【小説】迷彩

 渡り廊下に続く扉を開けると、熱気が身体にまとわりついた。夏の日差しはあまりにも強く、今日の最高気温は今週で一番高い。肌に湧く汗は気にしても消えるわけではない。そもそも、考えることも嫌になる、この暑さなのだ。
 蝉の声は少ないが、渡り廊下は中庭の木々に囲まれている。すぐそばでアブラゼミが、力の限り鳴いていた。
 一体あの小さい体躯のどこをどう振るわせれば、こんな声が出るのだろう。
 竹町英司は本を小脇に抱え、声の聞こえる木を見上げた。鳴き声の主の姿を探そうと、眼鏡越しに目を細める。眩しさと相まって、その姿を見つけることは出来なかった。
 目を瞑るとちかちかと暗闇に細かい緑色の閃光が走り、くらりとする。病気的な暑さも日射も、普段外に出て運動などしない英司にとっては脅威だ。
 だが、教室に戻ったとしても、冷房は弱く、何より人口密度でより嫌な熱気を感じる。それよりは風の通る中庭で過ごした方が健全だ。それに英司は、木陰のあるスポットは知っていた。藤棚のある、隅のベンチだ。
 中庭に降り、ベンチを目指す。英司の通う高校は緑化運動に力を入れているためか、中庭の植物も種類が豊富で、どれも鮮やかだ。定番のひまわりが植えられた花壇、グリーンカーテンの役割を果たす朝顔。緑鮮やかな景色は、見慣れていても目を奪われるものだった。
 藤棚が見えると、同時に、真っ白なワイシャツの色も目に飛びこんできた。先客がいた、と英司は目を細める。華奢な、生白い男子学生のようだが、まるで身動きをしない。端末をいじっている様子でもなく、英司は少し不審に思い、足を止めた。
 まさか具合でも悪いのだろうか。ゆっくり近づき、男子生徒を見下ろした。
 なんだ、と目を瞬かせる。そこにいたのは、同級生の男だ。
 英司よりも白く、細い男は、瞼を閉じ、微かに口を開いていた。柔らかな吐息が漏れている。迷彩のように影を落とす藤棚の葉の影とともに、耳にかかる程度の少し長い黒髪が風に揺れた。
 青原育が眠っている。
 第一の感想はそれだった。それだけで、何か思うことがあるわけでもなかった。
 クラスの中で目立つでもなく、好かれもしなければ嫌われてもいない。友達は多分いない。あまり人と一緒にいるところを見ないため、英司はそう確信している。
 英司も関わったことはあまりない。挨拶程度だろう。
 熱中症で気絶しているのでは、と思ったが、不思議と彼は汗をまるでかいておらず、その寝顔は快適そうだ。
 藤棚の下に入ると、確かにここは、光の当たる箇所に比べればはるかに涼しい。全身に流れる汗が、風に包まれて心地がいい。
 英司は青原の隣に腰を下ろした。眠っているのだから、邪魔も何もないだろう。しおりを挟んでいた頁を開き、そのまま読みふけることにした。
 風の音、蝉の声。本に落ちる木の葉の影。草のにおい。少し水気のある土のにおい。何もかもが心地よい。
 贅沢だ。英司は無意識に唇の端が上がったのを感じ、はっとして顔を上げた。どれくらい時間が経っただろう。
 時計、と見渡そうとして、青原の大きな黒目とかち合った。驚いた猫のような瞳孔で、目を瞬かせている。
 いつから起きていたんだ、こいつ。
 英司は顔を逸らし苦々しく眉を寄せ、眼鏡を押し上げた。
「竹町くん」
 お構いなしに、青原の声が飛んできた。渋々振り向くと、彼はまだ真顔でこちらを向いている。
「アイス、食べたくない?」
 英司は瞬いた。ああ、ともなんともつかない返事をしているうちに、彼はすっくと立ち上がり、そのまま渡り廊下まで歩いていった。
 結局、何時だ。
 取り残された英司は呆然と青原の背中を見送り、それから時計を見つけた。まだ十分は、時間がある。
 小さくため息をつき、本を開こうとしたが、どうにも落ち着かずにいた。急に居心地が悪くなり、渡り廊下の方を眺めていると、青原が戻ってきた。アイスを二本手に持ち、悠然とこちらに向かってくる。どうにも決まりが悪く、英司は少し眉を寄せた。

 ソーダ味のアイスを受け取り、口に含むとすでに溶けかけだった。
 青原の方に目をやると、もう半分ほどアイスを食べきっている。よほど渇いていたのだろう。
「熱中症になるぞ」
 英司が口にすると、少し視線を寄越す。
「教室、うるさくて眠れないから」
 気怠げに彼はいった。寝起きのためか、声が微かに潰れている。
「竹町くんこそ珍しいね。いつも図書室に行っているのに」
 なぜ知っているのだろう。口を開きかけ、渡り廊下に目がいった。ここからはよく見渡せる。つまり彼は、このベンチの常連なのだ。
「……もう戻ろう。アイス代も払うよ」
「いいよ、そんなの」
 立ち上がろうとした英司に、彼は笑いかける。青原は一向に立つ気配がない。
「行かないと、遅刻する」
「自習だよ、次」
「だからって、遅れるのはよくない」
「まじめだね……」
 少し上目気味に見つめ、彼は呆れるように口の端を引き上げる。英司は頭に嫌なもやがかかった。
「君は、思ったより不真面目だね」
「そうかな、普通くらいだと思う」
 平然といい肩を小さくすくめる。
 こんな奴だったっけ。あまり話したことがないのだから、わからなくて当然だ。
 混乱して、英司は少し憤った。暑さのせいかもしれない。蝉がうるさいからかもしれない。目の前の華奢な男に妙に、苛立ってしまう。
 それよりも早く、教室に戻りたい。今は一刻も早く。
「何で、図書室に行かなかったの」
「どうでもいいだろ」
「そんなに怒ること?」
 青原は怪訝そうに立ち上がる。
 蝉の声がうるさい。さっきまで意識していなかったのに、耳元にこびりついているようだ。
 英司が口を開きかけると、予鈴が鳴った。
「鳴っちゃった」
 青原は少し俯いた英司の前に回りこむ。申し訳なさそうに眉を下げて、柔らかい声で尋ねる。
「ごめん、でもさ、僕は聞いただけだよ。ただ世間話としてさ、いいと思って……」
「行けなかったんだよ!」
 英司は俯いたまま、怒鳴るように青原の言葉を遮る。
 蝉の声が止んだ。急にしんとすると、遠くに足音が聞こえた。甲高い声が微かに聞こえる。
 青原はその方向を向いた。英司も、つられて渡り廊下の方を見る。見たいわけではないのに。
 同じクラスの男女が、急いで廊下を走っている。どちらとも服装が、乱れている。崩している乱れとは違うのは、誰の目にみても、明らかだった。
 男女が出てきた方向は、図書室のある館だ。
「ああ……」
 青原は納得、ともとれるような、淡い声を上げた。
 英司はまた顔を伏せた。
 入れなかった。
 入れなかったのだ。
 図書室に入る前に気づいた。人の気配がする。普段は人がいても分からないくらい静かなのに。
 閉じられた扉の向こうから声がした。
 地獄ってこういう声だ。そんな、楽しげな声がした。
 本を持つ手が震える。蝉はまた、鳴き始めていた。
「どうでもよくなってこない? ああいうの見ていると。なんか、まじめでいるのとか……」
 青原はどこか冷めた声でいう。英司にはそう聞こえた。
「そんなわけないだろ……」
 英司はずるずると、空気の抜ける風船のように屈み、縮む。
 だって、図書館だぞ。本を読む場所で、勉強をする場所で、静かで、唯一落ち着ける場所で。公共の場所で。「誰もいねーから」じゃ、ねえよ。
 歯を食いしばる。耳が熱い。目頭が熱い。鼻が痛い。泣きたくない。
「むかつく……」
 絞り出した声が、あまりにも弱くて、英司は少し、笑ってしまった。情けないと思われただろう。
 青原の方を振り向けないでいると、彼はそうだね、と声を発した。
「僕、今日図書室の掃除当番なんだよね……」

 翌週、クラスの二席が欠けていた。男女一人ずつ。クラスメイトたちの雰囲気は、少しだけいつもと違っていた。
 二人は、風紀にそぐわない不貞行為で二週間の停学になったらしい。
 もともと素行の良くない生徒で、噂もあったために、ついにばれたか、というような空気が、そこかしこの生徒から感じ取れる。
 英司は、隅の席の青原を見た。
 窓の光が窓枠の影を彼に落としている。
 ふと青原は顔を上げ、英司と目がかち合う。それから特に表情を変えることもなく、一度だけ瞬きをして、引き出しから教科書を取り出した。
 英司はしばらく見ていたが、やがて目を逸らし、黒板に向き直る。
 蝉の声が、窓のそばで聞こえた。どの木にいるのか、英司にはやはりわからなかった。

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