【おはなし】ヤギと結婚した王子


 ある豊かな国で、王子様の婚礼が行われた。
 王子は親族の若者たちの中で、最も結婚が遅く多くの民から心配されていた。
 これで安心国も世継ぎも安泰だと、民衆は喜んだが、だれもその妃を見たことがない。それだけが気がかりであったが、偉い人間の顔など、誰も覚えてはいないので、大した問題にはならず、かわりに「どんな美しい人なのだろう」と空想論議が多く交わされた。
「きっと雪のように肌が白く、絹のような髪の女性だ」
「笑顔が眩しく、わたしたちにも優しい心がけをしてくださる」
「平民出身だと聞いたが?」
「そんなわけがあるまい。きっと遠い国の姫君さ」
 違いない、違いないと、街中で賑わいが広まっていた。
 街角で従者は聞き耳を立てる。鋭い目をさらに細くしまぶたをぴくりと震わせ、路地に隠れるようにして、城へ戻った。

「王子!」
 憤りに身を任せ、従者は王子の休む部屋の扉を破る。
 王子は天蓋付きのベッドと向き合っていた。従者の無礼な振る舞いに驚き、愚者め。と思いつつも、何も言わずに目を向けた。
 従者の視線は王子を飛び越し、その向こうのレースカーテン——のまた向こう側にある。
 影は微かに蠢いて、レースの裾をもぞもぞと押す。
「驚かせてしまったね。いい子だ。いいこだ」
 王子は影を優しい声で宥めた。それがまた、従者の癇に触る。
「まだ戯言を続けるおつもりか。それとも本当に気が違われたか」
「私は平素変わりないよ。熱に浮かされてもいない」
 呆れたような口調で吐き捨て、王子は従者に向き直った。首を傾げて、ペンダントを揺らす。
「私が誰と結婚しようと、君に何の問題がある?」
「国の問題です。政府の問題です。すべての問題となり得ます」
 王子はちっと舌打ちをして、大きく両手を広げて天を仰いだ。
「これだから王子など!」
 足を踏み鳴らし、従者に向かって脱ぎ捨てた靴を投げる。王子は整った金の髪を乱して、
「さっさと逃げればよかった!」
 と喚いた。
 靴を顔で受け止めた従者は王子を睨みつけた。
 政治の才はいち秀でているのに、何故他はあまりにも未熟なのか——。
 これでは王の器足り得ない。自らの価値を、意志の重要さを理解していない。
 それでも従者は、彼が王になるべきだ。ならなければならぬ。それが国の意向であり、王の、王妃の、望むことだからだ。
 従者は王に尽くし、王子にも尽くしてきたつもりだった。しかしこの若き身勝手な振る舞いには手を焼く。まして、とうとう結婚を決めたかと思えば、馬鹿を晒してきたのだ。
 カーテンがなびき、黒い影が姿を表す。
 真っ白な体毛、王子の膝ほどに頭を置き、その四角い瞳孔で従者の姿を認めた。ヤギは小さく鳴き声を上げる。
 王子はヤギと結婚をした。その事実を知る者は家族、そしてその従者たちのみ。
 彼らはこの醜態を、国民に晒すまいと口を噤んだ。
 王子は幸せだった。愛するものと暮らすことができる。それだけで彼は満たされていた。
 ある日の夕方、ヤギは死んだ。
 部屋にいないと慌てた王子が、白の裏庭で、血を吐いて横たわるヤギの姿を見たのだ。もうその時には、瀕死だった。
 王子は激昂し、裏庭にいた使用人を斬りつけ、兵士に抑えられてもなお彼は叫びつける。
「死んだ! 誰かが殺した! これは反逆だ、誰が殺した、言え、言わねば、この城全員の首を落とす! その家族も全員だ、全員……」
 目は血走り、悲痛な声を滲ませる王子に、同情する者はいない。ただ、恐怖にすくみ、言葉を発せず佇むばかりだった。
 王子は部屋に閉じ込められた。牢獄へ入れることは、王が許さなかった。
 彼の部屋の前を通るたび、およそ人間とは思えない呻き声を聞いては、使用人たちは震えていた。

 その夜。
 従者は、納屋を片付けに行った。
 あのヤギの死体を納屋に置き、王子の知らぬところで、始末しようと思ったのだ。
 王子には悪いが、国も体裁というものがある。それは王子の恋よりも大事なものだ。
 王子が外の用事がある間に、ヤギを連れ出し、守備よく仕留めた。食事に毒を混ぜる。たったそれだけのことだ。
 ヤギに罪はないが、王子に気に入られてしまったことが罪なのだ。
 納屋の扉を開き、従者は目を疑った。
 そこにヤギの姿はなく、真っ白な肌の、若い女性が横たわっていたのだ。
 驚いて駆け寄ると、口元には乾いた血の跡がつき、すでにその女は息絶えているようだった。
 白とも見紛うような金の髪が、まだあどけなさの残る寝顔のようにも思える、儚い死に顔にかかる。
 いったい、なんだというのだ?
 自分はいったい、なにを、殺したのだ。
 錆びた蝶番が揺れる音がした。月光が広がり、従者の影が女性を覆うように伸びる。生ぬるい風が吹き抜けた。
「私の妻だ」
 振り返ると、立派な角を携えた真っ黒なヤギが、月明かりを背に立っていた。
「殺したのはお前か」
 低く唸るような、掠れた声がヤギの喉から発せられた。
 従者は震えた。
「お前か」
 従者は答えられず、腰を地面に打ちつけた。
 黒いヤギは真っ白な女性の元へ歩み寄り、もう目覚めない彼女の頬に額をこすりつけた。
「夜に、お前と会わせるべきだった。だが夜は、私がいないのだ」
 ヤギはそう低く呟いた。
「もう全てが遅い」
 器用に女性を背に乗せ、ヤギは、ゆっくりと従者の隣をすり抜けていく。
「ま、待て、どうする気だ……」
 ヤギは少し立ち止まり、「朝になればわかる」と告げた。少し振り返ったヤギの首に、きらりと光るものが見えた。

 翌日の朝、従者は全て知ることになる。
 自室のベッドで、納屋にいた白い女と、息絶えた王子の姿があった。
 使用人たちは大騒ぎになるなか、従者だけは、静寂の中にいた。
 なぜ気づかなかったのだろう。
 あのヤギの胸に光ったあれは、王子のペンダントだったのだ。

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