の、他人の炎上行為を晒すためのアカウントだ。
 世間の人間は誰が発信だろうと、怒りの強いものに反応する。まして言語化され、視覚化されているものであれば、「これは自分の感情だ」と勘違いし、正当化する。反応する時間など数秒あればいい。他人を煽る文章を、見せ方を、草壁は無意識に会得していた。それは当然だった。草壁はいつでも自分が惨めで、あらゆる人間から見下され、そして周りには敵しかいない。そう思いこむことで、自分を肯定してきた。天性の被害者なのだ。
 ダイレクトメッセージを開くと、あらゆる罵倒や、脅迫めいた警告文が並ぶ。最初は草壁も冷や汗をかいて怯えたが、こう毎日届いていれば嫌でも慣れる。実際警察が草壁のもとに来たことはまだない。同じような投稿をするアカウントは他にもあるからだ。とは言え――そろそろこのアカウントも閉鎖するべきだ。凍結されるのが早いか、こちらが消すのか、それだけの問題だ。凍結されれば同機種ではアカウントも作りにくくなる。草壁はダイレクトメールを送ってきたアカウント全てブロックしたうえで、アカウント消去の手順を踏んだ。
 パソコンに向き直る。掲示板の記事への反応も上々、広告収入も小遣い程度入りそうだった。
 草壁は背中を丸め、座高に合わない低いデスクに乗るパソコンのキーボードを打つ。検索エンジンに一文字打つだけで、名前の履歴がすぐに出る。スペックの低い型落ちのノートパソコンが結果を読みこむ間、虚空を見つめていた。
 検索結果の上部に表示される画像欄。三星吉真。今の派手なプラチナブロンドの髪、ブラウン。マッシュルームカットの黒。カラーリング中の写真。社会人風。モデル、パンク、警察。ブレザー姿――恋愛映画の予告。舞台裏オフショット。高校時代の、写真。
 鼻の下を指の背で擦る。上目で睨みつけるように、デスクトップに表示される彼の笑みを見た。草壁は爪を噛みながら、画面をスクロールする。彼の出演する映画を取り上げた記事、オフィシャルサイト、ブログ、SNS、舞台挨拶、試写会、ドラマの視聴率。写真集の宣伝。三星のコメントを切り取った見出し。ざっと見て、特に目についた記事はない。
 今日も目立った悪評は見なかった。サジェストに出るものも、「家族構成」や「ドラマ」、
「演技」、「彼女」。ざっとさらって見たものの、悪意の見出しの割に、大した内容でもなかった。初恋の話。過去の恋。彼は犬派だ、など。どうでもいいことだ。
 背筋が軋む痛みを感じた。
 もう限界だ。草壁は強く目を瞑った。背筋を伸ばし、背もたれがないことを思い出しながら、草壁はそのまま床に倒れこんだ。カーテンの隙間から差しこむ白い光が、身体を真ん中から分断するようにまたがる。
 大抵のWEB記事の見出しは悪印象の方がPV数は稼げる。草壁もやっていること――実際に彼の投稿は内容も悪意のあるものだが――ではあるものの、自分がおめおめと引っかかってしまうのは屈辱だった。
 誰も本気で、三星を食い物にしようとはしていない。彼の人気や話題性のおこぼれに預かろうとするやつらばかりだ。名前を出せば、それなりのアクセス数が稼げる。
 いや、と草壁は思い直す。
 厳密に言えば、いるのだ。自分と同じように、三星に対し悪意を持ってコメントをしたり、アンチスレを作ったりする輩はごまんといる。ただ、圧倒的な数に――三星の女性ファンに、彼を支持するマジョリティに即座に発見され、叩かれ、通報され、アカウントの凍結や掲示板の削除に追いこまれる。数には勝てない。ただの妬み嫉みだと思われる。実際、確たる証拠もない感情論に基づく、主観で書かれた偏見だ。もし三星にスクープがあれば、マスコミは黙っていないだろう。
 だから――自分はそういったことを書きこまない。事実が、噂が、火種が出来るまで。オオカミ少年になるつもりはない。
 スマートフォンの画像を開く。そこに収められている大半が、炎上させるための、晒しの為に集めたものだった。金髪の若い男が泥酔し、道端で丸まって寝こんでいる写真。クラブに女を連れていこうとする、金髪の男。金髪。どれもそれらを、白に近いような、プラチナブロンドに見えるよう加工した写真が並んでいる。
 どれもまだ火種としては弱い。背格好が彼と似ていないものも多い。そのうち三星もまた、髪の色が変わるだろう。そうなれば全て無駄だ。ただの常識のない若者としてまとめサイトに上げるだけになる。
 草壁は爪を強く噛んだ。めり、と裂けそうな音がする。
 三星への憎悪を誰かに語ったことはないが、何故、と問われれば、単純に返すことが出来る。
 彼が同級生で、スターで、そのせいで、自分が惨めだからだ。
 斜光の輪郭がぼやけていく。草壁は充血した目を細めた。うっすらと倦怠感を覚える。浅い呼吸を止めた。秒針にあわせ、ゆっくりと数字を数える。眠ることは難しい。だからせめて、目を瞑る。気が遠のいて、微睡のうちに死ぬように夜を待った。

 深夜にのさばる連中は、もはや人間ではない。社会的地位も、老若男女も関係なく、夜闇に紛れて泥酔した姿を晒す。正しく人間であるのは、連中に絡まれないようにとひっそりと迷惑そうに、無関心に、道の端を歩いている。
 両脇の部下らしい人間に担がれながら、怒声のような呂律の回らない、同じ言葉を繰り返すサラリーマンを横目に、解散を惜しむ若者の集団の隣をすり抜ける。草壁は真夜中の街を歩いていた。
 モッズコートの中にスマートフォンを忍ばせ、背中を丸めてあたりの酔っ払いを見た。深夜帯は草壁にとって宝庫だ。自我が足りない人間を無駄なく写真に収められる。収穫の殆どは道に落ちている酔っ払いや喧嘩ばかりだが、まとめて掲載すればそれなりに見れる。どんなクズ記事でも、見出しとキーワードでそれなりのアクセス数は稼げる。顔の綺麗な人間を狙って写真を撮れば、時々芸能人だったりする。そういう時は、マスコミに売りこめばいい。
 そう思うようになったのは、偶然にもモデルの男女が仲良く酒場通りのゴミ置き場に泥酔して転がっているのを、写真に収めたことがきっかけだった。その時はまだ知らなかったが、SNSに上げてから、マイナーな週刊誌からダイレクトメッセージが来たのだ。就活時には目にも留めなかった出版社だった。まさか金になるとまでは思っていなかったが、入金が確かめられた時、味を占めた。
 不眠気味の彼にとって、夜歩きと、他人の負の瞬間を切り取ることがルーティンだった。もともとは普段の鬱憤を晴らす為にしていたが、SNSの拡散具合やアフィリエイト収入、スクープ写真の価値。こうなると求められている気がしたのだ。
 ――人の不幸を、お前が撮るのだ、と。
 それだけが自分の、存在意義のように思えた。
 彼の焦燥感と、その緩和のためのルーティンがより密接になったのはそれからだった。そして同級生――三星の存在を思い出させ、意識させるのにそれほど時間はかからなかった。やつの正体を暴く。まるでどの角度からもスポットライトが当てられたように影のない、人のいい人気俳優。女子が夢中になる存在。偽善者。三星吉真。同級生だから、信ぴょう性がある。俺は可哀想だから。暴いてやらなければならない。皆騙されている。
 だけれど、証拠がない。――彼に優しくされたこと、くらいしか。
 物音が聞こえた。ビニール袋を潰す音、缶の転がる音、何か金属の音が一気に飛びこんでくる。方向は、すぐ隣の暗闇だった。
 路地裏に入りこむ。街灯は少なく、しかも古い蛍光灯だった。飲み屋の通りの裏側は室外機と、蔦のように壁につく無機質な配管が並ぶ。それ以外は、しんとして気配がなかった。路地裏は奥に、長く続いていた。先の暗闇は見えない。遠くから視線を戻した。ゴミ捨て場に、投げ出したスーツと革靴が見える。草壁はスマートフォンを取り出し、明るさの設定をしながら、ゆっくり酔っ払いのもとに近づいた。サラリーマンの脚は青白い街灯に照らされている。
 何かが違う、と、手前で気づいていたが、無視していた。
 スマートフォンのカメラを向けた瞬間、草壁は一瞬、目を見開いた。
 まず目に飛びこんだのは、全体的に腫れた男の顔だった。頬、左瞼、唇からの出血。年齢は、中年――石島と同じくらいのようだ。よれたスーツには吐瀉物と血が混じりあった液体が滲んでいる。
 草壁はすんと鼻を鳴らした。酒のにおいがする。男が酔っているのは間違いない。草壁は屈み、男の頬を恐る恐る、指先で叩いた。ひやりとして、脂汗をかいている。脈と息はある。気絶しているだけのようだ。男の肩に触れると、彼は小さく呻いた。
 草壁はぎこちなく立ちあがり、震える手をひっこめた。急激な動悸と共に、脳が血の気が引く感覚があった。自分もひどく、冷や汗が浮かんでいるのに気づき、手の甲で顔を拭った。
 ぶるぶると痺れた手のまま、男の写真を撮った。カシャリ、と異様に、音が響いた。
 警察、救急車――混乱したままスマートフォンとあたりを見比べた。何故路地裏にいたか、説明を求められると思うと厄介だった。とにかく他に人がいないか。そう思った瞬間、裏口からソムリエエプロンをつけた若い男性店員が姿を見せた。
「あの――あの」
 草壁に声をかけられると、夜勤の疲れでぼんやりとした反応を見せたが、草壁の示した男の姿を見て、はっとして駆け寄った。大丈夫ですか、と声を掛け続け、介抱の体勢に入った。自分よりもしっかりと対応が出来ていたため、草壁は救急車の連絡だけ入れ、その店員に任せた。元の道に戻ろうと振り返った。数人、チラチラと覗きこんで、スマートフォンを構えていた。
 草壁は後ずさり、路地裏の暗闇に向かって歩いた。街灯の電気が切れていて、先は暗いままだった。クラブから音漏れが聞こえ、建物の隙間から、表通りにあるコンビニやインターネットカフェの光が入りこむ。その明かりを頼りに、草壁は足を進める。
 まだ、心拍が不規則に音を立てる。具合が悪い。貼りつく汗が冷えて、身震いした。
 暗がりは細く狭まるトンネルのようだった。浅い呼吸のまま、ぐっと身を縮め、足元を見つめて、徐々に足を速める。
「おい」
 男の声が聞こえ、びくりと足を止めた。聞こえた方向は、暗闇からだった。目だけを上げると、闇の向こうにうっすらと、複数人の脚が見えた。コンクリートに、金属がぶつかり、擦れる音が聞こえる。物音が聞こえた時と同じものだ、と草壁は本能的に感じた。
 一瞬、光が横切る。トラックの走り去る音が聞こえた。放射線のように路地裏に光が満ち、声の主のシルエットを見せた。草壁は、そのシルエットの足元に、鈍い金に光るものを見た。
 じゃりじゃりと擦るように歩き、集団は姿を現した。不良集団と称するべきだろう、五人の若い男たちだった。派手な服を着て、薄ら笑いを浮かべている。真ん中にいるリーダーだろう男は、痛んだ金髪と、その色によく似た金属バットを引きずっていた。それぞれ、草壁の姿を見ては嘲笑を見せる。草壁は猫背の痩せ型の、青ざめた男だ。彼らにとってカモだといっていい。
 草壁は首を引いて、その金髪の男の顔を見た。どこか、どこか――見覚えがある。
「あんた、写真撮ったやつだろ」
 そう聞かれ、思い出した。酔っ払って、暴れていた男だ。草壁が撮っていることに気づき、絡んできたやつだ。襟首を引っ張られ、至近距離で見たのだから間違いない。あの時は人通りの多い時間帯で、すぐ警察が飛んできたため、草壁は逃げることが出来た。そうして撮った動画は、一万人に拡散され、草壁は多くの同情を得て、男はネットワーク上で断罪された。ダイレクトメッセージに脅迫文を送ってきたのは、この男だ――。草壁の目は、無意識に歪な痕がある金属バットを注視していた。あの気絶した、サラリーマンの姿がよぎる。
 草壁は、ぐらついて後ずさったのをきっかけに踵を返した。転びそうな一歩を踏み出し、溺れるように空を掻いて走り出す。若いが、ドスの聴いた低い怒声が背後に響いた。
 草壁は蝋のような真っ白な顔で、都度、見る余裕もないが背後を振り返った。確認できるのは追い立てる男たちの声とバタバタとした足音だけだ。
 道を戻ると、サラリーマンを見つけた場所にまだ人が集まっていた。むしろ、人だかりが道を塞いでいる。草壁は人を押しのけ、詰まったパイプのような人だかりを抜けて表通りに出た。
 何故ああいう集団は、いちいち声がでかくて威圧をするのか――走りながら、そうどこか冷静な自分がいた。鳩尾にうねるような気持ち悪さが貯まり、肺がベコベコとへこんでいる気になる。渇いた喘ぎが喉から絞り出される。
 チェーン店の眩しすぎる電灯に目が焼かれ、緑の残光を瞬かせながら、無我夢中で逃げた。どこに――どこに隠れればいい。相手は五人もいた。どこかで挟み撃ちにされる。草壁はあたりを見渡し、道路を挟んだ向かい側にある路地裏を見た。赤提灯の光がぼんやりと浮かんでいる。考える間もなく、その光に向かって走った。
 居酒屋とバー、フィリピンマッサージや創作居料理店、ラブホテルの看板が乱立する路地だった。祭のようなカラフルな光が、ふらつく草壁を染め上げる。草壁は近場にあったバーの置き看板に身を隠した。深夜であるため、少し耳をすませば乱雑な足音が聞こえてくる。草壁は顔に苛立ちを露わにして看板に額をつけ、熱の籠った息を吐いた。鉄の味がする口腔を渇いた舌で撫でた。
 ふいに店の方向を見ると、地下に向かって狭い階段が続いていた。どうやらバーはこの先にあるらしい。
 遠くから怒号が聞こえる。草壁は感覚のない足で滑るように階段を降りた。
 上品な黒の扉に金色の丸いドアノブがついた、アンティークのようで、どこか入りにくい雰囲気だったが、そうも言っていられない。草壁は扉を開けて店内に滑りこんだ。

 ドアベルが強く揺れ、深夜の秋風とともに入ってきたモッズコートの男を、店内の客は注視した。
 橙色の照明に染まった、檜の香りがする、異空間と言って差し支えないような、洒落た雰囲気の店内には、黒のダイニングテーブルやカウンター、壁際には沢山の種類の酒の瓶が並んでいる。クラシックはレコードから流れていた。いかにも穴場、通の隠れ家といったところで、扉よろしく上品な客層だった。――扉に張りついている草壁は異物だった。
 草壁は隈のある目を見開き店内を見渡し、荒い息を整えた。ぎこちなく扉から離れる。黒いシャツを着た妙齢の女性の店員が、草壁に話しかけた。草壁はポケットを触った。目を泳がせ、顔をあちこち触る。
「あ……その……」
 財布を持っていない。草壁はさっと血の気が引いた。口を噤んでいると、周囲は少し奇異や好奇の目を向ける。
 草壁は瞳を揺らした。
 どれも――どの人間も同じだ。着飾って、繕っても、どうせ皆同じだ。自分より劣っているものがあれば、見下すのだ。
 気が遠くなりそうだった。具合が悪い。足の力が抜けて、へたりこみそうになる。ぐるりと回る視界の端で見た、姿は、夢かと思うほど眩かった。
 その白にも近い金髪と、白いタートルネックに質のいい灰のニットコート。整った顔立ちの男は、距離があるにも関わらず、草壁と目をあわせ、きょとんと、目を瞬かせていた。
「……草壁?」
 近づく三星の声に答えることもなく、ぼんやりと彼の顔を見た。同時に啞然としていた。まさかやつが自分の顔も、名前も覚えているとは思わなかった。鼻腔にシトラスの香りが広がった。
 草壁よりも背が高い三星は、大きく見開いた琥珀のような目で草壁の姿を上下に眺めた。
「やっぱり草壁だ。草壁智。でしょ。 他に誰か来んの?」
 草壁は曖昧に振動のように首を振った。縦だか横だか、朦朧としていてわからなかったが、三星はそっかと微笑を浮かべて頷いた。
 三星は店員に柔らかな笑みを向け、弾んだ声で「連れです」と言った。
「あ、モヒート、二杯で」
 彼がそういうと、女性の店員は少し頬を上気させ、了承の意を見せた。
 草壁は三星の手に背中を押され、彼がいた席に案内された。壁際のテーブル席で、ひっそりと人目につかない場所だった。空のグラスが置かれた方に三星は腰を下ろしその向かい側に、草壁はのろのろと腰を下ろした。
 草壁は落ち着くと、全身に汗が滲んでいるのを感じ、不快さと、居心地の悪さに身じろぎをした。
 三星は軽く頬杖をついて、興味深げに草壁の顰められた顔を見た。
「すごい汗だね」
 ケアされた爪が長い指の先に見える。言葉に視線を向けると、三星の指が草壁の前髪を払った。ふいに触れた皮膚の感覚に身を震わせ、反射的に身体を引いた。
「――か、か、帰る」
 草壁が顔を伏せ立ちあがりかけたのを、三星が引き留めた。
「久しぶりだし、そんなつれないこと言わないでさ」
「財布がない」
 顔を逸らして、早口にそういうと、三星は目を瞬かせ、小さく笑いながら草壁の両肩に手を置いた。長い指にくっと、柔らかく力が入る。
「じゃ、おごっちゃおうかな」
 そう言いながら草壁を席に押しこめ、店員が持って来たモヒートを受け取った。
「僕も一応芸能人だしね」
 長財布を振って悪戯っぽくはにかんだ。嫌味どころか、その警戒心のなさに呆れ、眉を顰めた。
 しかし呆然としていた思考が徐々にはっきりとしてきて、本来抱いていた警戒に変わっていく。今すぐ逃げ出したい。足に溜まる疲労と喉の渇きが、差し出された冷えたモヒートを魅力的に見せる。ストレートグラスに注がれ、ミントが添えられている。
 草壁は喉を鳴らした。グラスを手に取ると、火照った体温に心地いい冷たさが手のひらに伝わる。ちらりと三星に目を向けると、彼は先にモヒートに口をつけていた。
 どうせ、おごりだ、この男におごらせたのだ――そう思って目を瞑り、ぐいと飲んだ。強い酒の香りが鼻腔に抜け、根を張るような痛みと共に、酒の味が喉に落ちていく。そうして一瞬の爽快を経て、草壁は息を吐いた。
 グラスを置いて、ポケットの上に手を置いた。スマートフォンの固い感覚に、はっとした。三星の顔を見る。すっかり、郷愁を帯びたような穏やかな笑みを草壁に向けている。
「たす、かったよ」
 草壁はぎこちなく頬を吊り上げた。なるべく、親しく、振る舞おうと、大げさに目を見開いた。
「――行きつけ、なのか?」
「結構常連かも。草壁はこの辺に住んでるの?」
 三星はずいと身を乗り出す。
「……や」
 曖昧に首を振った。少し俯き、視線を彼の指先に落とす。目だけを上げると、三星はまっすぐ目を見ようとしてくる。嘘をつかなければ。本当でもいいのか。主導権を取られるな。草壁は殴られているような鼓動を抑えようと息を飲んだ。
 この男に話しかけられただけで、大半の人間が喜んで心を許した。整った顔立ち、人がよく人気者、誰からも愛される憧れの存在。そんな人間に興味を持ってもらえたのだと、自尊心の回復がまざまざとわかる表情が見て取れた。高校時代、そんなやつらの顔ばかりを見ていた。うんざりだった。自分は、そうはなりたくない。やつらとは違うのだ。
 心臓から伝わる震動が全身を脈打たせる。草壁は背中を丸め、上目で三星の顔を見た。大きく、はっきりとした目の下の涙袋が少し膨らんだ。
 草壁は顰めるように目を細めた。オレンジの色が強すぎるランプの光が、三星のシルエットを縁どる。
 ああ、嫌いだ。この余裕気な態度が、パーソナルスペースの狭さが、酷く心を逆撫でする。しかし、スクープが取れるかもしれない。このチャンスを逃さないわけにはいかない。
「そう、なんだよ、ここ、ずっと来てみたくて」
「なのに財布忘れちゃうなんて、うっかりだなあ」
 そう言って三星は笑った。頬にかかる絹のような髪をよけ、白い歯をうっすら開いた艶めいた唇から覗かせる。どの瞬間を切り取っても絵になる男。だから、目を逸らしたくなる。
 草壁は唇の内側を噛み、ぎこちなくまた頬を吊り上げる。
「げ、芸能人とか、よくくんの」
「どうだろ。ここは先輩に教えてもらったけど」
 指を折って、草壁でも知っている有名な俳優の名前を上げた。こんなに口が緩くて今までよくスクープが出なかったものだ。草壁はそう思いながら、スマートフォンを操作して動画を起動した。
「本当久しぶりだね。どうしてた? 話したいと思ってたんだけど、連絡先知らないからさ」
「どうって――まあ、やってるよ、何とか」
 草壁は明らかに声を低め、濁すように言った。
「仕事は、何してんの?」
「別に何でもいいだろ」
 明らかに苛立った声をあげると、三星は少し弱った声でええ、と声を上げ、唇を尖らせた。ちょっと考えるようなそぶりを見せ、モヒートを飲んだ。
「僕、結構いろんなとこ行くから、どこかで会えるかなって思ってさ」
「不定だよ、――仕事場所は」
 清掃業者――と言うのは、草壁にとっては満足していない職業だった。同僚のように真面目に掃除に向きあったことなどないし、やりがいだって見いだせない。ただ唯一の内定先だったと言うだけだ。本当は、と、歯ぎしりした。
 まして、三星に教えるというのも、耐えられない。今までテレビ局に向かう曜日だけは、休日シフトにし続けていたのだ。
「お前が、嫌がる仕事」
「――週刊誌?」
 三星は少し眉を寄せ、声を潜めた。拳を揃えて置き、その上に身を乗り出す仕草が犬っぽい。
「そう、そう」
「ええ、困るなあ」
 そう言いながらも、笑みを見せた。プラチナの髪をかき分け、こめかみの生え際を晒す。ほんのりと色づいた肌で、酔いが回っているのだとわかった。
 ごまかせた。そうだ、ジャーナリスト。こいつのスクープが取れたら、夢じゃないかもしれない。草壁は内心高揚し、動揺を隠すように得意げにけしかけた。
「ほ、ほら、何か、ネタくれよ。同級生のよしみでさ」
「って、言ってもなあ」
 髪を混ぜ、居間でくつろぐようにテーブルに突っ伏し、スマートフォンをいじった。少し身を乗り出してきたため、草壁はテーブルの死角に隠していたスマートフォンを下げた。
 三星が見せてきたのは、犬の写真だった。黒い毛並みの、雑種らしい。
「こないだ実家の犬にあってきたんだけど、可愛いんだ。元々野良だったからさ、ちょっと甘え方がひねくれてるのがまた可愛くて」
 惚気のように甘い声を出す。草壁は一瞬呆気に取られたが、茶化されたような気になり、かっと頭に血が上るのを感じた。
「そうじゃなくてさ」
 段々と高揚が抑えられず、草壁は貧乏ゆすりを見せてにやついたまま舌打ちをした。
「芸能界なんて、モデルとか女優とか、選び放題だろ。浮いた話の一つでもないの」
「僕?」
 三星は目を瞬かせた。まるで見当違いの事を聞くな、と言うように。そうして困ったようにはにかみを見せる。
「三星吉真以外に誰がいるんだよ。大注目の若手スターのさ、彼女がどんなやつなのか、皆気にしてる」
「いないんだよ、本当に。あの記事も全部でたらめ。友達だって」
 表情を曇らせ、頬杖をついた。それなりに写真はすっぱ抜かれているらしい。このままいけば、何か一つくらいは口を滑らせるかもしれない。草壁は気をよくした。
「頼むよ。ネタがないとさ、こっちも困るんだ」
 そう口にしながら、草壁はすっかり自分の職業が騙りだとは思わなくなった。つま先を揺らし、背もたれに身体を預ける。モヒートを煽り、グラスを置いてテーブルに手を投げ出した。
「じゃあさ」
 その手に、するりと指の長い白い手が忍び寄った。柔らかな重みが、グラスで冷えた皮膚にじわりと体温が滲みながら、草壁の手を包んだ。
 怪訝に三星を見ると、彼はやや表情を固くして囁いた。
「じゃあもし、草壁が好きって言ったらどうする?」
「は、冗談」
 草壁は一瞬顔を引きつらせたが、鼻で笑って目を逸らした。焦る手の上に置かれた三星の手の指先が、微かに動く。皮膚の感覚が、温度が、繋がれた手に伝わってくる。
「結構本気だよ。高校の時から、思ってた」
「な、何で――そんな、嘘つくんだ」
 草壁は手を引き抜こうとしたが、強く摑まれて、出来なかった。三星の手の甲が筋張る。じわじわと得体の知れない感情に飲まれ、全身の血が騒ぎ出した。草壁は椅子を倒す勢いで立ち上がり、三星に背を向けようとした。摑む手に、より力がこめられた。
「嘘じゃないって」
 どうにも、本気の声色に聞こえてならない。耳を塞ぎたい。
「接点、ない、だろ」
 顔を逸らす。黒い髪が、三星の視線を遮断する。
「哲学の授業、取ってただろ。僕は単位足りなかったからだけど、草壁はさ、ちゃんと理解して聞いてただろ。あの時すげえいい顔しててさ、草壁、いつも一人でいたから、どんなやつか気になってたんだ。話したいって思ってたよ」
「嘘だ」
 草壁は俯いた。耳の裏が脈打つ。頭が痛い。胸が痛い。胃のあたりが熱い。酒のせいだ。
 繋がれて宙ぶらりんの手を草壁は握りこんで拳を作った。
 周りの視線が二人のいる一画に向いている。驚いて向けるもの、耳をそばだてているもの。いたたまれない気持ちと、混乱した、理解の追いつかない現状に、草壁は視界を揺らした。
「ずっと見てた。話しかけると、いつも逃げるだろ。だから……つい目で追っちゃってさ、それで……」
 三星は神妙な顔つきで、そう言って瞳を揺らした。言葉を止めて、瞳孔を開く。その刹那の表情があまりにも、切ない、男が見せる顔だった。草壁は驚きと共に、強い動悸を感じた。
「嘘だ……」
 心臓が、自分のものではないくらい、激しく内側から叩いてくる。目の縁が焼けるように熱い。視界がぼやけていく。草壁はさらに俯いて、黒く、柔らかくうねる髪を揺らした。
「じゃあ、どうしたら信じてくれる?」
「だ、だって……俺は」
 今すぐ逃げ出したかった。足が暴れ出しそうになる。浅くなる呼吸と、みるみる体温が上がるのが感じられる。それが、堪らなく情けない。また、惨めにさせられている。
 わからない。もう、わからない。こいつは本気なんかじゃない。そもそも、男じゃないか。からかっているだけだ。俳優なんだ。もしかしたら、カメラを仕掛けたドッキリなのかもしれない。俺なんか。スクープを、撮って、俺は――
「ねえ、草壁。好きって言ったら、どうすんの」
 三星の声が、やけにはっきりと耳に届いた。
「うるさい!」
 草壁は絞るような声で怒鳴り、手を振りほどいた。勢いでグラスを弾き、床に落とす。割れる音と、酒が広がり飛沫をとばす音が、三星の動きを止めた。
 店内は一瞬、静寂に包まれた。
 草壁は肩を上下させ、荒い息を吐いた。騙されるな。騙されるな。そう繰り返し、小さく、唇だけで呟いた。
「そんな訳ないだろ……」
 指を差しこみ、ぐしゃぐしゃに髪を掻き回した。ぎょろりと、濡れた目で三星を睨みつけた。何かが破り出てくるかのような鼓動は消え、締めつけられるような狭さだけが、内臓を圧迫している。
「好きになんかなるはずない」
 三星は何も言えず、曖昧に口を半開して固まっていた。
 草壁はスマートフォンを構えた。写真――フラッシュをオンにし、三星の顔を真正面から撮る。真っ白な光に、三星は反射的に目を瞑って手をかざした。
 手ブレした写真が、画面に収まった。だが、彼の顔はわかる。それに撮れたかどうかの事実は、今の草壁には関係なかった。草壁は、喉から咳のように笑い声を絞り出した。周りの客は少しざわついているが、二人の間に入ろうとする人間はいなかった。
「ざまあ、みろだ。音声もある。これが世に出たら、どれだけのやつらが、裏切られたって思うんだろうな。三星吉真が、ホモでしたって、言ってみたら、どうなるんだろうな」
 草壁は目を見開き、当てつけのように叫んで吐き捨てた。びりびりと痺れるように鳥肌が立つ。溜まる涙が落ちていかないよう、瞳を揺らす。
「俺は――ずっと嫌いだったよ。お前みたいな、キラキラしてるやつは」
 顔を歪めて、何故か掠れた声が、弱くこぼれ落ちた。無意識に力なく笑みがこぼれ、草壁は空っぽになったような感覚に、少しの間呆然とした。
 周囲に意識を向けると、注視されていることに気がついた。草壁は少しだけ狼狽し、奥歯を噛んだ。スマートフォンをポケットにつっこみ、三星に背を向け、扉に向かった。
「草壁――」
 声に一瞬立ち止まった。そしてすぐ、扉を勢いよく開き、ドアベルを鳴らした。

 街の喧騒は消え失せ、沈殿したような静けさが満ちていた。星が遠のいている。天高い秋空は、濃紺に染まっている。ガードレールにもたれかかるサラリーマンや、ビルに続く小さな段差に腰を下ろし眠る酔っ払いが寝息を立てている。深夜巡回をするパトカーがのろのろと車を脇道につけ、酔っ払いたちをはたき起こしている。
 草壁は小さく首を縮め、少し足を速めて通り過ぎた。
 足の感覚がない。バーを飛び出してから、でたらめに街を走り回った。底冷えするような夜の空気が、肺に満ちる。酒の抜けない火照った身体に汗が浮き出る。鳩尾に不快なせり上がりを感じてようやく、足を止めた。大通りの角を曲がり、建物に手をつき、空嘔吐を繰り返した。
 アスファルトに、数滴染みが落ちた。口からと、目の縁からこぼれた。
 充血した目が痛む。顔を顰めると、涙が熱を持って頬を伝っていく。草壁は手の甲で顔を拭った。それでも、止めどなく溢れてくる。鳩尾から押し出される熱い息に苦しくなり、ずるずるとその場に屈んだ。
 ――どうする、なんて。
 俺にどうしろっていうんだ。
 草壁は髪を乱し、頭を抱えた。あのように言われるなんて、誰が思うか。三星から言われるなど、あり得ないことだった。全身の血が攪拌されている感覚が草壁を包む。白昼夢を見ていたような、浅い悪夢を見ていたような気がする。実際酔っているのだ。久々の睡眠で、本当に今、夢を見ているのかもしれない。
 ポケットからスマートフォンを取り出した。画像欄には、バーでとった動画と写真が残っている。三星の写真を開き、眺める。真っ白な髪色。顰めた顔。これが、本来向けられるべき顔だ。草壁は腫れた瞼を瞬かせ、画像を拡大した。また少し、視界がぼやけてしまう。
 本当は。
 本当は、彼と笑いあってみたかった。
 けれど、そんな資格は自分にはない。いざ会ってみて、思い知らされた。
 住む世界が違う。せめて、嫌いでいたかった。嫌いだ――嫌いでしかない。自分は惨めだ。
「――みみっちい、なあ」
 小さく震える手を見て、草壁はぽつりと呟いた。
 三星の手は温かかった。たとえ彼にとって気まぐれでも、嬉しかったのだろう。同時にひどく、辛かった。手負いになる前に、本気にしてしまう前に、彼の前から逃げ出した。
 せっかく差し出された手を、拒んでしまった。冗談だったとしても、もっと――気の利いた返しがあった、と、冷静になれば思える。友達になる最初で最後のチャンスだった。あの時の、三星の表情は、思い上がりだと首を振った。
 画面に雫が落ち、液晶を歪ませる。大型トラックが道路を通り抜けていく。
 その音で気づけなかったのだ。
 右肩に、背後から強い衝撃が走った。鈍痛。よろけた草壁の身体に、追随して脇腹に、同じ痛みが、鈍い音と共にくる。持っていたスマートフォンは弾みで飛ばされ、暗闇の先に滑りこんだ。
 草壁はうつ伏せに倒れこんだ。鈍痛が突き刺すように、部位から全身に広がっていく。首だけを動かし、視界の端で何が起きたのかを確認する。歪な、小さなへこみが虫の巣穴のようについた、金属バットが振り上げられるのが見えた。あの連中、まだ――そう思ったと同時に、後頭部が殴打される。一瞬の痛み、熱。眩暈がした。耳の内に笑い声が反響した。籠っている。遠くで鳴り響いているような響きだった。
 強烈な眠気に襲われたように、草壁は目を回した。ブラックアウト寸前だった。周りにたくさんの足先が見える。脇腹を足蹴にされ、力のないまま転がされた。仰向けになった草壁のだらりと緩んだ顔には、鼻血と、唇を噛んで切った出血があった。息が出来ない。腕も上がらず、血を拭う力さえない。霞がかかったような視界に、金髪の頭が見えた。三星のような白い、綺麗なものではない。怒号が聞こえるが、草壁には、何を言っているのかはわからない。ただ、やっぱり、お礼参りなんだろう、と、胸倉を掴まれて引きずり上げられながら思った。鳩尾に膝を入れられた。そのまま地面に雪崩れ落ち、立ち上がることもせず、草壁はうずくまった。叫ぶことも、逃げることもせず、小さく、呻くように、唇で呟いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 命乞い、と彼らは捉えただろう、小さな謝罪は、誰のものでもなく、ただ、空に向かい、祈るように繰り返された。電灯の真っ白な光が、ぼやけた視界の中、唯一はっきりと見えるものだった。眩しい一番星のように、草壁の目には映っていた。
 こんな夜更けに、誰も通報者など出ないだろう。殴打を受ける間、そうぼんやりと思う。
 鉄と塩辛い、少し苦い味がした。目の端に伝った涙が、草壁の口の中に落ちた。
 急に、身体に襲う打撃が止まった。すでに視界が狭く、横たわっている草壁には、慌てて遠のく若者たちの足元しか見えなかった。何かを叫んでいる。赤い光が見えた。警察が来たのか――徐々に、サイレンの音が聞こえてきた。まだ遠いような気もするが、聴力は回復してきた。一つ知覚がはっきりしてくると、今度は痛覚まで、全身を蝕んできた。身体を起こすこともできない。足音が聞こえた。警察官だろうか、それとも救急隊だろうか。そうぼんやりと思っていると、身体が抱き起された。鼻血でわかりにくいが、つい最近、嗅いだことのある香りがした。
 霞んだ目でも、至近距離で顔を見ればわかる。草壁を支えているのは、三星だった。肩を上下させ、草壁の顔を触り、覗きこんでいる。彼の血を袖で拭い、「ごめんね、ティッシュなくて」と息と掠れた声で告げた。熱の籠った身体。三星が、走ってきてくれたのだとわかった。
 また、目が熱くなるのを感じる。
「救急車ももうすぐ来るから」
 赤いランプの光がちらつく。警察は集団を追っていったらしい。
「……何で」
 掠れた声が漏れた。三星は少し顔を顰め、草壁を正面に向きあわせ、背に腕を回した。全身が痛みにまみれる中、柔らかなコートの感覚と、服越しの彼の体温が伝わる。これほど、優しい感覚に包まれたのはいつぶりだろう。肩に触れる手、心臓の音。ずっと欲しかった、人のぬくもり。心が剥き出しにされていくような恥ずかしさが、涙を押し出した。
「うちの、犬の話なんだけど」
 三星は肩越しに、ぽつりと囁いた。温かい息が首にかかる。
「元々、野良だって言ったでしょ。それなりにひどい目にあってきたみたいで、中々開いてくれなくてさ。ずっと思ってたんだよね――可哀想だなあって」
 朦朧とする意識で、草壁は耳を傾けていた。何だろう。痛みで、よくわからない。何を言っているのだろう。聞こえているが、脳が理解しようとしない。
 首に、唇が押しつけられる。痛む皮膚が、熱されているような感覚になる。
「すごい怯えた風に、僕のこと見ててさ……全然懐いてくれなかったんだよね。今はすっかり懐いてくれたけど。でもさ――むしろ可愛いんだよね。こっちが何もする気がないのに、勝手に敵だって思って、さ」
 草壁の右肩に痛みが走った。三星の手に力がこめられている。めり、と細胞の破壊されるような激痛に顔を顰める。
「い、痛い――痛い、よ」
「キャンキャン鳴いて、逃げ回るんだよね――」
「痛いよ、三星……」
 肩に触れる息が荒くなる。草壁の腕は痛みで吊り上がる。肌が熱い。誰の体温だ。血が引く感覚に、ようやく、意識がはっきりしてきた。
「本当に惨めで、可愛いんだ」
 三星は身体を離し、草壁の顔を覗きこんだ。
 草壁は目を見開き、唇を震わせた。
 慈愛に満ちた、恍惚に溶ける笑みだった。それなのに、三星の瞳には一度も見たことのない暗い光が宿っている。草壁は肌が粟立つのを感じた。
 三星は再び草壁の肩に顔を埋め、熱く長い息を、緩めるように吐き出した。
「これからは僕が守ってあげるから、ずっと惨めでいていいよ」
 草壁の全身が、一瞬凍りついた。
 は、と、声にならない息が漏れた。次々と、浅い息が、咳にもならない息が強く、押し出される息が吸えない。身体が痛い。涙が零れて仕方がない。
 救急車のサイレンが聞こえる。走り来る複数の足音を聞いた。赤い光があたりの景色を照らしている。
 渇いた喉がひゅうひゅうと鳴る。右肩に走る痛みが全身を蝕む。柔らかな毛布に包まれたようなぬくもりがあるのに、草壁の身体は嫌な汗が滲み、冷たかった。
 街灯の光が、朦朧と揺れ、瞑った瞼の裏で残光に変わる。三星は気絶した草壁の頬を撫で、抱き寄せた。
 時計の針が重なるように、道路に伸びる長い影が一つになった。

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