マガジンのカバー画像

千字薬-本田宗一郎から学んだことども-Ⅲ.1980年代

61
ホンダのカー・デザイナーとして、経営陣のひとりとして、デザインと経営を見つめてきた経験を1エピソード、千字で書き綴った連載。(初出:1998年) 1980年代(40代–不惑)
運営しているクリエイター

#ホンダアコード

第139話.乾坤一擲

1987年 休日だというのに研究所幹部が集まり、4代目「ホンダアコード」の企画で激論が続く。…

岩倉信弥
3年前
3

第140話.二刀流

1988年 年に一度の商品戦略会議の席で、4代目「ホンダアコード」のエンジンをどうするかで議…

岩倉信弥
3年前
3

第138話.隠し腹

1987年 料亭「新玉」の会議から4年近くの時を経て、「栃木研究室」は「栃木センター」に大き…

岩倉信弥
3年前
1

第115話.エアロデッキ誕生

1983年3代目「ホンダアコード」4ドアセダンのコストを、目標値におさめるため、急遽サスペンシ…

岩倉信弥
4年前
2

第114話.ダブル・ウィッシュボーン・サス

1983年プレリュードのような低全高スタイルを求め、前後のシートの位置を下げ、しかもファミリ…

岩倉信弥
4年前
1

第105話.バッテリー

1983年ホンダらしいスポーティイメージをもつ若者向けの3ドアを、何とか実現して欲しいという…

岩倉信弥
4年前
2

第104話.ヤング・アコード

1893年3代目「ホンダシビックシリーズ」のデザインが、そろそろ仕上がろうという頃、「アメリカの研究所から電話があってね」と本田技研専務から。すぐに、Oさんからだと思った。彼は、初代シビックの開発でインテリアデザインの責任者だったチームメイト。「また大変なことになるかな」との予感がした。 これまで彼から電話があると、必ずと言っていいくらい大仕事となる。何度かこうことを重ねながら、初代のシビックやアコードはアメリカの市場で育ってきた。それだけ彼の情報が的確で、その直感力の凄さは