感覚の解放

ここにあるのは
感覚を解放したあとに感じることはデメリットが多く残る

主観的に本当に“キレイ”だと感じるものを“キレイ”だと言うにはそんなに度胸がいることなのだろうか

それぞれにやりたいことってある
謎に出来ないという現実がある

それに関係しているのは客観的に縛りつけられた感覚だ

世間様が言うところのソレと
わたくしが思うところのソレ

食い違いがあると角が出そうだから黙っておこう、合わせておこう

サイレントマジョリティー(物言わぬ多数派)はこうやって増えていく

そんななかで封印された感覚を解放しようというわたしのコンテンツはそういった人に対してはテロのようなものなのだろうか
そんな恐れはある

“キレイ”なものを“キレイ”と感じられること

経済活動にはこの感覚が伴って欲しい


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