風の街

風の街

 むかしむかし、あるところに少年がおりました。
 そこは寂れた場所で、見えるものといえば風化した白い壁、屋根のない家、誰もいない通り道、死にたくなるような青空だけでした。
 その街はなにもなく開けた場所でしたが、風は吹き抜けませんでした。
 少年は毎日、ぼろぼろになった壁の縁に座り、雲のない空を見上げていました。うっすらとでも雲が見えれば、風が吹いているかどうかを見定めることができるからです。これは、父親からの知恵でした。
 街には今、どれだけ人が残っているのか、少年は知りません。自分と同じ子供がいるか、もし運がよければ、赤子連れの母親ならいるかもしれません。
 そう思ったのも、父親の言葉からでした。
「女子供は、きっと助かる。俺たちがいるから大丈夫だ。……おまえが、母さんを守るんだぞ」
 父親はどこへいったのでしょうか。
 轟音と、目が開けないほどの光に耐え、まぶたが痛くなるほど目をつむり、歯を食いしばっているうちに、街は虫食いだらけになりました。
 呆然としているうちに、日だけは過ぎ、この街の姿だけは、少年の目になじみました。
 帰ったら、また遊んでくれるといったのに。
 少年は煤けた服の裾を小さい手でぎゅっと握りしめ、目にしみる青空の、遠すぎる青に目を凝らしました。
 雲は、ありませんでした。
 風を感じることも。
「君、なにか売ったりしているかい」
 少年が声に振り返ると、若い男が少年を見上げていました。黒髪で、服に着られているという言葉が似合うような、華奢な体型の男でした。男の服装は、少し色や形は違いましたが、父親が着ていた制服とよく似ていました。
「なにか気の紛れるものがあればいいけれど」
 なにもないと首を振ると、男は胸のポケットをたたき、そう、とむなしそうにつぶやきました。
「じゃ……これをあげよう」
 若い男は、よれた煙草の箱を差し出しました。中にはまだ、いくらか細い筒が入っています。
 その煙草のケースには、見覚えがありました。父親の吸っていたものと、同じ銘柄のものでした。
 少年は黙って煙草を受け取ります。かすかに、懐かしいにおいがしました。この人は、父親を知っているのだろうか。少年は煙草の箱を握りしめ、男に向き直りました。けれど、なにも尋ねることはしませんでした。
「君はよく生き残ったよ。ほんとうに」
 若い男は黒髪をかきあげ、ハアと長いため息をつきました。
「じゃ、……ほら、僕に売ってもらおう」
 一本、と手袋を脱ぎ、男は手を差し出しました。
 少年は潰れた箱の隙間から煙草を取り出し、よれよれの煙草を手渡しました。
「ありがとう、ホラ、あっちにもほしそうな奴がいる」
 若い男は、いくつかの小銭を少年の手に置き、顎でしゃくって示しました。
 いつの間にか、兵隊らしき人間の姿が、ちらほらと見えます。あの中に、父親もいるのかもしれない。少年は背筋を伸ばし、集団を見つめました。
 ちらり、と若い男を見ると、煙草に火をつけて、美味しそうに長く息を吐きました。
 少年は、ぬるい小銭を握り、ポケットにしまい壁の縁から飛び降りました。
 ふっと額を、風が撫でました。
 少年は走りました。日で火照った肌を、風が包んでいきます。
 手に握りしめた煙草の箱が、かさかさと鳴りました。

:::

 少年の後ろ姿を見送り、若い男は煙を吐きました。煙草を咥えなおし、じっと煙を見つめます。まっすぐに立ち上る煙が、鼻息で揺らぎます。
「今回の清浄は楽な仕事でしたな」
 通りがけの兵士が、笑いながら話していました。若い男と同じ、制服でした。
「やあ」
 兵士の男はにこやかに男に手を挙げ、挨拶をしました。若い男は腕を組み、壁に身体を預けて目だけを向けました。
 男は壁に沿い、ずるずるとしゃがみこみました。
 煙草の煙が、空へたなびいていきます。
 街に風は吹いていませんでした。
 煙草を握りしめて走り回る少年だけが、風を運び続けていました。

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