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第59話.エンブレムは誰のため

1972年

「これじゃ、読めないじゃないか」と本田さん。「ホンダH1300クーペ」の車体前部側面に、乗用車用として初めて独自開発した機械式フューエル・インジェクション(燃料噴射装置)のエンブレム(表象)を、どの辺りに取り付けるかを検討していた。
この装置は、エンジンを高性能化するもの。精巧で、精密で、先進的というイメージを出したかった。そこで、クロームメッキを施した細身のローマンタイプの字体に地色は艶消しの黒とし、上品で高級な感じが出るように工夫。エンブレムは、他車のものと比較して随分大きくしたのに、と不服そうな顔をしていると追い打ちをかけるように、「ちゃんと読めるようにしなさい!」と強い口調でたしなめられた。
「読めないかなあ」ともう一度眺めてみる。大きさが足りないのか、字体が悪いのか、処理がいけないのか、とにかく急いで対策することにした。まずは大きさを思い切って2倍くらいにしてみる。が、「これじゃ大きすぎる」と言われると思いきや、「デザイナーの勝手で、つくられてたまるか」と、またもやきつく叱られてしまった。
理由はこうである。この技術は、設計者が苦労に苦労を重ねて開発したホンダが世界に誇れるシステム。が、外から見て、お客さんはボンネットの中にどんな素晴らしい技術が入っているか分からない。つくった連中も胸を張って威張りたいはずだ。だのに君たちデザイナーは、お客さんの気持ちもつくった人のことも考えず自分勝手にデザインしてやがる、ということらしい。
またしても大反省。大きさだけでなく表現方法にも問題があったようだ。一つには、シンプルすぎて手が込んでいるように見えない。二つには、メッキの文字が光の当たり方によって黒くなり、地色の黒に同化してしまう。三つには、字体のローマンタイプはセリフ(ヒゲ状の飾り)が煩雑で読みづらい。
結局、大きさは長さで300ミリ近くに、字体は見やすいゴシック体にしたうえ立体的にし、文字が目立つような地色を選び、やっと「よかろう」ということになった。その上さらに、リアガラスに大きなワッペンを貼ることになる。私など「ちょっと、やりすぎでは」と、さすがに恥ずかしさが先に立った。
が、発売後に、この技術を開発した連中から、報われた気持ちだと礼を言われた時には、照れくさい気持ちと同時に、「エンブレム一つで、こんなに喜んでもらえるんだ」と気を引き締めたものである。

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