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見送るということ #3

坊さんと火葬場の都合で、逝去から3日後となった父の葬儀。事前に家族葬でと決めていた。もっと言えば、死期が迫ってきてから、生前相談という形で葬儀屋に式の内容について取り決めていた。
葬式の予約なんて縁起でもないという向きもあるだろう。しかし、逝去直後からのあれこれを思えば事前に決めておいた方が慌てずに済む、と考えた。

葬儀の事前相談では、葬儀という儀式の値段に驚いた。
あらゆるものに値段がつけられ、金額にランクがある。納棺時に故人が着る装束も、中華製、日本製がある。さらに国産であっても化学繊維か正絹か、仕立てが豪華か普通かと様々にランク付けがされている。生花然り、祭壇も然り。

葬式は故人のためでなく、遺された人間の見栄のために挙行するんだと変に納得した。
ウチの場合はというと、とにかくコストカットした。
守り刀?イッチバン安いやつで。
装束?中華製で十分、どうせ燃やすから。
故人の想い出コーナー?要りません。思い出ごと火葬します。
そんな感じ。
家族の見栄のためにカネを使うのは違和感があったし、父もそう思うだろう(と勝手に解釈した)。

家族葬なので、弔問客は少ないだろうと予想していたが、それに反して数十人もの方々が参列してくれた。新聞のお悔やみ欄を見たらしい。
会社員を長く勤めていた父の元同僚、長く音信不通だった近所の親戚(笑)。多くの顔が並ぶ。
しかし、昨今のコロナ禍を鑑みて三密は避ける葬式を心がけていたため、葬儀で線香を手向けるだけで退出する人も多い。焼香の列も回転が早い。
これもウィズコロナのスタンダードになるのだろう。
ニューノーマルを葬儀に見た。
少し情緒に欠けると思った。

やっぱり世界は三密で回っている。

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