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立志篇(Ⅲ)

筆者‐大芝太郎(2006年-志信会公式サイト「大西信弥物語」に連載)】

>>>前号より続く

5.絶頂、そして・・・

 16歳の時から念願だった彼女との結婚を果たした大西は、愛に溢れた、本当に幸せな時を過ごしていました。
しかし、この幸せな結婚生活は 2 年後、突然終わりを告げます。
子供ができることを楽しみにしていた二人にとって、なかなか子供ができないことが日に日に大きな重圧になっていきました。そして、思い悩んだ挙句、病院で検査を受けることにしました。
それでも、そのときは「原因さえ分かれば対処の仕方はある」と信じていました。しかし、大西に告げられた事実は、「突発性無精子症」 ( 当時、 10 万人にひとりもいないといわれた症状 ) で、半年にわたる検査を経てもその原因の特定ができない、完全無精子の状態で、生涯子供に恵まれる可能性は 0 %という診断でした。  

 「自分に子供ができない原因があり、しかも医学では対処の仕様がない」という事実は、23 歳の彼を打ち砕きます。
「このままでは心から子供ができることを楽しみにしていた彼女を不幸にしてしまうのではないか」という思いに取り憑かれ、自分の存在価値にさえ疑問を持ち始めてしまった大西は、この時から数年間、「自分は何のためにこの世に生まれてきたのか?」分からなくなってしまいます。
「私は子供ができなくても、幸せよ」そう妻に語りかけられると余計自分がいたたまれなくなり、大西はその翌年、最愛の妻との別れを決意し、逃げるように逃げるように日本を飛び出し、欧州各国を放浪することになります。 

-写真- MC企画所属タレント名鑑より(22歳)

6.欧州へ・・・

 大西が最初に目指した渡航先は、かつてプロを目指し、心から愛していたゴルフの発祥の地、英国でした。
もっとも初めから“海外”に行こうと思っていたわけではありません。今の辛さからただただ逃れたくて、言葉や文化、習慣などすべてを変えられる海外に飛び込むことを決めました。
それまで数年間、英会話教室に通い続けていたこともあり、大西は半年足らずの間に日常会話には、さほど困らない状態になっていました。 

 -写真-  テレサとロンドンにて(1984年・24歳)

 この間、本当にたくさんの思い出深い出来事がありました。なかでも、 '84 年の初秋、ロンドンの語学学校で、日本でも人気のあったテレサ・テンとクラスメイトとなり、日々、お互いの境遇や日本、アジアについて語りあったことは、今も忘れることが出来ません。当時はまだ、大西には彼女の憤りの奥底にあったものが分かりませんでした。でもその後、彼女が命を賭けた政治活動~早逝し、大西が政治に関わることになった今は、少しだけ理解できます。

 この頃の大西は、英国の生活習慣に馴染むために街のジムに通い地元の屈強な若者とともにバーベルを持ち上げる日々が続き、ベンチプレスは最高 120kg まで差し上げていました。
 
  ようやく英国での生活にも慣れてきたころ、心に芽生えた“ゆとり”が大西を苦しめはじめました。そして、脅迫観念に駆られた大西は、その数週間後、荷物をまとめ英国で知り合った友人を頼ってフランスへ渡っていきます。

次号に続く>>>

-写真- バス通学の日々(1984年・24歳)

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