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3畳一間の夢

大学生の頃、3畳一間に住んでいた。

ミニマリストが住む都心の3畳ワンルームではなく、神田川の歌詞に出てくる「小さな下宿」に近い部屋だった。「地方出身の貧乏学生が大学進学と同時に上京して住むことになった」というのが主な理由だが、そこに住むことになったのにはもう1つ大きな理由がある。新聞奨学生だったからだ。

聞いたこともないという人がほとんどだろうが、新聞配達をして給与と奨学金(要は生活費と学費)をもらいながら学校に通っている人のことを指す。通学先に近い販売店に配属され、住む場所も提供してもらえる。学生寮のようにトイレ・シャワー共用だったり、運が良ければワンルームタイプのアパートが宿舎として用意されていることもあるらしいが、私の場合は販売所兼所長さん家族の住む家の2階に住むことになった。そこで私にあてがわれたのが3畳一間だった。

畳3帖に押し入れがあるだけの部屋で、冷蔵庫とテレビは自分で用意した。エアコンもなく、自分で買って取り付けることを提案したが、所長さんに早々に却下された。窓を開けて扇風機を強で回しても夏は溶けるくらい暑かったし、蚊にもよく刺された。本当に古い家だったので、Gも出たし、天井裏から足音(多分ネズミか何か)がよく聞こえたし、一度だけ部屋の隅にヤモリがいたこともあった。ちなみに、Gは出るたびに退治したが、ヤモリは考えに考えた上でそのまま放置した。

2階には他にも6畳の部屋が1つ、4畳半の部屋が2つあり、私より何日か先に配属された3人が使っていた。先着順というか、彼女たちの方が合否が分かるのが早かったからだ。"過酷な生活"を共にしている同い年の仲間として仲は良かったし、夕方の業務(翌日の朝刊にいれるチラシを作る作業)をサボる時はお互いにカバーしあっていた。しかし、一人は色恋沙汰で所長さんに迷惑をかけたとかで、あとの二人は学業と両立するのが難しくなったとかで最初の2年で辞めていった。そのタイミングで部屋を変わってもよいと言われたが、2年生活して愛着がわいていたこともあり、その話は結局断った。

そういえば、3人辞めたのだから新しい人も3人入ってくるのかと思いきや、息子として仕事を手伝っていた所長さんの長男が新聞奨学生として業務に携わるようになったり、配達区域の配分を見直したりで、入ってきたは1人だった。

その唯一の新人さんがかなりの曲者だった。2階には共用の和式トイレがあり、トイレットペーパーは順番に購入していた。また、お風呂はなかったので近くの銭湯に通っていた。それがその曲者とどう関係があるかって?
彼はその販売所で働いていた1年間、一度もトイレットペーパーを買わなかったし、銭湯に行くこともなかったし、部屋にゴミを溜めるばかりで自分で捨てることはなかったのだ。私が背負った”経済的負担”はいいとして、想像を絶する香害に耐えることになったし、翌年彼の後任で入り、彼と同じ部屋を使うことになった女性が「部屋にすんごい数の蟻がいる!なんで!?」って夏に涙目で聞いてきても真実は伝えられなかった。ちなみに、その彼とは「はじめまして。」「こちらこそ、どうぞよろしく。」以降、会話することは二度となかった。

そんなこんなで、大学を卒業するまでの4年間をその3畳一間で過ごした。色々と大変だったが、絶対に4年で卒業するんだという強いモチベーションを保てたのは、あの部屋で生活していたおかげとも言える。もう二度とあの環境では生活したくないとも思うが、それより良ければすぐ順応できるし、快適に過ごせるのは、あの部屋での生活経験があるからだとも思う。そしてなによりも、あの部屋で過ごしている自分をいまだに夢でよく見る。夢の内容は記憶として定着されやすくなるらしいが、夢に見なくともあの生活を忘れることは絶対にない自信がある。なのに頻繁に夢に見る。それが不思議で不思議で仕方ない。



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